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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第五章:目が、増えていく

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第三十八話「原本は、渡さない」

 着任九十一日目。


 監査室の現地閲覧を、明日に控えていた。


 ライルはロイド、ダグラス、ヴェクを集めた。


「明日の役割を、最後に確認します」


「原本は施錠棚のままですね」


 ロイドが確認する。


「はい。閲覧はこの部屋で行います。持ち出しは認めません」


「閲覧の前後で、頁数と綴じ目も確認します」


 ロイドが、原本受払記録の欄を指した。


「出した時刻、戻した時刻、閲覧者、立会人。異常がなかったことまで残します」


「お願いします」


「立会いは」


「水路修繕記録は、ロイド一名。農地移動記録・証言記録・別帳は、私とロイドの二名」


「ダグラスは」


「証言者として呼ばれる可能性があります。呼ばれたら、以前と同じことを話してください」


「以前の記録は、読み返さない方がいいですか」


 ダグラスが尋ねた。


「はい。記憶にあることをそのまま話してください。違いがあれば、それも記録します」


「承知しました」


 ヴェクには、当日の受付と閲覧範囲の掲示を頼んだ。


「閲覧の目的欄に書かれていない記録は」


「求められても、この場ではお見せしません。改めて目的を書面でいただきます」


「融通記録や取引先候補記録も、対象に含まれますか」


 ヴェクが尋ねた。


「今回の閲覧目的には含まれていません。求められても、まずは目的を確認します」


 目的の外側にあるものまで、先回りして見せる必要はない。


 見せないことは、隠すこととは違う。


「掲示は、明日の朝一番に」


「はい」


 特別な準備はしなかった。


 いつも通りの帳面を、いつも通りの場所に置くだけだった。


---


 着任九十二日目。


 監査室から二名が来た。


 主任監査官、ローデン。


 記録官が一名同行していた。


 ローデンは四十代半ば、痩せた体格で、眼鏡の奥の目が絶えず動いていた。


 挨拶もそこそこに、執務所の中を一瞥した。


「辺境の記録というのは、大抵、体裁だけのものです」


 最初の一言だった。


「実際に拝見してから、判断します」


 ライルは短く答えた。


「結構」


 ローデンは椅子に座らず、棚から離れた場所に立ったまま言った。


「まず、水路修繕記録から」


 ロイドが原本を施錠棚から出し、机に置いた。


 ローデンは一枚ずつめくり、日付・担当者・確認印を確かめた。


「この確認印は、毎回同じ人物ですか」


「担当者と代行者を、総目録に記載しています」


 ロイドが総目録を横に添えた。


「代行者が確認した回は」


「その回に、代行者の印が押されています」


 ローデンは目録と原本を交互に見た。


「……よくできています」


 褒め言葉ではなかった。


 疑いを深めるための確認、という響きだった。


---


 次に、農地移動記録・証言記録・別帳が出された。


 ライルとロイドが立ち会う。


 ローデンは別帳を手に取り、しばらく無言でめくった。


「この帳面を、本局へお預かりしたい」


「原本は、ここから動かしません」


 ライルは答えた。


「詳細な照合には、局の設備が必要です」


「必要な照合は、この場でお手伝いします。何日でも」


「私には、原本を求める権限があります」


 ローデンが言った。


「その権限を示す書面をいただけますか」


 ライルは静かに尋ねた。


「口頭のご要望と、正式なご請求は、こちらの対応が変わります」


 ローデンの眼鏡の奥が、わずかに動いた。


「……後日、書面で求めます」


「その場合は、規定に従って対応します」


 拒んだのではない。


 手順を求めただけだった。


「では、写しを追加でお渡しします。作成日、担当者、照合者を明記し、こちらで原本照合印を押します。受領時には、局側の受領印をお願いします」


「そこまでする必要が」


「原本が動けば、その後の管理責任がどこにあるかが曖昧になります。写しであれば、責任の所在を明確にしたまま照合できます」


「管理責任、とおっしゃいますが。局が求めているものを、地方の執務所が拒む形になっていることは、ご存知ですか」


「拒んでいるのではありません。原本の所在を、常に一箇所に保っているだけです」


「同じことでは」


「違います。求められた記録はすべてお見せしています。動かす先を決めていないだけです」


「紛失や差し替えを疑っているのですか」


「誰かを疑っているのではありません」


 ライルは答えた。


「疑わなくても済む形にしておきたいのです。原本がどこにあり、誰が触れたかを、後から誰でも確かめられるように」


 ローデンは、そこで初めて別帳から手を離した。


 ローデンは記録官へ目をやった。


「今のやり取りも、記録に」


「はい」


 拒絶ではなく、条件を積み重ねる。


 それがローデンにとって、扱いにくい相手だという証だった。


 ローデンは何も言わなかったが、記録官に何かを書き取らせた。


---


 午後、証言記録の再確認が行われた。


 最初に呼ばれたのはニルスだった。


「三年前の管理委託の件、もう一度伺います」


 ローデンが言った。


「以前の記録と、一言一句同じように話していただけますか」


「同じようには、話せません」


 ニルスが答えた。


「言葉は、その時々で違うかもしれません。ただ、あったことは変わりません」


「では、あったことを話してください」


 ニルスは、以前と同じ骨子を語った。


 急かされて署名したこと。


 水路が直ったら戻すと言われたこと。


 一年後に名義が変わっていたこと。


 細部で、以前とは言い回しが違う箇所があった。


 「急かされて」という言葉の順番が変わった。


 「一年後」を「あの年の後」と言った。


 ローデンがそれを指摘した。


「前回の記録と、細部が違いますね」


「覚えていることを話しています。前と一言一句同じなら、それこそ疑ってください」


 ライルが横から言った。


「一言一句を暗記した答えは、証言ではありません。以前の記録の再現です」


「前回との違いは違いとして残し、その上で骨子が変わったかを見てください」


 ローデンは記録官の筆を見た。


「土地は、今も戻っていませんね」


 ローデンがニルスへ向き直った。


「はい」


「それでも、同じ証言を続ける理由は」


「戻るかどうかと、本当のことを話すかどうかは、別の話だからです」


 ニルスは短く答えた。


「戻らなくても、話しますか」


「戻らなくても、話します」


 ローデンはしばらくニルスを見ていたが、それ以上は重ねなかった。


「……続けてください」


 ニルスの証言は、骨子において揺るがなかった。


---


 次に、ダグラスが呼ばれた。


「あなたは、以前この不正に関与していましたね」


 ローデンが切り出した。


「はい」


 ダグラスは即座に答えた。


「隠さず認めるのですね」


「隠す理由がありません。一度、正式に証言しました」


「今、あなたがここで話すことに、信頼性があると思いますか」


「それは、伺う側がお決めになることです」


 ダグラスは視線を逸らさなかった。


「私が話せるのは、自分が知っていることと、していたことだけです」


 ローデンはしばらく無言でダグラスを見た。


「結構です」


 それ以上、追及はなかった。


---


 夕刻、閲覧が終わった。


 ロイドは、机に出した原本を一冊ずつ確認した。


 頁数。


 綴じ目。


 添付された封蝋片。


 出した時と変わりがないことを、ローデンと記録官の前で読み上げる。


 ローデンは受払記録を確認し、閲覧終了欄へ署名した。


 それから、最後の帳面を閉じた。


「本日の閲覧内容は、以上です」


「所感を伺っても」


 ライルが尋ねた。


「まだ、申し上げられません」


 ローデンは言った。


「調査は継続します。判断は、局に持ち帰ってからです」


 フォルケのような、評価の言葉はなかった。


 褒めもせず、断定もせず、ただ「継続する」とだけ言った。


「原本の写しは、後日お送りします」


「お願いします」


 ローデンと記録官は、挨拶もそこそこに執務所を出ていった。


---


 二人が去った後。


「厳しい方でしたね」


 ヴェクが言った。


「フォルケ様とは、違うやり方でした」


 ロイドが言った。


「疑うことが、仕事のやり方なのだと思います」


 ライルは言った。


「フォルケ様は、証拠を見て納得する人でした。ローデン様は、納得しないことを前提に確かめる人です」


「どちらが、厳しいですか」


「同じくらいです。ただ、厳しさの向きが違います」


 原本を求める要求には、権限と手順を示す書面を求めた。


 証言の細部の違いを、むしろ信頼性の証として示した。


 ダグラスの過去を隠さなかった。


 一つとして、崩れなかった。


「これで、良い方向に進むでしょうか」


 ダグラスが尋ねた。


「わかりません」


 ライルは正直に答えた。


「継続する、としか言われていません」


「不安ではありませんか」


「不安かどうかより、今できることをやりました」


 結果は、まだ渡されていない。


 だが、渡せるものはすべて渡した。


「ニルスさんの土地のことは」


 ヴェクが尋ねた。


「今日は、証言の再確認だけです」


 ライルは言った。


「進んだわけでも、止まったわけでもありません」


「それでも、また誰かが確かめに来た」


 ダグラスが言った。


「以前と同じことを、また話す機会があった。それ自体は、悪いことではないと思います」


 止まっていないことと、進んでいることは、同じではない。


 だが、確かめる者が繰り返し現れるということは、少なくとも忘れられてはいない、ということだった。


---


 夜。


 ライルは手帳を開いた。


 着任九十二日目。


 監査室、主任監査官ローデン、記録官一名来訪。


 水路修繕記録、確認済み。


 農地移動記録・証言記録・別帳、確認済み。


 別帳の本局への持ち出し要求、権限を示す書面を条件に留保。


 写し追加提供、局印による同一性保証を提案。


 証言再確認。


 ニルス、骨子に変化なし。細部の言い回しに自然な相違あり。


 ダグラス、過去の関与を隠さず認める。


 監査官所感、「調査は継続する」のみ。判断の言及なし。


 ペンを止めた。


 原本は、渡さなかった。


 証言は、繕わなかった。


 それでも、結論はまだ渡されていない。


 原本の持ち出しを認めなかった判断が、局内でどう評価されるかは、まだわからない。


 だが、所在と責任を曖昧にしなかったことは、後から確かめられる。


 ライルは最後に一行だけ書いた。


 原本は、渡さない。必要なら、渡さずに確かめられる手順を作る。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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