第一話「帳簿は、嘘をつかない」
辞令を受け取った日、兄たちは笑った。
ガルダか。見事な左遷だな。
そう言ったのは長兄だった。次兄は何も言わなかったが、目だけで同じことを言っていた。帝都から遠く、収穫も少なく、人も減り続けている辺境領地。代々、出世争いに敗れた役人か、帝都で扱いに困った貴族の子弟が送られる場所。
つまり、普通に見れば終わりの赴任先だった。
ライル・フォン・ヴァルディスは、その場で反論しなかった。
反論する必要がなかったからだ。
辞令に記された領地名を見た瞬間、ライルには別のものが見えていた。辺境。人口減少。荒れた農地。帳簿上は維持される税収。帝国中枢が見落としている、構造の歪み。
笑われるくらいで、ちょうどいい。
手札は、見せるものではない。
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馬車が揺れるたびに、羊皮紙の束がずれる。
ライルは片手で束を押さえながら、数字を追い続けた。ガルダ領、過去十年分の税収記録。赴任前に帝都の公文書館から取り寄せた、誰も読んでいなかった資料だ。
三年前から税収が横ばいになっている。
だが人口は、十年で半分以下に減っている。
ライルは窓の外を一度だけ見て、また数字に戻った。
おかしい。
人が減れば税収は落ちる。それが普通だ。なのに横ばいというのは、残った人間から今まで以上に搾り取っているか、あるいは別の収入源が存在するか、どちらかしかない。前者なら民は限界に近い。後者なら——誰かが差額を抜いている。
どちらにせよ、意図的にやった人間がいる。
ライルは羊皮紙の端に、小さく印をつけた。
人口減少率、税収維持率、耕作地の申告面積、徴税担当者の交代時期。それぞれは、ただの数字に見える。だが並べると、数字は黙っていなかった。
前世でも同じだった。
大企業の管理部門にいた頃、表向きは問題のない部署ほど、数字の端に違和感が出た。家業の農地を見た時もそうだった。土地は嘘をつかない。人の手が入らなくなれば、必ず形に出る。数字も同じだ。
帳簿は、嘘をつかない。
嘘をつくのは、いつも帳簿を書いた人間だ。
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領都ガルダに入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬車の窓から見える田畑の、半分以上が荒れていた。雑草が腰の高さまで伸び、畦道は崩れかけている。働いている農民の姿はあるにはあったが、どこか動きが重かった。
諦めた人間の動き方を、ライルは前世でも何度か見たことがある。
まだ怒っている人間には、力が残っている。
だが、諦めた人間は声を上げない。文句も言わない。ただ、目の前の一日をやり過ごす。そうなった土地を立て直すには、命令だけでは足りない。
この領地は、思っていたより深い。
ライルはそう判断した。
執務所の前で馬車が止まった。
出迎えは二人だった。どちらも中年で、どちらも顔に同じ表情を貼り付けていた。新しい上司が来るたびに繰り返してきた、形だけの歓迎。
先に口を開いたのは、体格のいい方の男だった。
「お待ちしておりました、ライル・フォン・ヴァルディス調整官様。当領地筆頭役人、ダグラスと申します」
ライルは馬車を降りながら、男の足元を一度だけ見た。
新品の革靴。この街の平均的な月収の、三倍はくだらない。役人の給与では買えない。
「よろしく」
それだけ言って、執務所の扉を開けた。
建物の中は、外観より少しだけひどかった。窓の一枚が布で塞がれている。床の染みは古く、掃除の形跡はない。引き継ぎ資料と聞いていた棚の書類は、見た目だけは整然としているが、ライルが三冊抜いて確認したうちの二冊は白紙だった。
意図的に、片付けた形にしてある。
「資料の整理が追いついておらず、大変申し訳——」
「いえ」
ライルはダグラスの言葉を静かに遮った。
「今日は疲れました。下がっていいです」
ダグラスが何か言いかけて、やめた。
その一瞬、男の目が棚の方へ動いた。白紙の帳簿を見られたことに気づいた目だった。ライルはそれを見なかったふりをした。
見たと相手に知らせる必要はない。
二人の役人が出ていくと、執務所に静寂が戻った。
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夜になった。
ライルは持参した帳簿類を机に広げて、一から整理を始めた。公文書館から取り寄せたものと、道中で商人から買い集めた市場の記録と、馬車の中でまとめた自分の観察メモ。三つを並べると、おおよその輪郭が見えてくる。
前世でも、最初にやることはいつもこれだった。
現場に入ったら、まず数字を疑え。次に、誰が得をしているかを探せ。そして、現場を自分の目で見ろ。大企業の管理部門にいた頃も、家業の農地を引き継いだ時も、やることは同じだった。規模が違うだけで、腐り方は人間が絡む限り、どこでも似たようなものだ。
蝋燭の火が揺れた。
窓の外は静かだった。帝都の夜とは違う静けさで、ライルには懐かしい感触があった。前世で農地の見回りをした夜も、こんな静けさだった。土の匂いがして、遠くで虫が鳴いて、空に星が多かった。
感傷に浸っている場合ではない。
ライルはペンを持ち直した。
まずは、入口を探す。
腐敗した組織には、必ずほころびがある。全員が完璧に口裏を合わせ続けることはできない。帳簿の数字か、現場の沈黙か、あるいは一人の人間の訴えか。
扉を叩く音がしたのは、その時だった。
夜も深い。
こんな時間に来る人間は、よほど切羽詰まっているか、度胸があるかどちらかだ。ライルは蝋燭を一本持って扉を開けた。
老人が立っていた。
七十には届かないが、六十は超えているだろう。着ているものは古く、手は農作業で固くなっていた。震えているのは寒さのせいだけではないように見えた。
「調整官様……夜分に、申し訳ございません」
「いえ」
ライルは扉を大きく開けた。
「どうされましたか」
「税を、納めたいんです」
老人は続けた。声が少し割れていた。
「去年も、一昨年も、ちゃんと用意していたんです。麦も、銅貨も。でも——受け取ってもらえなくて」
ライルは一瞬だけ、老人の目を見た。
嘘をついている目ではない。
そして、諦めきれていない目だった。
「中に入ってください」
老人を椅子に座らせて、水を一杯持ってきた。お茶を出せるほど荷物を開けていなかったが、水ならある。老人は両手でそれを受け取って、少し驚いたような顔をした。
「ここでは、立ったまま話を聞きません」
ライルはそう言って、向かいの椅子に座った。帳簿を開き、ペンを持つ。
「いつから、誰に、どう断られましたか」
老人が顔を上げた。
「全部、教えてください」
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本日は第3話まで投稿予定です。
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