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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久


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第三話「土地が覚えている」

 ロイドが執務所の扉を開けた時、ライルはすでに立っていた。


 外出着のままで、机の上には小さな手帳が一冊だけ置かれている。帳簿は棚に戻してあった。


「調整官様、もう……」


「領内を見てきます」


 ライルは手帳を上着の内側に収めた。


「今日は外を歩きます。一日かかるかもしれない」


 ロイドは少し口を開いてから、閉じた。


 前の調整官は、現場に出なかった。赴任から離任まで、執務所から足を運んだ記憶がない。領地を歩くことを、あの人間はどこかで恥ずかしいと思っていたのかもしれなかった。


 いや、違う。


 見なければ、知らなかったことにできる。


 それだけだったのだろう。


 ロイドは一度だけ喉を鳴らしてから、言った。


「ご同行しても、よろしいでしょうか」


 ライルはロイドを見た。


 昨日までなら、そうは言わなかった顔だった。


「助かります」


 ロイドの肩から、ほんの少し力が抜けた。


---


 朝の空気は冷えていた。


 田畑は執務所から歩いて一刻もかからない。それでもライルは急がなかった。道の両端を見ながら、足を止めながら、進んだ。


 畦道が崩れていた。


 手入れされていないだけでなく、崩れたまま何年も置かれていた。端の土が流れた跡が何層にも重なっている。一度だけではない。雨のたびに、少しずつ削れてきた跡だ。


 田畑の北側に沿って水路が走っていた。


 本来なら毎年、春の種まき前に浚渫しゅんせつして水の流れを整える。だがこの水路の底には土砂が積もり、流れが細くよどんでいた。一部は完全に詰まって、水が脇に滲み出している。


 ライルは水路の縁にしゃがんで、底を見た。


 石の間から、細い草が根を張っている。泥は一度積もっただけではない。薄い層が重なり、その上にまた草が伸びていた。


 前世で農地を引き継いだ時、最初に父親から言われたことがあった。


 水は逃げないが、水路は逃げる。


 毎年手を入れないと、十年で死ぬ。実際に、家業の田んぼで三年放置した区画は、その後の収量が大きく落ちた。土が疲れるのではない。水が来なくなるのだ。


 この水路は、少なくとも三年は手が入っていない。


 税収が横ばいになり始めた時期と、重なる。


「ロイド」


「はい」


「この水路の補修費は、帳簿上どうなっていますか」


 ロイドの顔がわずかに強張った。


「……毎年、計上されています」


「執行済みで?」


「はい。少なくとも、記録上は」


 ライルは水路の底に視線を戻した。


 記録上は、補修されている。


 だが、土地は違うと言っている。


 帳簿は人が書く。だが、水路に積もった泥は、人の都合では消えない。


「帰ったら、過去五年分の水路補修費を確認します」


「はい」


「それと、どの商会に発注したことになっているかも」


 ロイドは返事をするまでに、少し間を置いた。


「……承知しました」


 ライルは手帳を取り出して、短く書き留めた。


 水路補修費。三年前から実態なし。税収横ばい時期と一致。


---


 農地に入ると、働いていた男が振り返ってこちらを見た。


 五十代か、もう少し上か。日に焼けた顔に、警戒と逡巡が交互に浮かんでいた。


 ライルは近づかなかった。


 その場で立ち止まり、相手が歩いて来られる距離を残したまま待った。


 男の方から、足を動かしてきた。


「……新しい調整官様、ですか」


「はい」


「ゲオルグじいさんから聞きました。昨日、話を聞いてもらったと」


 ゲオルグ。


 昨夜の老農夫の名だ。ライルは記録していたが、領地の者の口から聞くと、名前に少しだけ温度が宿った。


「同じことがありましたか」


 男は一瞬、目を落とした。それから話した。


 二年前に受付を断られた。一年前には「記録済み」と言われた。窓口は体格のいい若い男で、ダグラスの後ろに控えている人物だった。


 手口は、ゲオルグと同じだった。


 ライルは手帳に書きながら聞いた。名前、住所、畑の場所、該当年度、断られた日付、持参したものの内容。男は一つ一つ、思い出すように答えた。


 長い間、誰かに話せる場所がなかった人間の話し方だった。


 話し終えると、男は言った。


「信じてもらえますか」


「信じます」


 間を置かずに答えた。


 男がもう一度ライルの顔を見た。確認するような目だった。


「ただし、信じるだけでは足りません」


 ライルは手帳を閉じた。


「あなたが話したことを、誰にも消せない記録にします。証言は、証拠とつながって初めて人を守れます」


 男はその言葉を、すぐには理解できなかったようだった。


 それでも、短く頭を下げた。


「……お願いします」


---


 昼を過ぎた頃、別の農地でもう一件あった。


 今度は老婆だった。足が少し悪く、畑の端に腰を下ろしていた。ライルが近づくと、向こうから言った。


「あなたが新しい調整官様ですか。ゲオルグさんの話は聞きました」


 老婆の話も、同じだった。


 同じ時期。同じ手口。同じ窓口担当。


 ライルは名前と畑の場所を聞き、手帳に記録した。老婆は途中で何度か言葉を詰まらせたが、最後まで話した。


「昔はね、こんなことはなかったんです」


 老婆は水路の方を見た。


「水路も、皆で手を入れていました。役所から人も来て、道具も出て、若い者が集まってね。でも三年くらい前から、何も来なくなった。けれど、補修のための負担だけは取られたんです」


 ライルのペンが止まった。


「補修の負担?」


「はい。水路を直すからと、麦を少し多く出せと言われました。うちは払いました。でも、水路はあのままです」


 ロイドが息を呑んだ。


 ライルは老婆を見た。


「その時、誰に言われましたか」


「窓口の若い人です。ダグラス様の後ろにいる、あの大きな人」


 また、同じ人物。


 税の受付拒否。


 記録済み処理。


 水路補修名目の追加徴収。


 それらが、一本の線になり始めていた。


「記録に残します」


 ライルはそう言った。


 老婆は少し目を細めた。


「そうですか」


 それだけだった。


 それだけで、老婆の肩から何かが少し下りた気がした。


---


 帰り際、さらに一人が道の端に立っていた。


 若い女だった。まだ二十代半ばだろう。背中に幼い子を負い、片手で麦の小袋を抱えていた。


 近づこうとして、ためらっている。


 ライルは足を止めた。


「納税の相談ですか」


 女は驚いた顔をした。


「……はい。ですが、今日は、その」


「ここで聞きます」


 ライルがそう言うと、女は何度も小さく頷いてから話し始めた。


 夫は二年前に帝都へ出稼ぎに行き、そのまま戻っていない。畑は残っているが、女一人では収穫が少ない。それでも税を納めようとしたが、「名義人本人でなければ受け取れない」と言われた。


 帝国の規定では、世帯代表の不在時、同居家族による納税は認められている。


 つまり、それも嘘だった。


「その説明をしたのも、同じ窓口担当ですか」


 女は迷った末に頷いた。


「体格のいい若い方でした。いつも、ダグラス様の後ろにいる……」


 四件目。


 ライルは手帳に記録した。


 女は麦の小袋を抱え直した。


「あの、これは……今日は持って帰った方がいいでしょうか」


「いいえ」


 ライルは首を振った。


「執務所で受け取ります。正式な受領証を出します」


 女は目を見開いた。


「私でも、よろしいのですか」


「はい」


 ライルは静かに答えた。


「あなたが納めようとしているものは、この領地で暮らしている証です。受け取らない理由にはなりません」


 女は麦の小袋を抱えたまま、しばらく動かなかった。


 やがて、小さく頭を下げた。


 背中の子が、眠ったまま少し身じろぎした。


---


 ロイドは少し離れた場所で、一連のやり取りを見ていた。


 農民が自ら近づいてくる場面を、ロイドはほとんど見たことがなかった。少なくとも、執務所の人間に対しては。農民が役人のところへ来る時は、たいていもう後がない時だった。


 この調整官は呼ばなかった。


 近づきすぎず、立って、待った。


 それだけで、農民の方から来た。


 なぜそうなるのか、ロイドには言葉が見つからなかった。答えを探している間に、次の場面が来た。


「ロイド」


「はい」


「明日から、納税相談の受付を再開します」


 ロイドは目を瞬かせた。


「再開、ですか」


「本来、閉じるべきものではありません」


 ライルは手帳をしまった。


「ただし、窓口で口頭対応だけにすると、また消えます。来訪者名、相談内容、対応者、時刻をすべて記録してください。判断に迷うものは、私に回す。追い返さない」


「ダグラス様が認めるかどうか……」


「認める必要はありません」


 ライルは淡々と言った。


「税を納めに来た者を記録するのは、役所の通常業務です」


 ロイドは口を開き、閉じた。


 そして、ゆっくり頷いた。


「……受付簿を、作ります」


「お願いします」


 それは服従ではなかった。


 まだ信頼でもない。


 だが、諦めた人間が、もう一度だけ仕事を思い出す時の反応だった。


 ライルはそれで十分だと思った。


---


 帰り道は南通りを抜けた。


 通りの中ほどに、重い扉と商会の看板を持つ建物がある。


 ガルダ南通りの穀物商会。


 建物の前に、男が立っていた。農民の格好ではなかった。こちらを見ていた。


 目が合った。


 男はすぐに目を逸らして、建物の中に消えた。


 ライルは足を止めなかった。


 ロイドも何も言わなかった。二人の間に短い沈黙があって、それだけだった。


 ただ、ロイドの足取りが少しだけ乱れた。


 ライルはそれに気づいたが、聞かなかった。


 聞くのは、今ではない。


---


 夜、机に戻った。


 表を広げる。


 昨夜は一行だったものが、今は四行になっていた。四件。「窓口担当」の欄に、同じ特徴が四つ並んでいる。


 体格のいい若い男。


 ダグラスの後ろに控えている。


 受付終了、記録済み、名義人不在、水路補修負担。


 言い方は違う。だが、目的は同じだ。


 正当に納めようとした者を、窓口で止める。


 そして、記録だけを動かす。


 別の紙を取り出した。水路の走り書きを見る。


 税の問題と、土地の問題は別だ。だが向いている方向は同じかもしれない。税収が歪み始めた時期と、水路が放置され始めた時期が重なる。修繕の予算はどこへ行ったのか。二つが一つの根から出ているとすれば——引っ張れば、大きなものが動く。


 今はまだ、引く時ではない。


 先に、逃げ道を減らす。


 扉を叩く音がした。


「入ってください」


 ロイドだった。


 手には、古い帳面を抱えている。表紙は擦り切れていたが、紙はまだ生きている。


「倉庫に残っていました。受付補助簿です。正式な帳簿ではありませんが、昔は窓口に来た方を一度ここに控えてから、徴税簿に写していました」


 ライルは顔を上げた。


「今は?」


「使われていません。三年前から」


 やはり。


 ライルは帳面を受け取り、ページを開いた。三年前の途中で記録が途切れている。最後の方は筆跡が乱れ、いくつかの名前に斜線が引かれていた。


 その横に、小さく担当者名が書かれている。


 ベルク。


 同じ名前が、何度も出てきた。


「このベルクという人物は」


 ロイドは唇を結んだ。


 言うべきかどうかを、迷っている顔だった。


 ライルは急かさなかった。


 少しの沈黙のあと、ロイドは言った。


「ダグラス様の甥です。現在の窓口担当です」


 蝋燭の火が小さく揺れた。


 窓口担当の名前は、特定された。


 だが、それだけでは終わらない。


 ライルは受付補助簿を閉じた。


「ロイド」


「はい」


「明日の朝、ベルクを呼んでください」


 ロイドの顔に緊張が走った。


「取り調べ、ですか」


「いいえ」


 ライルは静かに言った。


「通常業務の確認です」


 その方が、逃げにくい。


 外は静かだった。


 土地は、帳簿より先に証言していた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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