↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第四章:麦の道を、探す

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/69

第二十九話「道は、三十袋から」

 着任四十一日目。


 朝から、小雨が降っていた。


 官倉の屋根は、まだ応急補修のままだ。


 ヴェクが朝一番に見回ったが、新しい雨漏りの跡はなかった。


 官倉台帳へ、確認時刻と状態を書き加える。


 受付も、普段通りに開いた。


 農地相談が一件。


 現物納付の確認が一件。


 融通記録への相談が二件。


 返答を待っている間にも、仕事は動いていた。


 待つことは、何もしないことではない。


 ロイドは今日も、帳面に向かっていた。


 取次役の訪問時に聞かれた質問を整理し、今後も必要になる項目だけを手順書へ加えている。


 昼前、執務所の扉が開いた。


 使者ではなかった。


「お邪魔します」


 商人組合の取次役だった。


 一人ではない。


 前回同行した組合記録係もいる。


 二人の外套には、雨粒が残っていた。


「お待ちしておりました」


 ライルが立ち上がる。


「今日は、正式な返答をお持ちしました」


 取次役は懐から、一通の書状を取り出した。


 商人組合の封蝋が押されている。


 前回の視察後、組合と隊商で協議した結果。


 その記録だった。


「先に、内容を口頭でも説明します」


「お願いします」


 ライルは封蝋を確認してから書状を開いた。


 組合記録係も、自分の控えを机へ置く。


 取次役が告げた。


「次回の巡回路に、ガルダを加えます」


 執務所の中が、一瞬だけ静かになった。


 ロイドの筆も止まる。


 ヴェクが、小さく息を吸った。


 ダグラスは表情を変えなかったが、持っていた台帳を机へ置いた。


「ただし」


 取次役は続けた。


「無条件ではありません」


「条件を伺います」


「初回の買い付け量を絞ります」


「どの程度ですか」


「申し入れのあった百二十袋のうち、三十袋です」


 ロイドの筆が動いた。


 三十袋。


 全体の四分の一。


「残り九十袋は」


「今回は、買い付けません」


 取次役は、ライルを見た。


「隊商にとって、長く外れていた土地です。保管状態は確認できましたが、実際の受け渡しや支払いが約束通りに進むかは、まだ確認できていません」


「当然だと思います」


「全量を引き受けるには、こちらにも理由が足りない」


「承知しました」


「価格は、出発前日の市場町における麦の取引価格を基準とします」


 取次役は書面の一箇所を示した。


「品質によって減額する場合は、袋ごとに理由を示します。売り手が納得しなければ、その袋は売らなくても構いません」


「価格は、いつ伝えられますか」


「隊商到着時、鑑定の前に基準額を提示します。その後、状態に問題があるものだけを個別に協議します」


 提示された条件を聞いてから、農家が売却を断ることもできる。


 価格を知らないまま、麦だけを差し出す形ではない。


「塩と油、農具については」


 ヴェクが尋ねた。


「通常通り運びます。前回受け取った需要一覧を基に、積載量を決めました」


 ロイドが最新の一覧を差し出した。


 塩。


 灯りの油。


 鍬の刃。


 鎌。


 釘。


 乾物。


 取次役が目を通し、記録係へ渡す。


「価格は、当日に一覧で示します。購入するかどうかは、各人が決めてください」


「継続については」


 ライルが聞いた。


 取次役は、一度言葉を切った。


「今回の取引が約束通りに終われば、その記録を基準に、来年の巡回を検討します」


「今回、問題が起きれば」


「来年はありません」


 率直な答えだった。


 隊商は慈善で来るのではない。


 今年一度来るだけでも、荷車と人員と日数を使う。


 約束した麦が揃わない。


 積み込みに時間がかかる。


 支払いを巡って揉める。


 そのどれか一つでも起きれば、次にガルダを選ぶ理由はなくなる。


「その条件で構いません」


 ライルは答えた。


「早いですね」


「三十袋でも、道が一つ増えます」


「残り九十袋は売れません」


「今回は、です」


 ライルは書状を見た。


「三十袋を約束通りに取引できれば、次に示せる記録ができます」


 取次役の表情が、わずかに動いた。


「最初から全量を求めないところは、前回と同じですね」


「今ない実績を、大きく見せても意味がありません」


「到着は、五日後を予定しています」


 ロイドが日付を確認する。


「荷車は」


「三台です。麦を積んで帰る荷車のほか、塩、油、農具を載せています」


「集積場所は、官倉前」


「それで結構です」


「積み込みの人足は」


「隊商側からも出します。不足する場合は、ガルダ側で有償の人足を用意してください。賃金負担は、双方で折半します」


 ロイドが条件を書き留める。


「売却する三十袋を、どの農家から出すかは」


「ガルダ側で決めてください」


 取次役は答えた。


「ただし、所有者本人が数量と価格を確認できること。誰かの麦を、本人の同意なく混ぜないこと。それが条件です」


「承知しました」


 取次役は、書状を二部取り出した。


 一部はガルダ保管用。


 もう一部には、受領確認と同意の署名欄がある。


 ライルは内容を最後まで確認した。


 初回買い付け、三十袋。


 基準価格、出発前日の市場相場。


 品質減額は個別提示。


 積み込み、五日後。


 次年度の巡回は、初回取引の実績を基に再検討。


 署名する。


 ガルダ調整官の印を押す。


 一部を取次役へ返した。


「確かに受領しました」


「では、五日後に」


 取次役と記録係は短く頭を下げ、雨の中へ出ていった。


---


 午後、売却を希望する八戸の代表が、官倉前へ集まった。


 全員ではない。


 本人が来られない家は、家族か、委任を受けた者が来ている。


 ライルは、組合から届いた条件を、そのまま読み上げた。


「初回の買い付けは、三十袋です」


 小さなどよめきが起きた。


「百二十袋すべてではありません」


 一人の農民が尋ねた。


「どの家の麦が売れるんですか」


「これから決めます」


「早い者からですか」


「違います」


 ライルは、売却希望量の一覧を開いた。


「八戸すべてに、参加する権利があります。まず、三十袋という条件でも売却を希望するか、改めて確認します」


「全員が希望したら」


「各戸の希望量に応じて配分します」


 売却希望量が多い家は、配分も多くなる。


 少ない家も、完全に外されない。


 端数が出た場合は、今回売れなかった分として記録し、次の交渉時に優先して扱う。


「執務所が勝手に決めた数字ではなく、計算の根拠を全員に見せます」


 ロイドが配分表を机へ置いた。


 各戸の売却希望量。


 全体に占める割合。


 三十袋へ換算した数。


 端数。


 繰越量。


「売らないという選択もできます」


 ライルは続けた。


「価格は、隊商が到着した日に示されます。その価格に納得できなければ、断って構いません」


「断った分は」


「売却を希望する別の家へ回します。その場合も、本人の同意を確認します」


 ニルスが数字を見た。


「俺の家は、全部ではないんですね」


「はい」


「でも、一部は売れる」


「価格に同意すれば」


 ニルスは、思ったより静かに頷いた。


「十分です」


「十分ですか」


「昨日まで、売れる先がありませんでした」


 官倉の麦へ目を向ける。


「全部ではなくても、売れなかった場所から、売れるかもしれない場所に変わりました」


 ゲオルグは配分表を見ながら尋ねた。


「残りは、どうなります」


「官倉で保管を続けます。保管期限と状態を確認しながら、別の取引先も探します」


「来年の隊商に売ることも」


「あります。ただし、保証はできません」


「今年の取引がうまくいけば、材料になる」


「はい」


 ゲオルグは頷いた。


「一度で全部変わるとは思っていません」


 別の農民が、小さく言った。


「三十袋では、少なすぎると思っていました」


 その隣で、ニルスが答えた。


「でも、ゼロではない」


 八戸の全員が、配分方法を確認した。


 ロイドが一戸ずつ、参加意思を書き取る。


 価格提示後に最終判断。


 現時点では、八戸すべてが参加を希望。


 数字が、決まっていく。


 誰かの声の大きさではなく。


 帳面の順番で。


---


 同じ頃。


 南通りの穀物商会では、ヴォルツが報告を受けていた。


「巡回路に、ガルダが加わりました」


「量は」


「三十袋です」


 ヴォルツは、しばらく黙っていた。


「全量ではないのか」


「はい。残りは、官倉に残るそうです」


 三十袋。


 領内全体から見れば、小さな量だ。


 南通り穀物商会の扱う麦と比べれば、誤差とも言える。


 少なくとも、今年は。


 だが、来年も三十袋とは限らない。


 道が一度開けば、その道を通る理由が残る。


 取引記録。


 価格。


 売り手。


 買い手。


 荷車。


 すべてが、次の判断材料になる。


「もう、止められません」


 報告役が言った。


 ヴォルツは答えなかった。


 麦を買い占め、買い手を一つに絞る。


 そのやり方は、もう完全には機能しない。


 選べる相手が、一つ増えた。


 三十袋という数字は小さい。


 だが、道そのものは塞げなかった。


「量は小さい」


 ヴォルツは、ようやく口を開いた。


「道も、まだ細い」


「では、細いうちに潰しますか」


「潰せるものは、もう残っていない」


 官倉を壊せば、記録が残る。


 隊商を脅せば、商人組合が動く。


 農民を止めれば、別の農民が証言する。


 正面から異議を出せば、それも公の書面になる。


「道を潰せないなら」


 ヴォルツは窓の外を見た。


 雨は、まだ止んでいない。


「道の先を見る」


「先、ですか」


「隊商の背後にいる商人組合。そのさらに先だ」


 報告役は、意味を測りかねたように黙った。


「帝都側の取引先一覧を出せ」


「南通りの、ですか」


「全部だ」


 ヴォルツの目は、ガルダではなく、その外へ向き始めていた。


---


 夜、ライルは手帳を開いた。


 着任四十一日目。


 商人組合取次役、来訪。


 正式回答。


 次回巡回路に、ガルダを追加。


 初回買い付け、麦袋三十。


 売却希望八戸すべて、参加希望。


 配分、売却希望量に応じて算定。


 端数、次回交渉時の優先記録として残す。


 価格、出発前日の市場相場を基準。


 品質による減額は、袋ごとに理由を提示。


 売却の最終判断は、所有者本人。


 到着予定、五日後。


 荷車、三台。


 塩、油、農具を搬入予定。


 積み込み人足、双方で用意。


 賃金、双方折半。


 次年度巡回、今回の実績を基に再検討。


 ペンを止めた。


 全量ではない。


 だが、断られなかった。


 選べる相手が、一つ増えた。


 百二十袋の麦が、すべて動くわけではない。


 八戸すべての暮らしが、一度に変わるわけでもない。


 それでも、ゼロだった数字が三十になった。


 来なかった荷車が、五日後に三台来る。


 道は開いた。


 まだ、三十袋ぶんの細い道だった。


 細い道でも、通った記録が残れば、次はそこから始められる。


 ライルは最後に一行だけ書いた。


 道は、三十袋から。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。