第二十九話「道は、三十袋から」
着任四十一日目。
朝から、小雨が降っていた。
官倉の屋根は、まだ応急補修のままだ。
ヴェクが朝一番に見回ったが、新しい雨漏りの跡はなかった。
官倉台帳へ、確認時刻と状態を書き加える。
受付も、普段通りに開いた。
農地相談が一件。
現物納付の確認が一件。
融通記録への相談が二件。
返答を待っている間にも、仕事は動いていた。
待つことは、何もしないことではない。
ロイドは今日も、帳面に向かっていた。
取次役の訪問時に聞かれた質問を整理し、今後も必要になる項目だけを手順書へ加えている。
昼前、執務所の扉が開いた。
使者ではなかった。
「お邪魔します」
商人組合の取次役だった。
一人ではない。
前回同行した組合記録係もいる。
二人の外套には、雨粒が残っていた。
「お待ちしておりました」
ライルが立ち上がる。
「今日は、正式な返答をお持ちしました」
取次役は懐から、一通の書状を取り出した。
商人組合の封蝋が押されている。
前回の視察後、組合と隊商で協議した結果。
その記録だった。
「先に、内容を口頭でも説明します」
「お願いします」
ライルは封蝋を確認してから書状を開いた。
組合記録係も、自分の控えを机へ置く。
取次役が告げた。
「次回の巡回路に、ガルダを加えます」
執務所の中が、一瞬だけ静かになった。
ロイドの筆も止まる。
ヴェクが、小さく息を吸った。
ダグラスは表情を変えなかったが、持っていた台帳を机へ置いた。
「ただし」
取次役は続けた。
「無条件ではありません」
「条件を伺います」
「初回の買い付け量を絞ります」
「どの程度ですか」
「申し入れのあった百二十袋のうち、三十袋です」
ロイドの筆が動いた。
三十袋。
全体の四分の一。
「残り九十袋は」
「今回は、買い付けません」
取次役は、ライルを見た。
「隊商にとって、長く外れていた土地です。保管状態は確認できましたが、実際の受け渡しや支払いが約束通りに進むかは、まだ確認できていません」
「当然だと思います」
「全量を引き受けるには、こちらにも理由が足りない」
「承知しました」
「価格は、出発前日の市場町における麦の取引価格を基準とします」
取次役は書面の一箇所を示した。
「品質によって減額する場合は、袋ごとに理由を示します。売り手が納得しなければ、その袋は売らなくても構いません」
「価格は、いつ伝えられますか」
「隊商到着時、鑑定の前に基準額を提示します。その後、状態に問題があるものだけを個別に協議します」
提示された条件を聞いてから、農家が売却を断ることもできる。
価格を知らないまま、麦だけを差し出す形ではない。
「塩と油、農具については」
ヴェクが尋ねた。
「通常通り運びます。前回受け取った需要一覧を基に、積載量を決めました」
ロイドが最新の一覧を差し出した。
塩。
灯りの油。
鍬の刃。
鎌。
釘。
乾物。
取次役が目を通し、記録係へ渡す。
「価格は、当日に一覧で示します。購入するかどうかは、各人が決めてください」
「継続については」
ライルが聞いた。
取次役は、一度言葉を切った。
「今回の取引が約束通りに終われば、その記録を基準に、来年の巡回を検討します」
「今回、問題が起きれば」
「来年はありません」
率直な答えだった。
隊商は慈善で来るのではない。
今年一度来るだけでも、荷車と人員と日数を使う。
約束した麦が揃わない。
積み込みに時間がかかる。
支払いを巡って揉める。
そのどれか一つでも起きれば、次にガルダを選ぶ理由はなくなる。
「その条件で構いません」
ライルは答えた。
「早いですね」
「三十袋でも、道が一つ増えます」
「残り九十袋は売れません」
「今回は、です」
ライルは書状を見た。
「三十袋を約束通りに取引できれば、次に示せる記録ができます」
取次役の表情が、わずかに動いた。
「最初から全量を求めないところは、前回と同じですね」
「今ない実績を、大きく見せても意味がありません」
「到着は、五日後を予定しています」
ロイドが日付を確認する。
「荷車は」
「三台です。麦を積んで帰る荷車のほか、塩、油、農具を載せています」
「集積場所は、官倉前」
「それで結構です」
「積み込みの人足は」
「隊商側からも出します。不足する場合は、ガルダ側で有償の人足を用意してください。賃金負担は、双方で折半します」
ロイドが条件を書き留める。
「売却する三十袋を、どの農家から出すかは」
「ガルダ側で決めてください」
取次役は答えた。
「ただし、所有者本人が数量と価格を確認できること。誰かの麦を、本人の同意なく混ぜないこと。それが条件です」
「承知しました」
取次役は、書状を二部取り出した。
一部はガルダ保管用。
もう一部には、受領確認と同意の署名欄がある。
ライルは内容を最後まで確認した。
初回買い付け、三十袋。
基準価格、出発前日の市場相場。
品質減額は個別提示。
積み込み、五日後。
次年度の巡回は、初回取引の実績を基に再検討。
署名する。
ガルダ調整官の印を押す。
一部を取次役へ返した。
「確かに受領しました」
「では、五日後に」
取次役と記録係は短く頭を下げ、雨の中へ出ていった。
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午後、売却を希望する八戸の代表が、官倉前へ集まった。
全員ではない。
本人が来られない家は、家族か、委任を受けた者が来ている。
ライルは、組合から届いた条件を、そのまま読み上げた。
「初回の買い付けは、三十袋です」
小さなどよめきが起きた。
「百二十袋すべてではありません」
一人の農民が尋ねた。
「どの家の麦が売れるんですか」
「これから決めます」
「早い者からですか」
「違います」
ライルは、売却希望量の一覧を開いた。
「八戸すべてに、参加する権利があります。まず、三十袋という条件でも売却を希望するか、改めて確認します」
「全員が希望したら」
「各戸の希望量に応じて配分します」
売却希望量が多い家は、配分も多くなる。
少ない家も、完全に外されない。
端数が出た場合は、今回売れなかった分として記録し、次の交渉時に優先して扱う。
「執務所が勝手に決めた数字ではなく、計算の根拠を全員に見せます」
ロイドが配分表を机へ置いた。
各戸の売却希望量。
全体に占める割合。
三十袋へ換算した数。
端数。
繰越量。
「売らないという選択もできます」
ライルは続けた。
「価格は、隊商が到着した日に示されます。その価格に納得できなければ、断って構いません」
「断った分は」
「売却を希望する別の家へ回します。その場合も、本人の同意を確認します」
ニルスが数字を見た。
「俺の家は、全部ではないんですね」
「はい」
「でも、一部は売れる」
「価格に同意すれば」
ニルスは、思ったより静かに頷いた。
「十分です」
「十分ですか」
「昨日まで、売れる先がありませんでした」
官倉の麦へ目を向ける。
「全部ではなくても、売れなかった場所から、売れるかもしれない場所に変わりました」
ゲオルグは配分表を見ながら尋ねた。
「残りは、どうなります」
「官倉で保管を続けます。保管期限と状態を確認しながら、別の取引先も探します」
「来年の隊商に売ることも」
「あります。ただし、保証はできません」
「今年の取引がうまくいけば、材料になる」
「はい」
ゲオルグは頷いた。
「一度で全部変わるとは思っていません」
別の農民が、小さく言った。
「三十袋では、少なすぎると思っていました」
その隣で、ニルスが答えた。
「でも、ゼロではない」
八戸の全員が、配分方法を確認した。
ロイドが一戸ずつ、参加意思を書き取る。
価格提示後に最終判断。
現時点では、八戸すべてが参加を希望。
数字が、決まっていく。
誰かの声の大きさではなく。
帳面の順番で。
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同じ頃。
南通りの穀物商会では、ヴォルツが報告を受けていた。
「巡回路に、ガルダが加わりました」
「量は」
「三十袋です」
ヴォルツは、しばらく黙っていた。
「全量ではないのか」
「はい。残りは、官倉に残るそうです」
三十袋。
領内全体から見れば、小さな量だ。
南通り穀物商会の扱う麦と比べれば、誤差とも言える。
少なくとも、今年は。
だが、来年も三十袋とは限らない。
道が一度開けば、その道を通る理由が残る。
取引記録。
価格。
売り手。
買い手。
荷車。
すべてが、次の判断材料になる。
「もう、止められません」
報告役が言った。
ヴォルツは答えなかった。
麦を買い占め、買い手を一つに絞る。
そのやり方は、もう完全には機能しない。
選べる相手が、一つ増えた。
三十袋という数字は小さい。
だが、道そのものは塞げなかった。
「量は小さい」
ヴォルツは、ようやく口を開いた。
「道も、まだ細い」
「では、細いうちに潰しますか」
「潰せるものは、もう残っていない」
官倉を壊せば、記録が残る。
隊商を脅せば、商人組合が動く。
農民を止めれば、別の農民が証言する。
正面から異議を出せば、それも公の書面になる。
「道を潰せないなら」
ヴォルツは窓の外を見た。
雨は、まだ止んでいない。
「道の先を見る」
「先、ですか」
「隊商の背後にいる商人組合。そのさらに先だ」
報告役は、意味を測りかねたように黙った。
「帝都側の取引先一覧を出せ」
「南通りの、ですか」
「全部だ」
ヴォルツの目は、ガルダではなく、その外へ向き始めていた。
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夜、ライルは手帳を開いた。
着任四十一日目。
商人組合取次役、来訪。
正式回答。
次回巡回路に、ガルダを追加。
初回買い付け、麦袋三十。
売却希望八戸すべて、参加希望。
配分、売却希望量に応じて算定。
端数、次回交渉時の優先記録として残す。
価格、出発前日の市場相場を基準。
品質による減額は、袋ごとに理由を提示。
売却の最終判断は、所有者本人。
到着予定、五日後。
荷車、三台。
塩、油、農具を搬入予定。
積み込み人足、双方で用意。
賃金、双方折半。
次年度巡回、今回の実績を基に再検討。
ペンを止めた。
全量ではない。
だが、断られなかった。
選べる相手が、一つ増えた。
百二十袋の麦が、すべて動くわけではない。
八戸すべての暮らしが、一度に変わるわけでもない。
それでも、ゼロだった数字が三十になった。
来なかった荷車が、五日後に三台来る。
道は開いた。
まだ、三十袋ぶんの細い道だった。
細い道でも、通った記録が残れば、次はそこから始められる。
ライルは最後に一行だけ書いた。
道は、三十袋から。
蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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