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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第五章:目が、増えていく

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第四十話「椅子が、一つ増える」

 着任百三日目の朝。


 執務所の前に、二人の若者が並んで立っていた。


 補助者の採用試験だった。


 一人は男、名をヨナスといった。市場町で帳簿仕事の経験があるという。


 もう一人は女、名をミラといった。近くの農家の生まれで、字は父から習ったと言った。


「試験は二つです。最初は、簡単な文書の書き写しと数字の転記です」


 ロイドが説明した。


「間違いに気づいたら、隠さず申告してください。間違えたこと自体は、減点しません」


「減点しない、というのは」


 ヨナスが尋ねた。


「間違えた上で、隠したり、気づかないふりをすることを、良しとしないということです」


「気づかなければ、申告のしようがありませんが」


「気づく力も、含めて見ています」


 ロイドは、それ以上は説明を重ねなかった。


 二人が、それぞれ机に着いた。


 ヨナスは、淀みなく書き写した。字も整っていた。


 最後まで、間違いの申告はなかった。


 ミラは、途中で手を止めた。


「数字を一つ、写し間違えました」


 自分から言った。


「六と八を、間違えました。ここです」


 指で示した箇所は、確かに写し間違いだった。


 ロイドが確認する。


「気づいたのは、いつですか」


「書き終えてから、もう一度見直した時です」


「見直さなければ、気づきませんでしたか」


「見直さなければ、わかりません。ですから、必ず見直します」


 ライルは、二人の答案を並べて見た。


 ヨナスの答案は、間違いがなかった。


 ミラの答案には、一箇所の訂正線があった。


「ヨナス殿の答案には、間違いがありません」


 ロイドが言った。


「正確でした。ミラ殿は、見直しをいつも行いますか」


「はい。父に、必ず一度は見直せと言われて育ちました」


「では、二つ目へ進みます」


 ロイドが、別の紙を二人の前へ置いた。


 官倉への搬入記録を模したものだった。


 上段には、袋数の内訳。


 下段には、合計。


 内訳を足せば、二十九袋になる。


 だが、合計欄には三十袋と書かれていた。


「この内容を、搬入台帳の定型欄へ移してください」


 それだけを伝えた。


 二人は、もう一度紙へ向かった。


 ヨナスは内訳を足し、合計欄の三十を二十九に直して転記した。


 答案だけを見れば、数字は合っている。


 ミラは、数字を書きかけたところで手を挙げた。


「元の紙の、内訳と合計が合いません」


「どちらが正しいと思いますか」


 ロイドが尋ねた。


「わかりません。足せば二十九ですが、書き漏らした一袋があるかもしれません」


「では、どうしますか」


「元の記録を作った人に確認します。確認できるまでは、どちらも残します」


 ロイドが頷いた。


 二人が書き終えた後、ライルは答案を並べた。


 ヨナスの紙には、二十九袋とだけある。


 ミラの紙には、内訳二十九、原記録合計三十、要確認と書かれていた。


「ヨナスさん。合計を直した理由を聞いてもいいですか」


「計算が合わなかったからです。内訳を足した数字が正しいかと」


「元の記録へ確認は」


「この程度なら、直して構わないと思いました」


 手際はよい。


 計算もできる。


 だが、元の数字と違うものを、誰にも知らせず正しい形へ整えている。


 それは、この執務所で最も避けなければならない処理だった。


---


 二人が退出した後。


「どちらを選びますか」


 ロイドが尋ねた。


「ミラさんです」


「最初の試験では、間違いがあった方を」


「自分の間違いを見つけて言えました。それに、二つ目の試験で、元の記録を勝手に直さなかった」


 ライルは言った。


「ここで任せる仕事に、判断は含めません。ですが、間違いに気づいて言えるかどうかは、判断とは別の資質です」


「ヨナス殿は、字も計算も優秀でした」


「はい。ですが、元の記録の不一致を、自分の判断だけで消しました」


 間違いを直したつもりでも、消えた一袋が本当に書き漏らしだったなら、新しい誤りを作ることになる。


「この執務所で必要なのは、間違えない人ではありません。自分の間違いを隠さず、元の記録がおかしい時には、おかしいまま知らせられる人です」


 速さや見栄えよりも、確かめる順番を守れること。


 その違いで選んだ。


「ヨナスさんにも、結果と理由を伝えてください」


「不採用だけを知らせるのではなく」


「はい。能力が足りなかったのではなく、今回の職務で求める手順と合わなかったと伝えます」


「ミラさんに、決定を伝えます」


「明日から、来てもらってください」


---


 昼前、ミラが正式に採用の知らせを受けた。


「務まるか、わかりません」


 緊張した面持ちで言った。


「務まるかどうかより、続けられるかどうかです」


 ライルが言った。


「わからないことは、わからないと言ってください。それだけで、十分です」


「それから、原本と写しが違う時は、自分で正しい方を決めないでください」


「両方を残して、確認する」


 ミラが答えた。


「はい」


 ロイドが横から言った。


「私も、最初はそうでした」


 ミラが少し驚いた顔をした。


「今のロイド様からは、想像できません」


「私も、最初の頃を知る人に、同じことを言われます」


 ロイドは、少しだけ笑った。


 九十日以上前、諦めた目で受付に座っていた男が、今は新しい人を迎える側にいる。


 ヴェクが、ミラの座る机を拭きながら言った。


 机は、受付の奥に新しく置かれていた。


 着任した頃には、書類の山に半分埋もれていた場所だった。


「帳面は、九冊あります。最初から全部を覚えようとしなくて大丈夫です」


「そんなに、あるんですか」


 ミラの顔が少し強張った。


「総目録という一覧があります。迷ったら、まずそこを見てください」


「私も、最初は一冊だけで一杯一杯でした」


 ヴェクが言った。


「今は」


「今も、一杯一杯です。ただ、迷った時にどこを見ればいいかは、わかるようになりました」


 完璧に覚えることを求められているのではない。


 迷った時に、頼れる場所があること。


 それが、この執務所のやり方だった。


---


 午後、監査室からの書状が届いた。


 現地閲覧の結果について、局内での検討を継続する、という内容だった。


 処分の方向性、結論の時期については、いずれも明記されていない。


「結論は、出ませんでしたね」


 ダグラスが言った。


「出なかった、というより、まだ出す段階ではない、ということだと思います」


 ライルは言った。


「不安には」


「なりません。渡せるものは、すべて渡しました。あとは、向こうの時間です」


 急かしても、結論が早まるわけではない。


 待つことと、何もしないことは、違う。


---


 夕刻、北西の貴族家への回答をまとめた。


「継続取引の件、どう返しますか」


 ロイドが尋ねた。


「受けます。ただし、条件付きです」


 ライルは言った。


「初回は六十袋ではなく、二十袋に絞ります」


「量を減らすのですか」


「はい。今回の取引が約束通りに終わるかどうかを、まず確かめます」


 隊商との最初の取引と、同じ形だった。


 全部を一度に信じるのではなく、小さく始めて、実績で測る。


「もう一つ、条件を加えます」


「何でしょう」


「今後、分家、あるいは商会との関係に変化があれば、事前に開示していただくこと」


「本家が、それに応じるでしょうか」


「応じなければ、それも一つの答えです」


 受けるとも、拒むとも言わない相手に対して、条件を重ねて返す。


 答えなければ、答えないことが記録される。


「継続の可否は、来年、あらためて判断します」


 ライルは書状に署名した。


---


 夜、ライルは手帳とは別の紙を広げた。


 このところ増えた、外からの視線を整理するためだった。


 帝国内政調整局監査室。


 現地閲覧は終わったが、結論はまだ出ていない。継続審議。


 北西の貴族家。


 継続取引を条件付きで受諾。二十袋、来年再判断。分家との関係は要開示。


 北西の貴族家、分家。


 ヴォルツの新しい接触先と、紋の一致を確認。本家がどこまで把握しているかは不明。


 南通り穀物商会、ヴォルツ。


 表向きの新たな妨害は確認できず。分家との接触を示す可能性のある紋章記録あり。


 四つの目が、机の上に並んだ。


 それぞれ、目的も、距離も、脅威の質も違う。


 だが、共通していることが一つあった。


 どれも、ヴォルツ一人を調べた時と同じ方法で扱える相手ではなかった。


 制度、家格、権限——それぞれの形に守られながら、ガルダを見ている。


 ロイドが、遅くまで残って紙を覗き込んだ。


「並べてみると、多いですね」


「多いです」


「怖くはありませんか」


 第三十三話で、貴族家の使者に同じことを聞かれた時のことを思い出した。


「怖いというより」


 ライルは少し考えた。


「一つずつなら、対応できます。同時に来ても、順番をつければ対応できます」


「順番を、間違えたら」


「間違えないように、記録します」


 ロイドは頷いた。


「以前のヴォルツ様一人の頃の方が、単純でしたね」


「単純でした。ですが、単純だから楽だったわけではありません」


 あの頃は、選択肢がヴォルツしかなかった。


 今は、選択肢が増えた分だけ、判断も増えた。


 どちらが良いかは、単純には言えない。


 ライルは、その紙をしばらく見つめた。


---


 同じ夜、ゲオルグとニルスが水路沿いで立ち話をしていた。


 ロイドが遅くまで灯りをつけている執務所の窓を見て、ニルスが言った。


「あの窓、着任した頃より、遅くまで灯っていますね」


「仕事が増えたんだろう」


「悪いことじゃない」


 ゲオルグが応じた。


「灯りが消えている執務所より、ずっといい」


 二人は、それ以上は話さず、それぞれの家へ帰っていった。


---


 夜半、ライルは手帳を開いた。


 着任百三日目。


 補助者、ミラを採用。明日より勤務。


 監査室、継続審議の通知。結論の時期、明記なし。


 北西の貴族家、継続取引を条件付き(初回二十袋、分家関係の開示義務、来年再判断)で受諾。


 整理紙、四つの視線(監査室・貴族家本家・商務分家・商会)を記載。


 ペンを止めた。


 着任してから、百三日が経った。


 最初は、割れた窓と、幽霊のような役人が二人いるだけの執務所だった。


 今は、記録が九冊を超え、椅子が一つ増え、外から見る目も増えた。


 増えた目のどれも、まだ味方とも敵とも決められない。


 だが、ヴォルツ一人を相手にしていた頃とは、明らかに違う段階に入っていた。


 一つの商会の不正を暴けば済む話ではなくなっている。


 家。分家。商会。帝国の一部署。


 それぞれが、別の理由で、別の形でガルダに関わっている。


 この土地だけの話ではないのかもしれない。


 ライルは、その考えを、確信にはしなかった。


 まだ、材料が足りない。


 だが、記録には残しておく。


 いつか、線がつながる時のために。


 ライルは最後に一行だけ書いた。


 椅子が、一つ増えた。増えた人が迷わず仕事を始められる形も、ここに残す。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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