第三十八話「原本は、渡さない」
着任九十一日目。
監査室の現地閲覧を、明日に控えていた。
ライルはロイド、ダグラス、ヴェクを集めた。
「明日の役割を、最後に確認します」
「原本は施錠棚のままですね」
ロイドが確認する。
「はい。閲覧はこの部屋で行います。持ち出しは認めません」
「閲覧の前後で、頁数と綴じ目も確認します」
ロイドが、原本受払記録の欄を指した。
「出した時刻、戻した時刻、閲覧者、立会人。異常がなかったことまで残します」
「お願いします」
「立会いは」
「水路修繕記録は、ロイド一名。農地移動記録・証言記録・別帳は、私とロイドの二名」
「ダグラスは」
「証言者として呼ばれる可能性があります。呼ばれたら、以前と同じことを話してください」
「以前の記録は、読み返さない方がいいですか」
ダグラスが尋ねた。
「はい。記憶にあることをそのまま話してください。違いがあれば、それも記録します」
「承知しました」
ヴェクには、当日の受付と閲覧範囲の掲示を頼んだ。
「閲覧の目的欄に書かれていない記録は」
「求められても、この場ではお見せしません。改めて目的を書面でいただきます」
「融通記録や取引先候補記録も、対象に含まれますか」
ヴェクが尋ねた。
「今回の閲覧目的には含まれていません。求められても、まずは目的を確認します」
目的の外側にあるものまで、先回りして見せる必要はない。
見せないことは、隠すこととは違う。
「掲示は、明日の朝一番に」
「はい」
特別な準備はしなかった。
いつも通りの帳面を、いつも通りの場所に置くだけだった。
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着任九十二日目。
監査室から二名が来た。
主任監査官、ローデン。
記録官が一名同行していた。
ローデンは四十代半ば、痩せた体格で、眼鏡の奥の目が絶えず動いていた。
挨拶もそこそこに、執務所の中を一瞥した。
「辺境の記録というのは、大抵、体裁だけのものです」
最初の一言だった。
「実際に拝見してから、判断します」
ライルは短く答えた。
「結構」
ローデンは椅子に座らず、棚から離れた場所に立ったまま言った。
「まず、水路修繕記録から」
ロイドが原本を施錠棚から出し、机に置いた。
ローデンは一枚ずつめくり、日付・担当者・確認印を確かめた。
「この確認印は、毎回同じ人物ですか」
「担当者と代行者を、総目録に記載しています」
ロイドが総目録を横に添えた。
「代行者が確認した回は」
「その回に、代行者の印が押されています」
ローデンは目録と原本を交互に見た。
「……よくできています」
褒め言葉ではなかった。
疑いを深めるための確認、という響きだった。
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次に、農地移動記録・証言記録・別帳が出された。
ライルとロイドが立ち会う。
ローデンは別帳を手に取り、しばらく無言でめくった。
「この帳面を、本局へお預かりしたい」
「原本は、ここから動かしません」
ライルは答えた。
「詳細な照合には、局の設備が必要です」
「必要な照合は、この場でお手伝いします。何日でも」
「私には、原本を求める権限があります」
ローデンが言った。
「その権限を示す書面をいただけますか」
ライルは静かに尋ねた。
「口頭のご要望と、正式なご請求は、こちらの対応が変わります」
ローデンの眼鏡の奥が、わずかに動いた。
「……後日、書面で求めます」
「その場合は、規定に従って対応します」
拒んだのではない。
手順を求めただけだった。
「では、写しを追加でお渡しします。作成日、担当者、照合者を明記し、こちらで原本照合印を押します。受領時には、局側の受領印をお願いします」
「そこまでする必要が」
「原本が動けば、その後の管理責任がどこにあるかが曖昧になります。写しであれば、責任の所在を明確にしたまま照合できます」
「管理責任、とおっしゃいますが。局が求めているものを、地方の執務所が拒む形になっていることは、ご存知ですか」
「拒んでいるのではありません。原本の所在を、常に一箇所に保っているだけです」
「同じことでは」
「違います。求められた記録はすべてお見せしています。動かす先を決めていないだけです」
「紛失や差し替えを疑っているのですか」
「誰かを疑っているのではありません」
ライルは答えた。
「疑わなくても済む形にしておきたいのです。原本がどこにあり、誰が触れたかを、後から誰でも確かめられるように」
ローデンは、そこで初めて別帳から手を離した。
ローデンは記録官へ目をやった。
「今のやり取りも、記録に」
「はい」
拒絶ではなく、条件を積み重ねる。
それがローデンにとって、扱いにくい相手だという証だった。
ローデンは何も言わなかったが、記録官に何かを書き取らせた。
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午後、証言記録の再確認が行われた。
最初に呼ばれたのはニルスだった。
「三年前の管理委託の件、もう一度伺います」
ローデンが言った。
「以前の記録と、一言一句同じように話していただけますか」
「同じようには、話せません」
ニルスが答えた。
「言葉は、その時々で違うかもしれません。ただ、あったことは変わりません」
「では、あったことを話してください」
ニルスは、以前と同じ骨子を語った。
急かされて署名したこと。
水路が直ったら戻すと言われたこと。
一年後に名義が変わっていたこと。
細部で、以前とは言い回しが違う箇所があった。
「急かされて」という言葉の順番が変わった。
「一年後」を「あの年の後」と言った。
ローデンがそれを指摘した。
「前回の記録と、細部が違いますね」
「覚えていることを話しています。前と一言一句同じなら、それこそ疑ってください」
ライルが横から言った。
「一言一句を暗記した答えは、証言ではありません。以前の記録の再現です」
「前回との違いは違いとして残し、その上で骨子が変わったかを見てください」
ローデンは記録官の筆を見た。
「土地は、今も戻っていませんね」
ローデンがニルスへ向き直った。
「はい」
「それでも、同じ証言を続ける理由は」
「戻るかどうかと、本当のことを話すかどうかは、別の話だからです」
ニルスは短く答えた。
「戻らなくても、話しますか」
「戻らなくても、話します」
ローデンはしばらくニルスを見ていたが、それ以上は重ねなかった。
「……続けてください」
ニルスの証言は、骨子において揺るがなかった。
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次に、ダグラスが呼ばれた。
「あなたは、以前この不正に関与していましたね」
ローデンが切り出した。
「はい」
ダグラスは即座に答えた。
「隠さず認めるのですね」
「隠す理由がありません。一度、正式に証言しました」
「今、あなたがここで話すことに、信頼性があると思いますか」
「それは、伺う側がお決めになることです」
ダグラスは視線を逸らさなかった。
「私が話せるのは、自分が知っていることと、していたことだけです」
ローデンはしばらく無言でダグラスを見た。
「結構です」
それ以上、追及はなかった。
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夕刻、閲覧が終わった。
ロイドは、机に出した原本を一冊ずつ確認した。
頁数。
綴じ目。
添付された封蝋片。
出した時と変わりがないことを、ローデンと記録官の前で読み上げる。
ローデンは受払記録を確認し、閲覧終了欄へ署名した。
それから、最後の帳面を閉じた。
「本日の閲覧内容は、以上です」
「所感を伺っても」
ライルが尋ねた。
「まだ、申し上げられません」
ローデンは言った。
「調査は継続します。判断は、局に持ち帰ってからです」
フォルケのような、評価の言葉はなかった。
褒めもせず、断定もせず、ただ「継続する」とだけ言った。
「原本の写しは、後日お送りします」
「お願いします」
ローデンと記録官は、挨拶もそこそこに執務所を出ていった。
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二人が去った後。
「厳しい方でしたね」
ヴェクが言った。
「フォルケ様とは、違うやり方でした」
ロイドが言った。
「疑うことが、仕事のやり方なのだと思います」
ライルは言った。
「フォルケ様は、証拠を見て納得する人でした。ローデン様は、納得しないことを前提に確かめる人です」
「どちらが、厳しいですか」
「同じくらいです。ただ、厳しさの向きが違います」
原本を求める要求には、権限と手順を示す書面を求めた。
証言の細部の違いを、むしろ信頼性の証として示した。
ダグラスの過去を隠さなかった。
一つとして、崩れなかった。
「これで、良い方向に進むでしょうか」
ダグラスが尋ねた。
「わかりません」
ライルは正直に答えた。
「継続する、としか言われていません」
「不安ではありませんか」
「不安かどうかより、今できることをやりました」
結果は、まだ渡されていない。
だが、渡せるものはすべて渡した。
「ニルスさんの土地のことは」
ヴェクが尋ねた。
「今日は、証言の再確認だけです」
ライルは言った。
「進んだわけでも、止まったわけでもありません」
「それでも、また誰かが確かめに来た」
ダグラスが言った。
「以前と同じことを、また話す機会があった。それ自体は、悪いことではないと思います」
止まっていないことと、進んでいることは、同じではない。
だが、確かめる者が繰り返し現れるということは、少なくとも忘れられてはいない、ということだった。
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夜。
ライルは手帳を開いた。
着任九十二日目。
監査室、主任監査官ローデン、記録官一名来訪。
水路修繕記録、確認済み。
農地移動記録・証言記録・別帳、確認済み。
別帳の本局への持ち出し要求、権限を示す書面を条件に留保。
写し追加提供、局印による同一性保証を提案。
証言再確認。
ニルス、骨子に変化なし。細部の言い回しに自然な相違あり。
ダグラス、過去の関与を隠さず認める。
監査官所感、「調査は継続する」のみ。判断の言及なし。
ペンを止めた。
原本は、渡さなかった。
証言は、繕わなかった。
それでも、結論はまだ渡されていない。
原本の持ち出しを認めなかった判断が、局内でどう評価されるかは、まだわからない。
だが、所在と責任を曖昧にしなかったことは、後から確かめられる。
ライルは最後に一行だけ書いた。
原本は、渡さない。必要なら、渡さずに確かめられる手順を作る。
蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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