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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第四章:麦の道を、探す

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第三十話「麦の道は、開いた」

 着任四十六日目。


 朝から、東の街道へ目を向ける者が増えていた。


 隊商が来る時刻は、昼前としか聞いていない。


 それでも、官倉の周囲には、いつもより多くの人影があった。


 売却する八戸の者。


 積み込みを手伝うため、有償で集まった人足。


 塩や油の価格を確認したい農民。


 見物に来ただけの者もいる。


「来ました」


 最初に気づいたのは、ゲオルグだった。


 東の道に、馬の姿が見える。


 荷車が三台。


 車輪が乾いた土を踏む音が、少しずつ近づいてくる。


 ガルダの者には、長い間聞き慣れなかった音だった。


 先頭の荷車から、日に焼けた体格のよい男が降りた。


「隊商をまとめている、ダレンだ」


 名乗りは短かった。


 その後ろから、商人組合の記録係と、麦を見る鑑定役も降りる。


「ガルダ調整官、ライル・フォン・ヴァルディスです」


「話は、取次役から聞いている」


 ダレンは執務所より先に、官倉の方角を見た。


「麦を見せてもらえるか」


「その前に、価格と取引条件の確認をお願いします」


 ダレンがライルを見る。


「順番を決めているのか」


「売り手が価格を知らないまま、麦を開ける必要はありません」


 ダレンは一度だけ頷いた。


「もっともだ」


---


 官倉前に、価格表を置いた。


 基準となるのは、隊商が市場町を出た前日の麦相場。


 標準品質の一袋あたりの価格。


 乾燥不足。


 虫害。


 異物混入。


 減額する場合の基準も、項目ごとに記されている。


「この価格で、売却するかを決めてもらいます」


 ダレンが八戸の者へ言った。


「鑑定後に減額が必要な袋があれば、理由を示す。納得できなければ、その袋は売らなくていい」


 ロイドが価格を読み上げる。


 読み書きのできない者にも、一袋あたりの銅貨の枚数が伝わるよう、実物の銅貨を並べた。


 ニルスが小さく尋ねた。


「南通りの商会より、高いですか」


「直近の買い取り価格とは、ほとんど変わりません」


 ライルが答えた。


「では、同じですか」


「価格だけを見れば、ほぼ同じです」


 ニルスは価格表を見た。


「今日は、そこが大事ではありません」


 ライルは続けた。


「南通りへ売ることもできる。隊商へ売ることもできる。その状態を作る最初の取引です」


 ニルスは、ゆっくりと頷いた。


 全員へ、価格を受け入れるか確認する。


 八戸すべてが、売却を希望した。


 配分表に従い、三十袋の所有者と数量を確定する。


 ロイドが一戸ずつ読み上げる。


 本人が答える。


 代理人の場合は、委任の記録を確認する。


 売却量。


 価格。


 支払い先。


 すべてを確定してから、官倉の扉を開けた。


---


 麦袋が、所有者ごとに運び出される。


 札の番号と、官倉台帳を照合する。


 台帳の数字と、実際の袋数を確認する。


 ダレンは、用意された袋を順番通りには見なかった。


 列の途中から一袋を選ぶ。


 鑑定役が縄を解いた。


 色。


 乾き具合。


 匂い。


 粒の揃い方。


「問題ない」


 別の所有者の袋も選ぶ。


 その次は、列の一番奥。


 三戸分、合計五袋を確認した。


「標準価格で買う」


 短い評価だった。


 記録係が鑑定結果を書く。


 品質による減額、なし。


 その時、一袋の縫い目が緩んでいることがわかった。


 麦そのものに問題はない。


 だが、このまま荷車へ積めば、道中でこぼれる可能性がある。


「袋を替えます」


 ヴェクが言った。


「中身の数量を測り直します」


 新しい袋を用意する。


 所有者と、隊商側の記録係が立ち会う。


 麦を移す。


 数量を確かめる。


 古い袋の番号と、新しい袋の番号を台帳へ残す。


 入れ替え前後の重量に差がないことも記録した。


 ダレンは、その作業を急かさなかった。


「ここまでやるのか」


「荷車へ載せた後に不足が出れば、どこで減ったのかわかりません」


 ロイドが答えた。


「なるほど」


 ダレンは、それ以上何も言わなかった。


---


 三十袋すべての確認が終わった。


 荷車へ積み込む。


 隊商側の人足。


 ガルダで集めた人足。


 誰が何袋を運んだかまでは記録しない。


 だが、作業時間と人数、支払う賃金は残す。


 作業が終わると、ダレンが積み込み賃金の半額を銅貨で支払った。


 残る半額は、売却した八戸が数量に応じて負担する。


 事前に決めた条件通りだった。


 次に、麦の代金を支払う。


 所有者ごと。


 袋数ごと。


 銅貨を数える。


 受領者も、その場で数える。


 ロイドが金額を読み上げ、組合記録係が自分の帳面へ同じ数字を書く。


 受領証を二部作る。


 一部は売り手。


 一部は隊商。


 ガルダ執務所には、立会記録だけを残す。


 最初に銅貨を受け取ったニルスは、掌の上の硬貨をしばらく見ていた。


「間違いありませんか」


 ロイドが聞く。


「はい」


 ニルスは答えた。


「間違いありません」


 麦が、銅貨へ変わった。


 何年も当たり前だったはずのことが、今は一つの成果になっていた。


---


 麦の買い付けが終わると、今度は隊商が運んできた品を広げた。


 塩。


 灯りの油。


 乾物。


 鍬の刃。


 鎌。


 釘。


 布。


 価格一覧を掲げる。


 需要調査に書いた者へ、先に購入意思を確認する。


 ただし、注文ではない。


 価格を見て、買わないこともできる。


 ゲオルグが、小袋の塩を手に取った。


「これを二つ」


「一つではなく?」


 隊商の者が聞く。


「一つは、うちの分です」


 ゲオルグは答えた。


「もう一つは、麦と労力を融通する話をしている家へ」


 銅貨を渡す。


 受け取った塩の量を確かめる。


「これで、冬が越せます」


 声は大きくなかった。


 だが、確かな安堵があった。


 ニルスは鍬の刃を見た。


「うちの柄に合いますか」


 ダレンが古い鍬の寸法を聞く。


 合うものがなかった。


「無理に買わない方がいい」


 ダレンが言った。


「次に来るなら、その寸法を持ってくる」


「次があれば」


「今年次第だ」


 ニルスは鍬の刃を棚へ戻した。


 必要だからといって、合わない物を買う必要はない。


 代わりに、灯りの油を一壺買った。


 全部の需要が満たされたわけではない。


 だが、塩と油と乾物が、ガルダへ入った。


 麦を積んだ荷車が、空で戻るわけでもなかった。


---


 昼を過ぎる頃、取引が終わった。


 麦袋三十。


 代金支払い、完了。


 積み込み賃金、支払い完了。


 塩、油、乾物、釘、布の販売あり。


 農具は一部のみ成立。


 ロイドと組合記録係が、双方の記録を読み合わせる。


 袋数。


 価格。


 支払い額。


 購入品。


 一箇所ずつ確認する。


「一致しています」


 組合記録係が言った。


 ダレンが最後の受領書へ署名した。


「これで、取引は終わりだ」


「問題はありませんか」


「今のところはない」


「帰路で荷崩れや不足が見つかった場合は」


「市場町へ着いた時点で記録し、商人組合を通じて書面を送る」


「承知しました」


 残り九十袋は、官倉に残る。


 売れなかった麦ではある。


 だが、今日売れた三十袋と同じ記録の中にある。


 次の交渉へ持ち越せる麦だった。


「来年も、来ますか」


 ロイドが尋ねた。


「今年の記録を見てからだ」


 ダレンは答えた。


「だが、約束通り三十袋が揃い、支払いも揉めなかった」


 荷車へ乗りながら、官倉を見る。


「悪い話ではない」


 それだけ言って、手綱を取った。


 荷車が動く。


 東の街道へ戻っていく。


 今度は、三十袋の麦を積んで。


---


 午後。


 執務所に、いつもの静けさが戻った。


 ヴェクが官倉の台帳を更新する。


 三十袋、搬出。


 所有者へ返却する預かり札。


 残量、九十袋。


 ロイドは支払い立会記録を綴じた。


 ダグラスは、取引前後の数量を照合する。


 派手な祝いはなかった。


 酒も、宴もない。


 終わった取引を、終わった形で記録する。


 それが先だった。


「今日で、道が一つ、つながりましたね」


 ロイドが言った。


「一つです」


 ライルは答えた。


「三十袋だけですが」


「三十袋の実績があります」


「来年は、まだわかりません」


「はい」


「それでも」


 ロイドは、閉じた帳面に手を置いた。


「それでも、つながりました」


 ライルは頷いた。


 三年止まっていた水。


 届かなかった声。


 途絶えていた麦の道。


 一つずつ、動かしてきた。


 水路を直しただけでは、麦は売れない。


 帳面を作っただけでも、銅貨は生まれない。


 だが、それぞれを順番に積み上げた結果、今日、荷車が来た。


---


 ガルダを離れた荷車の上で、ダレンは組合記録係へ言った。


「あの土地の話は、市場町でも広がるだろうな」


「隊商が立ち寄ったことが、ですか」


「長く外れていた場所へ、また荷車が入った」


 ダレンは前方を見たまま答えた。


「それだけで、商人は理由を知りたがる」


「別の商人も、取引を望むでしょうか」


「麦の量だけなら、まだ小さい」


「では」


「ガルダに売れる品があるとわかった」


 塩。


 油。


 乾物。


 釘。


 布。


 荷車は、麦を買うためだけに道を通るのではない。


「次に誰が興味を持つかは、俺たちの知ったことじゃない」


 ダレンは振り返らなかった。


 荷車の轍だけが、ガルダから東へ続いていた。


---


 同じ頃。


 帝都では、アルノが一枚の報告書に目を通していた。


 ガルダに関する内密調査の第一報。


 東の街道から、外部隊商の荷車三台が入領。


 麦袋三十を買い付け。


 塩、油、雑貨類の販売を確認。


 取引は、ガルダ執務所の立ち会いの下で実施。


 混乱、争い、強制徴収の兆候なし。


「ガルダか」


 アルノは、独り言のように呟いた。


 机の脇に置かれた辞令書へ目を向ける。


 余白に押された、通常とは異なる印。


「思ったより、早い」


 侍従が控えていた。


「引き続き、調査を続けますか」


「続けろ」


「南通り穀物商会についても」


「商会だけを見るな」


 アルノは報告書を置いた。


「ガルダへ目を向け始める者を記録しろ」


「商人を」


「商人も。隣領も。帝都もだ」


 窓の外へ目を向ける。


「これで、見ているのは私だけではなくなる」


---


 夜、ライルは手帳を開いた。


 着任四十六日目。


 隊商、到着。


 頭領、ダレン。


 荷車、三台。


 麦袋三十。


 品質鑑定、標準。


 減額、なし。


 所有者八戸。


 価格提示後、全戸売却に同意。


 代金支払い、完了。


 積み込み賃金、支払い完了。


 袋交換、一件。


 旧番号、新番号、数量一致を確認。


 隊商販売分。


 塩。


 油。


 乾物。


 釘。


 布。


 農具、一部不成立。


 残り九十袋。


 官倉保管を継続。


 来年度巡回。


 今回の取引記録を基に検討。


 ペンを止めた。


 水路が直った。


 声が届いた。


 麦の道が開いた。


 この一か月半で行ったことは、大きな奇跡ではない。


 水の流れる場所を確認した。


 消された記録を戻した。


 人の話を聞いた。


 麦を濡らさない場所を作った。


 書面を送り、三十袋を数えた。


 小さなことを、一つずつ積んだだけだった。


 だが、今日残った轍は、誰にも消せない。


 次に来る者は、何もない場所から道を作る必要がない。


 今日の記録から始められる。


 ライルは手帳の最後に書いた。


 麦の道は、開いた。


 細くても、確かに荷車が通った。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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