第二話「なかったことには、しない」
老人は話し始めるまでに、少し時間がかかった。
ライルは急かさなかった。心に静寂を保ちながら、ペンを持って、待った。
老人は両手で水を受け取ったまま、しばらく机の端を見ていた。執務所の灯りは蝋燭一本で、老人の顔に影がかかっていた。指先が、かすかに震えていた。
それから一度、静かに息を吸って。
「二年前の秋のことです」
ゆっくりとした声だった。
その年、税として麦十五束と銅貨を用意した。収穫はよくはなかったが、払えないほどではなかった。執務所に持っていくと、窓口に出てきた役人が言った。今年の受付はもう終わっている、と。
「期日は合っていましたか」
「はい。前の年と同じ時期に来たはずなんですが」
ライルはそこに短く線を引いた。
受付期間は帝国の定めた暦に従う。変更があれば公示が出る。馬車の中で読んだ資料に、過去十年分の受付期日の記録があった。
その年の受付終了日は、老人が来た日の三日後だった。
つまり、窓口の説明は嘘だ。
「翌年は」
「同じように持ってきました。そうしたら今度は——あなたの分はすでに記録済みです、と」
老人の声が少し落ちた。
「帳簿を見せてほしいと言ったんですが、忙しいからと。何度か来たんですが、そのたびに……」
後を続けなかった。
すでに記録済み。
つまり誰かが代わりに払った記録が残っている。あるいは——払ってもいないのに、払ったことにされている。どちらにせよ、この老人の税は「なかったこと」にされている。
差額は、どこへ行ったのか。
いや、差額だけではない。
受け取られなかった税が存在するなら、帳簿上の「横ばい」は、実際の徴収額とは別のものを意味する。誰かが数字を作っている。誰かが実態を隠している。
ライルは老人の名前を聞き、居住区を聞き、畑の場所を聞いた。老人は一つ一つ、思い出すように答えた。
「その時の役人の顔は、覚えていますか」
「二年とも、同じ人でした。体格のいい、若い男で……ダグラス様の後ろに、よく控えている者です」
ライルは何も言わず、書いた。
窓口担当。ダグラスの配下。二年連続で同一人物。
線が一本、つながった。
---
「持ってきたものを、見せてもらえますか」
老人が少し目を見開いた。
「今日もここに……」
そう言いながら、膝の上に置いていた布袋を差し出した。
麦が入っていた。乾いて、しっかり束ねてある。銅貨は別の布に包んで、丁寧に結んであった。
二年分、持ち続けていたのだ。
ライルは麦の量を計り、銅貨の枚数を数えた。老人はその間、黙って見ていた。
帳簿に記入する。
名前。住所。品目。数量。日付。持参者本人確認。未受領期間。申告内容。
欄を全部埋めてから、ライルは引き出しを開けた。帝都から持参した受領証の用紙だった。帝国の正式書式が刷られている。
書き終えて、老人の前に置いた。
「受け取りました」
老人は受領証を見た。しばらく、動かなかった。
やがて両手でそれを持ち上げて、ゆっくりと目を走らせた。文字が読めるのかどうか、ライルにはわからなかった。それでも老人は、紙を持ったまましばらくの間、そこにいた。
「二年分、よく守ってくださいました」
老人の手が止まった。
ライルは続けた。
「あなたが納めようとした事実は、今日から公の記録に残します。誰かがなかったことにしていいものではありません」
老人は顔を上げた。
その目に、先ほどまでとは別の震えがあった。
「……ありがとうございます」
それだけだった。
だが、その一言は軽くなかった。
ライルは立ち上がって、扉まで一緒に歩いた。外は夜のままで、風が少しあった。老人が深く頭を下げて、暗い道の方へ歩いていく。その背中が見えなくなるまで、ライルは扉の前に立っていた。
扉を閉めた。
静かだった。
---
机に戻って、新しいページを開いた。
受領件数、一件。
欄外に小さく書き加えた。
未受領者数——調査中。
「記録済み」という処理を入力した人間は誰か、帳簿を当たれば絞れる。窓口の顔が二年とも同じだったという話も、明日から使える。
ライルはもう一度、老人の証言を読み返した。
二年前。受付終了前に、受付終了と伝えた。
一年前。未納者本人に、納付済みと伝えた。
同じ相手に二度。
偶然ではない。
これは一件の不正ではなく、仕組みだ。
ライルは別の紙を取り出し、簡単な表を書いた。縦に農家名、横に年度、受付状況、帳簿記録、実納付、窓口担当。今はまだ一行しか埋まっていない。だが、同じ型が三件出れば構造になる。五件出れば証拠になる。十件出れば、人が動く。
怒りは、まだ要らない。
怒りで相手を責めれば、証拠は隠される。逃げ道を塞ぐには、先に道の形を知らなければならない。
ライルはペンを置いた。
蝋燭が短くなっていた。窓の外が、少しだけ白み始めていた。
---
朝になって最初に執務所へ来たのは、ダグラスではなかった。
昨日、出迎えに立っていたもう一人の役人だった。痩せた中年の男で、名はまだ聞いていない。男は扉を開けた瞬間、机の上の帳簿と、眠らずに座っているライルを見て足を止めた。
「調整官様……もう、お仕事を」
「少し確認をしていました」
ライルは一枚の紙を男の方へ向けた。
「昨夜、農民から直接納税の申し出がありました。正式に受領しています。控えはこちらです」
男の顔色が変わった。
驚き。困惑。恐れ。
そのどれもが一瞬ずつ浮かんで、最後に残ったのは、ほんのわずかな迷いだった。
「……直接、ですか」
「はい」
「それは、ダグラス様に確認を——」
「必要ありません」
ライルは静かに言った。
「帝国の税は、正当な納税者から正当な手続きで納められた時点で受け取るものです。確認すべきは、受け取ったことではありません。これまで受け取られなかった理由です」
男は返事をしなかった。
ただ、机の上の受領証控えを見ていた。
ライルは男の表情を見た。腐敗に加担している顔ではない。だが、何かを知っている顔だった。知っていて、見ないふりをしてきた顔。
「名前を聞いていませんでした」
「……ロイドです」
「ロイド」
ライルは頷いた。
「今日から、受付窓口に来た者を追い返さないでください。判断に迷うものは、すべて私に回してください」
「ですが」
「責任は私が取ります」
ロイドは口を開き、閉じた。
そして、ほんのわずかに頭を下げた。
「……承知しました」
それは服従ではなかった。
まだ信頼でもない。
だが、諦めた人間が、もう一度だけ目を開ける時の反応だった。
ライルはそれで十分だと思った。
---
同じ頃、執務所から離れた場所で、ダグラスは机に向かっていた。
部屋には誰もいなかった。灯りは一つで、壁に影が長く伸びていた。
新しい調整官が、夜中に農民から直接税を受け取った。帳簿に記録し、受領証を発行した。
しかも、その控えを朝一番に役人へ見せた。
ダグラスはペンを止めた。
今までの連中は、初日の夜に何もしなかった。大抵は早々に眠るか、疲れを理由に引きこもるかだった。それで十分だと思っていた。
今回は違う。
あの若い調整官は、着任初日に棚の白紙を見た。靴も見た。役人の反応も見た。夜のうちに農民から話を聞き、正式書式で受領証まで出した。
ただの左遷貴族ではない。
ダグラスは紙を折った。懐から蝋を傾けて、封をした。熱い蝋が固まるのを、黙って待つ。
封筒の宛名は、ガルダ南通りの穀物商会。
この領地で、麦の流れを握っている男の名だった。
お読みいただきありがとうございます。
本日は第3話まで投稿予定です。
続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




