第四話「通常業務の確認」
朝、執務所に入ると、机の上に受付補助簿が置いてあった。
昨日まで存在しなかった、新しいものだ。表紙にはまだ何も書かれていない。だが中を開くと、「受付来訪記録」という見出しと、日付・来訪者名・相談内容・対応者・時刻の欄が、丁寧な罫線で引かれていた。
ロイドが昨夜のうちに作ったものだった。
罫線は少し不揃いだった。だが、項目は足りている。来訪者の名前、住所、相談内容、対応者、受付時刻、処理結果。さらに端には、控え番号を書くための小さな欄まである。
ライルは帳面を開いて、閉じた。
ロイドには何も言わなかった。ロイドも何も言わなかった。
ただ、帳面はそこにある。
昨日まで止まっていたものが、ひとつ動き出している。
「ロイド」
「はい」
「今日、この帳面を使います」
ロイドの背筋が、わずかに伸びた。
「承知しました」
それだけだった。
だが、その声は昨日よりも少しだけ、執務所の人間の声に戻っていた。
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ベルクが来たのは、朝のうちだった。
廊下を歩いてくる足音が聞こえた。足音は重い。だが、扉の前で一度止まった。
呼吸を整えたのだろう。
扉が開いた瞬間——ベルクの目が、机の上の旧受付補助簿を見た。
一瞬だけ。
すぐに外した。
そしてライルの方を向いた。
ライルはそれを見た。
大柄で、顔は若かった。背筋を立てようとしているが、足元がほんのわずかに重い。入ってくる前に何かを整えてきた人間の、それでもわずかに残る乱れがあった。
「お呼びですか」
「座ってください」
ライルは椅子を示した。
ベルクは少し間を置いてから、座った。大きな体が椅子に収まると、両手を膝の上に置いた。揃えすぎた手だった。
ライルは新しい受付補助簿を開いた。
日付を書く。
来訪者名、ベルク。
相談内容、受付業務の確認。
対応者、ライル。
時刻、朝一刻。
ベルクの目が、その筆先を追っていた。
「受付業務の確認をしたいと思います」
ライルはペンを持ったまま言った。
「取り調べではありません。通常業務の確認です」
ベルクの喉が、わずかに動いた。
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「まず、納税の申し出があった場合の受付フローを教えてください」
ベルクは答えた。
滑らかだった。
帝国の定めた書式に従い、来訪者の情報を記録し、受取品を確認し、徴税簿に記入し、受領証を発行する。控えを執務所に残し、納付品は担当倉庫へ引き渡す。
手順を知っている者の答え方だった。
「来訪者が高齢で、書式が読めない場合は」
「こちらで代筆します。本人確認を行い、印か署名をもらいます」
「世帯主が不在で、家族が納税に来た場合は」
「同居家族であれば受け付けます。帝国規定で認められています」
「受付期間内であれば、断ることはない?」
「……基本的には」
その「基本的には」を、ライルは書き留めた。
「基本的には、というのは」
「品目や数量に不備があれば、確認が必要です」
「確認のために一度帰す場合、記録は残しますか」
「残します」
「受取拒否の場合は」
「理由を記録します」
「その記録は、どこに残しますか」
ベルクの口が、一瞬止まった。
「……受付補助簿、または徴税簿の欄外に」
「わかりました」
ライルは静かに書いた。
受取拒否時、理由を記録する。受付補助簿または徴税簿欄外。
ベルクは、その手元を見ていた。
ライルは続けた。
「では、受付期間外の場合は」
「お帰りいただきます」
「その場合も記録は?」
「……残します」
「なぜですか」
「後日、受付期間について争いにならないようにするためです」
正しい答えだった。
正しい答えを、ベルク自身が口にしている。
ライルは頷いた。
前世で部門の調査をしていた頃も、こうだった。
最初から核心を突いてはいけない。相手に「普通の会話」だと思わせながら進める。正しい手順を自分の口で言わせる。どこで揺れるか、どこで間が生まれるか——それ自体が答えだった。
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いくつか別の確認を挟んでから、ライルは旧受付補助簿を手元に引き寄せた。
「これは、三年前まで使っていた補助簿です。確認のために見ていたのですが——」
ページを開いた。
ベルクの名前が繰り返し現れる、最後の数頁を向けた。
「ここで記録が途切れています。何か理由はありますか」
ベルクは補助簿を見た。
一秒か、二秒か。
「書式が変わったと聞いています」
「誰から」
「ダグラス様からです」
「書式変更の記録は残っていますか」
「……探してみます」
「お願いします」
ライルは「書式変更の記録——確認中」と書いた。
ベルクはその手元を見ていた。
嘘だ。
だが構わなかった。
嘘か本当かではなく、何を言ったかが記録になる。そして記録は、取り消せない。
「補助簿が廃止されたあと、来訪者の受付記録はどこに残していましたか」
「徴税簿です」
「全員分?」
「……必要な者は」
「必要かどうかは、誰が判断していましたか」
「窓口で」
「窓口担当者が?」
「はい」
ライルは書いた。
補助簿廃止後、記録対象は窓口判断。
ベルクの膝の上の手が、ほんの少し動いた。
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「確認します」
ライルは旧受付補助簿を閉じた。
「受付期間内に納税の申し出があった場合、本来は受け付ける。受け取れない事情がある場合も、来訪者名と理由を記録する。世帯主不在でも、同居家族であれば受け付ける。ここまでは、今の説明で間違いありませんか」
「……はい」
「では、この内容を本日の業務確認記録として残します」
ライルは新しい受付補助簿の端に、短く記した。
ベルク本人の説明により、上記手順を確認。
それから、帳面をベルクの前へ差し出した。
「確認者として、名前をお願いします」
ベルクの顔が、初めて明確に固まった。
「私が、ですか」
「はい。あなたが説明した内容です」
「ですが、これは……」
「通常業務の確認です」
ライルは静かに言った。
「あなたに不利益なものではありません。正しい手順を確認しただけですから」
ベルクは帳面を見た。
ペンを取るまでに、少し時間がかかった。
そして、名前を書いた。
ベルク。
筆圧が、少しだけ強かった。
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「最後にもう一点」
ライルはペンを置いた。
「水路の補修工事について、過去三年分の発注先はどちらでしたか。窓口担当として関わりがあれば教えてもらえますか」
一呼吸、あった。
ベルクの視線が、ライルのわずかに右——何もない壁の一点に向いた。膝の上の手が、ほんの少し動いた。
「知りません」
声は平坦だった。
早くもなく、遅くもなく。
知りません。
三年間、この執務所の窓口を担当した人間が。
農民から水路補修名目の麦を受け取った窓口と、同じ人間が。
ライルは書いた。
水路補修の発注先——知らないと答えた。
「わかりました」
それだけ言った。
ページをめくり、次の欄を埋めた。
「以上です。ありがとうございました」
ライルは帳面を閉じた。
「何か思い出したことがあれば、また来てください」
ベルクが立ち上がった。
椅子が後ろに少し引きずられた。扉まで歩いて、取っ手に手をかけた。
そこで、一度だけ振り返った。
ライルは帳簿を見ていた。ベルクの方は見ていなかった。
何かを言おうとして、やめた。
扉が閉まった。
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ライルはペンを持ち直して、小さく書き足した。
退出時、一度振り返った。
それから、ベルクの署名の横に、さらに一行を書いた。
正規手順を理解している。
つまり、知らずにやったわけではない。
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昼を過ぎた頃、ダグラスが来た。
いつもより足が速かった。入ってくる前に、わずかな間があった。
「ベルクを呼んでいたと聞きましたが」
「受付手続きの確認を」
「何か、問題がありましたか」
「特に問題は見つかりませんでした」
ダグラスは少し間を置いた。
問題は見つからなかった。
その言葉の意味を、この部屋の二人はそれぞれ別の方向から理解している。
「ついでにお願いがあるのですが」
ライルは帳面を開いたまま、顔を上げた。
「水路の補修工事、過去三年分の発注記録を見せていただけますか。業務確認の一環で」
ダグラスの顔が、変わった。
侮りではなかった。計算でもなかった。これまで一度も見せたことのない顔だった。
何かを言いかけて、飲み込んだ。
それからゆっくりと言った。
「……承知しました」
「今日中にお願いします」
ダグラスの目が、わずかに細くなった。
「保管場所の確認に、少々時間が」
「三年分です。量は多くないはずです」
ライルは静かに言った。
「それに、水路補修は領民の生活に関わる通常業務です。記録がない方が不自然です」
ダグラスは口元だけで笑った。
「お若いのに、熱心でいらっしゃる」
「必要な確認をしているだけです」
沈黙が落ちた。
先に視線を外したのは、ダグラスだった。
「夕刻までに」
「お願いします」
ダグラスは頭を下げ、出ていった。
その背中を、ライルは見た。
水路の発注記録を出してくるということは、何らかの形で記録を「用意する」ということだ。実態に合った記録であれば——存在しないはずのものが出てくる。改ざんした記録であれば——それ自体が証拠になる。記録が出てこなければ——管理不備になる。
どちらにせよ、相手は動かざるを得ない。
先に道の形を作った方が、動かせる。
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夕方、ロイドが来た。
新しい受付補助簿を両手で持っていた。
「今日の来訪記録です」
ライルは帳面を受け取った。
丁寧な字で、七名分の記録が書かれていた。名前、住所、相談内容、受付時刻。全員の欄が、丁寧に埋まっている。
「午前に三名、午後に四名です。うち五名が納税の相談で、全員正式に受領しました。残りの二名は書式の確認だけでしたが、記録に残しました」
ライルは帳面を机に置いた。
七名。
今日だけの数字だ。
昨日まで、この執務所に来ていた農民が誰もいなかったわけではない。来ていたのに、追い返されていた。あるいは、来ることを諦めていた。
今日から、記録に残る。
「受領証の控え番号は」
「連番にしました。欠番はありません」
「相談だけで帰った二名は」
「来訪記録に残し、次回持参するものを説明しました」
「追い返しましたか」
ロイドは一瞬、目を上げた。
「いいえ」
その答えは、前より少しだけ早かった。
「お疲れさまでした」
ロイドは少しだけ目を見開いた。
この執務所でそう言われたことが、なかったのかもしれない。
「……はい」
それだけだった。
だが、その一言は昨日のものより少し、重さが違った。
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日が落ちる少し前、ダグラスが発注記録を持ってきた。
紙の束は薄かった。
過去三年分の水路補修工事。発注書。受領書。支払記録。表面上は揃っている。
ライルは一枚ずつ確認した。
一年目、水路浚渫一式。
二年目、北側水路補修。
三年目、水門周辺の土砂除去。
どれも、実際には行われた形跡がない。
そして発注先は、すべて同じだった。
ガルダ南通り穀物商会。
穀物商会。
水路補修を専門とする業者ではない。
ライルは紙から顔を上げた。
「穀物商会が、水路補修を?」
ダグラスは、用意していたように答えた。
「この領地では人手が足りません。南通りの商会は人夫の手配も行っておりますので」
「作業報告書はありますか」
「簡易なものなら」
「見せてください」
「それは、明日確認して——」
「今日中にお願いします」
ダグラスの表情が、また少しだけ動いた。
ライルは発注記録を揃え、机の端に置いた。
「領民から水路補修名目の追加負担があったという証言も出ています。通常業務として、支出と徴収の対応を確認します」
ダグラスは黙った。
ほんのわずかに、空気が重くなった。
「……承知しました」
そう言って、ダグラスは再び部屋を出た。
扉が閉まる。
ロイドは部屋の隅で、息を詰めていた。
「調整官様」
「はい」
「今の記録、写しを取りますか」
ライルはロイドを見た。
その提案は、昨日のロイドからは出なかった。
「お願いします」
ロイドは発注記録の束を両手で受け取った。
紙を持つ手が、少し震えていた。
恐れからか。
それとも、別の感情からか。
ライルは問わなかった。
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夜、蝋燭に火を入れた。
外はもう暗かった。
帳面を開いて、七名の記録を一人ずつ確認する。全員の名前を、頭の中を通す。新しい受付補助簿には、今日の来訪者が残っている。旧受付補助簿には、三年前に消された名前が残っている。
そして机の端には、水路補修の発注記録がある。
税。
水路。
穀物商会。
ダグラス。
ベルク。
五つの線が、まだ細いまま、同じ場所へ向かっていた。
問題は見つかっていない。
だが、動き始めている。
ライルは白い紙を一枚取り出し、次にやることを一行だけ書いた。
ガルダ南通り穀物商会の取引記録を確認する。
蝋燭の火が、小さく揺れた。
外では、誰かが足早に執務所の前を通り過ぎていった。
ライルは顔を上げた。
足音は、南通りの方へ消えていった。
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次回は明日19:10更新予定です。
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