第四十話「椅子が、一つ増える」
着任百三日目の朝。
執務所の前に、二人の若者が並んで立っていた。
補助者の採用試験だった。
一人は男、名をヨナスといった。市場町で帳簿仕事の経験があるという。
もう一人は女、名をミラといった。近くの農家の生まれで、字は父から習ったと言った。
「試験は二つです。最初は、簡単な文書の書き写しと数字の転記です」
ロイドが説明した。
「間違いに気づいたら、隠さず申告してください。間違えたこと自体は、減点しません」
「減点しない、というのは」
ヨナスが尋ねた。
「間違えた上で、隠したり、気づかないふりをすることを、良しとしないということです」
「気づかなければ、申告のしようがありませんが」
「気づく力も、含めて見ています」
ロイドは、それ以上は説明を重ねなかった。
二人が、それぞれ机に着いた。
ヨナスは、淀みなく書き写した。字も整っていた。
最後まで、間違いの申告はなかった。
ミラは、途中で手を止めた。
「数字を一つ、写し間違えました」
自分から言った。
「六と八を、間違えました。ここです」
指で示した箇所は、確かに写し間違いだった。
ロイドが確認する。
「気づいたのは、いつですか」
「書き終えてから、もう一度見直した時です」
「見直さなければ、気づきませんでしたか」
「見直さなければ、わかりません。ですから、必ず見直します」
ライルは、二人の答案を並べて見た。
ヨナスの答案は、間違いがなかった。
ミラの答案には、一箇所の訂正線があった。
「ヨナス殿の答案には、間違いがありません」
ロイドが言った。
「正確でした。ミラ殿は、見直しをいつも行いますか」
「はい。父に、必ず一度は見直せと言われて育ちました」
「では、二つ目へ進みます」
ロイドが、別の紙を二人の前へ置いた。
官倉への搬入記録を模したものだった。
上段には、袋数の内訳。
下段には、合計。
内訳を足せば、二十九袋になる。
だが、合計欄には三十袋と書かれていた。
「この内容を、搬入台帳の定型欄へ移してください」
それだけを伝えた。
二人は、もう一度紙へ向かった。
ヨナスは内訳を足し、合計欄の三十を二十九に直して転記した。
答案だけを見れば、数字は合っている。
ミラは、数字を書きかけたところで手を挙げた。
「元の紙の、内訳と合計が合いません」
「どちらが正しいと思いますか」
ロイドが尋ねた。
「わかりません。足せば二十九ですが、書き漏らした一袋があるかもしれません」
「では、どうしますか」
「元の記録を作った人に確認します。確認できるまでは、どちらも残します」
ロイドが頷いた。
二人が書き終えた後、ライルは答案を並べた。
ヨナスの紙には、二十九袋とだけある。
ミラの紙には、内訳二十九、原記録合計三十、要確認と書かれていた。
「ヨナスさん。合計を直した理由を聞いてもいいですか」
「計算が合わなかったからです。内訳を足した数字が正しいかと」
「元の記録へ確認は」
「この程度なら、直して構わないと思いました」
手際はよい。
計算もできる。
だが、元の数字と違うものを、誰にも知らせず正しい形へ整えている。
それは、この執務所で最も避けなければならない処理だった。
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二人が退出した後。
「どちらを選びますか」
ロイドが尋ねた。
「ミラさんです」
「最初の試験では、間違いがあった方を」
「自分の間違いを見つけて言えました。それに、二つ目の試験で、元の記録を勝手に直さなかった」
ライルは言った。
「ここで任せる仕事に、判断は含めません。ですが、間違いに気づいて言えるかどうかは、判断とは別の資質です」
「ヨナス殿は、字も計算も優秀でした」
「はい。ですが、元の記録の不一致を、自分の判断だけで消しました」
間違いを直したつもりでも、消えた一袋が本当に書き漏らしだったなら、新しい誤りを作ることになる。
「この執務所で必要なのは、間違えない人ではありません。自分の間違いを隠さず、元の記録がおかしい時には、おかしいまま知らせられる人です」
速さや見栄えよりも、確かめる順番を守れること。
その違いで選んだ。
「ヨナスさんにも、結果と理由を伝えてください」
「不採用だけを知らせるのではなく」
「はい。能力が足りなかったのではなく、今回の職務で求める手順と合わなかったと伝えます」
「ミラさんに、決定を伝えます」
「明日から、来てもらってください」
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昼前、ミラが正式に採用の知らせを受けた。
「務まるか、わかりません」
緊張した面持ちで言った。
「務まるかどうかより、続けられるかどうかです」
ライルが言った。
「わからないことは、わからないと言ってください。それだけで、十分です」
「それから、原本と写しが違う時は、自分で正しい方を決めないでください」
「両方を残して、確認する」
ミラが答えた。
「はい」
ロイドが横から言った。
「私も、最初はそうでした」
ミラが少し驚いた顔をした。
「今のロイド様からは、想像できません」
「私も、最初の頃を知る人に、同じことを言われます」
ロイドは、少しだけ笑った。
九十日以上前、諦めた目で受付に座っていた男が、今は新しい人を迎える側にいる。
ヴェクが、ミラの座る机を拭きながら言った。
机は、受付の奥に新しく置かれていた。
着任した頃には、書類の山に半分埋もれていた場所だった。
「帳面は、九冊あります。最初から全部を覚えようとしなくて大丈夫です」
「そんなに、あるんですか」
ミラの顔が少し強張った。
「総目録という一覧があります。迷ったら、まずそこを見てください」
「私も、最初は一冊だけで一杯一杯でした」
ヴェクが言った。
「今は」
「今も、一杯一杯です。ただ、迷った時にどこを見ればいいかは、わかるようになりました」
完璧に覚えることを求められているのではない。
迷った時に、頼れる場所があること。
それが、この執務所のやり方だった。
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午後、監査室からの書状が届いた。
現地閲覧の結果について、局内での検討を継続する、という内容だった。
処分の方向性、結論の時期については、いずれも明記されていない。
「結論は、出ませんでしたね」
ダグラスが言った。
「出なかった、というより、まだ出す段階ではない、ということだと思います」
ライルは言った。
「不安には」
「なりません。渡せるものは、すべて渡しました。あとは、向こうの時間です」
急かしても、結論が早まるわけではない。
待つことと、何もしないことは、違う。
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夕刻、北西の貴族家への回答をまとめた。
「継続取引の件、どう返しますか」
ロイドが尋ねた。
「受けます。ただし、条件付きです」
ライルは言った。
「初回は六十袋ではなく、二十袋に絞ります」
「量を減らすのですか」
「はい。今回の取引が約束通りに終わるかどうかを、まず確かめます」
隊商との最初の取引と、同じ形だった。
全部を一度に信じるのではなく、小さく始めて、実績で測る。
「もう一つ、条件を加えます」
「何でしょう」
「今後、分家、あるいは商会との関係に変化があれば、事前に開示していただくこと」
「本家が、それに応じるでしょうか」
「応じなければ、それも一つの答えです」
受けるとも、拒むとも言わない相手に対して、条件を重ねて返す。
答えなければ、答えないことが記録される。
「継続の可否は、来年、あらためて判断します」
ライルは書状に署名した。
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夜、ライルは手帳とは別の紙を広げた。
このところ増えた、外からの視線を整理するためだった。
帝国内政調整局監査室。
現地閲覧は終わったが、結論はまだ出ていない。継続審議。
北西の貴族家。
継続取引を条件付きで受諾。二十袋、来年再判断。分家との関係は要開示。
北西の貴族家、分家。
ヴォルツの新しい接触先と、紋の一致を確認。本家がどこまで把握しているかは不明。
南通り穀物商会、ヴォルツ。
表向きの新たな妨害は確認できず。分家との接触を示す可能性のある紋章記録あり。
四つの目が、机の上に並んだ。
それぞれ、目的も、距離も、脅威の質も違う。
だが、共通していることが一つあった。
どれも、ヴォルツ一人を調べた時と同じ方法で扱える相手ではなかった。
制度、家格、権限——それぞれの形に守られながら、ガルダを見ている。
ロイドが、遅くまで残って紙を覗き込んだ。
「並べてみると、多いですね」
「多いです」
「怖くはありませんか」
第三十三話で、貴族家の使者に同じことを聞かれた時のことを思い出した。
「怖いというより」
ライルは少し考えた。
「一つずつなら、対応できます。同時に来ても、順番をつければ対応できます」
「順番を、間違えたら」
「間違えないように、記録します」
ロイドは頷いた。
「以前のヴォルツ様一人の頃の方が、単純でしたね」
「単純でした。ですが、単純だから楽だったわけではありません」
あの頃は、選択肢がヴォルツしかなかった。
今は、選択肢が増えた分だけ、判断も増えた。
どちらが良いかは、単純には言えない。
ライルは、その紙をしばらく見つめた。
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同じ夜、ゲオルグとニルスが水路沿いで立ち話をしていた。
ロイドが遅くまで灯りをつけている執務所の窓を見て、ニルスが言った。
「あの窓、着任した頃より、遅くまで灯っていますね」
「仕事が増えたんだろう」
「悪いことじゃない」
ゲオルグが応じた。
「灯りが消えている執務所より、ずっといい」
二人は、それ以上は話さず、それぞれの家へ帰っていった。
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夜半、ライルは手帳を開いた。
着任百三日目。
補助者、ミラを採用。明日より勤務。
監査室、継続審議の通知。結論の時期、明記なし。
北西の貴族家、継続取引を条件付き(初回二十袋、分家関係の開示義務、来年再判断)で受諾。
整理紙、四つの視線(監査室・貴族家本家・商務分家・商会)を記載。
ペンを止めた。
着任してから、百三日が経った。
最初は、割れた窓と、幽霊のような役人が二人いるだけの執務所だった。
今は、記録が九冊を超え、椅子が一つ増え、外から見る目も増えた。
増えた目のどれも、まだ味方とも敵とも決められない。
だが、ヴォルツ一人を相手にしていた頃とは、明らかに違う段階に入っていた。
一つの商会の不正を暴けば済む話ではなくなっている。
家。分家。商会。帝国の一部署。
それぞれが、別の理由で、別の形でガルダに関わっている。
この土地だけの話ではないのかもしれない。
ライルは、その考えを、確信にはしなかった。
まだ、材料が足りない。
だが、記録には残しておく。
いつか、線がつながる時のために。
ライルは最後に一行だけ書いた。
椅子が、一つ増えた。増えた人が迷わず仕事を始められる形も、ここに残す。
蝋燭を消した。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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