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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第四章:麦の道を、探す

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第二十六話「返答は、来た」

 着任三十五日目の昼過ぎ、執務所の扉が開いた。


 ロイドだった。


 足取りは、前回までとは違っていた。


 急いではいない。


 だが、迷いもなかった。


 靴には街道の土がつき、旅装には薄く埃が積もっている。それでも、背筋は伸びていた。


「戻りました」


「お疲れさまでした」


 ヴェクが水を用意しようとした。


 だが、ロイドは先に懐へ手を入れた。


 旅装のまま、一通の書状を取り出す。


 封蝋には、隣領市場町商人組合の印が押されていた。


 行きに持っていった封書とは違う。


 ライルの署名も、ガルダ調整官の印もない。


 相手の判断を載せて戻ってきた書状だった。


 ロイドは、それを机に置いた。


「取次役からの、正式な返答です」


「受け取った日時は」


「昨日の朝、商人組合の受付で。受取人と時刻はこちらに記録しています」


 ロイドが旅の帳面を添えた。


 書状を受領した日時。


 渡した相手。


 受け取った相手。


 封蝋の状態。


 帰路に使用した関所。


 外へ出ても、記録の作法は崩れていない。


「開けても」


「はい。私も、まだ中身は確認していません」


「その場で説明は」


「口頭では、正式な返答を封書に記した、とだけ」


 ライルは書状を受け取った。


 ロイドもヴェクも、黙って見ている。


 ダグラスも、照合中の台帳から顔を上げていた。


 封蝋を確認する。


 欠けはない。


 開封された痕跡もない。


 ライルは封を切った。


---


 文面は短かった。


 装飾的な挨拶も、曖昧な慰めもない。


 まず、ガルダからの申し入れ書を受領したこと。


 次に、添付記録を確認したこと。


 その上で、現時点では次回巡回への追加を確約できないこと。


 そして最後に、判断の前提として、現地確認を求めることが書かれていた。


 ライルは一度、最後まで読んだ。


「内容を読み上げます」


 全員に聞こえる声で、要点を伝える。


 ロイドは調査記録を開いた。


「私が届けた際の取次役の反応も、あわせて報告します」


「お願いします」


「まず、評価された点です」


 ロイドが記録を指で追う。


「官倉の預かり記録、現物納付の受領記録、売却希望戸数と数量。記録の整い方については、評価すると言われました」


「言葉は正確に」


「はい」


 ロイドは記録を見た。


「『商会を介さず、個々の農家の麦をここまで整理して示せるとは思わなかった』と」


 ヴェクが、ほんの少し息を吐いた。


 自分が作った官倉台帳も、その記録の中に含まれている。


 ダグラスは何も言わなかった。


 ただ、机の上の照合表へ視線を戻した。


「次に、懸念点です」


 ロイドは続けた。


「書面上の数字は整っている。だが、長年立ち寄りを避けてきた土地へ巡回路を戻すには、書面だけでは判断材料が足りない、と」


 ライルは頷いた。


 当然の反応だった。


 数字が並んでいる。


 印もある。


 預かりの仕組みも説明されている。


 だが、それが現地で本当に動いているのか。


 麦が実際にあるのか。


 予定した日に引き渡せるのか。


 ガルダの行政が、次の季節まで同じ形で残るのか。


 紙だけでは、そこまではわからない。


「三つ目」


 ロイドは一度、間を置いた。


「判断の条件です」


「読んでください」


 ロイドではなく、ライルが書面の該当箇所を読み上げた。


「現地における保管状況、数量、品質および取引責任者の意思を確認した上で、次回巡回経路への追加を検討する」


 そこで一度、書状を置いた。


「取次役本人が、ガルダへ来ます」


 執務所の中が静かになった。


「隊商の代理人ではなく」


 ヴェクが聞いた。


「商人組合の取次役本人です」


 ロイドが答えた。


「届けた時の反応は」


 ライルが尋ねた。


「書面を読むのに、長くはかかりませんでした」


 ロイドは記録を確認する。


「ただ、その場では答えませんでした。組合内で確認した上で、翌朝に正式な返答を渡す、と」


「翌朝まで、誰と相談したかは」


「わかりません。尋ねてもいません」


「それで構いません」


 一晩で書ける返答と、その場で返せる返答は違う。


 即座に断ることもできた。


 形式的な返事だけを返すこともできた。


 取次役は、どちらもしなかった。


 持ち帰り、確認し、自分が見るという結論を出した。


 それは受諾ではない。


 だが、断絶でもなかった。


---


「確認事項は」


 ライルが書面を読み進めた。


「官倉に保管されている麦の数量と状態。売却希望者ごとの意思。集積可能日」


 ロイドが続ける。


「現物納付分と、売却予定分が分けて管理されていること」


「隊商が持ち込む品への需要も」


「はい。塩、油、乾物、簡易農具について、どの程度の需要があるか」


 ただ麦を見るだけではない。


 ガルダへ荷車を向けることで、帰路にも利益が出るのかを見に来る。


「最後に、申し入れの責任者と直接話したい、とあります」


 ロイドが文面の一行を指した。


 ライル・フォン・ヴァルディス。


 申し入れ書へ署名した者。


 記録を整え、官倉を開き、取引再開を求めた責任者。


 私だ、とライルは思った。


「日程は」


「三日後です」


 ロイドが答えた。


「次回巡回路を決定する組合会合の前に、確認を終えたいとのことです」


「到着予定時刻は」


「昼頃。ただし、街道の状況によって前後する可能性があると」


「同行者は」


「記録係一名。それから、麦の状態を確認できる者を一名連れてくる予定です」


 ライルは手帳へ書いた。


 取次役。


 組合記録係。


 品質確認担当。


 これは儀礼的な訪問ではない。


 取引に必要な情報を、その場で持ち帰るための人数だった。


「断るという返答ではありません」


 ロイドが言った。


「決める前に、見に来る。それだけです」


「十分です」


 ライルは書状を机に置いた。


 これは、関門を通り抜けたという知らせではない。


 次の関門へ進むことを許されたという知らせだ。


 隊商は、まだガルダへ来ると決めていない。


 だが、ガルダを見る者が来る。


 噂ではなく。


 商会の説明でもなく。


 自分の目で。


「準備することを整理します」


---


「官倉の状態は、今のまま見せられますか」


 ライルが聞いた。


「見せられます」


 ヴェクが答えた。


「今朝の確認でも、湿気や害獣の痕跡はありません。ただ、搬入数はもう一度確認します」


「台帳との一致は」


「一件を除いて確認済みです」


 ダグラスが言った。


 全員の視線が向く。


「差異三袋の件です」


「理由は」


「判明しました」


 ダグラスは照合表を差し出した。


「ゲオルグが聞き取った時点では、売却予定量が十二袋。その後、家族の食用へ三袋を戻し、官倉には九袋を搬入しています」


「変更の記録は」


「農家側には残っていました。ただ、執務所への報告がありませんでした」


「本人確認は」


「午前中に済ませました。ヴェクも同席しています」


 ヴェクが頷いた。


「九袋で間違いありません」


「では、差異ではない」


「変更記録の未提出です」


 ダグラスが答えた。


「台帳は九袋へ訂正し、聞き取り時点の十二袋も消さずに残しました。変更日と理由を追記しています」


「それで構いません」


 三袋が消えたわけではない。


 数字の基準日が違っていただけだ。


 だが、その違いを説明できなければ、取次役には不正確な記録に見える。


「取次役が来る前に、同じような変更がないか全件確認してください」


「承知しました」


「搬入量だけでなく、売却意思もです」


「はい」


 ライルはロイドを見る。


「農家との対話を求められた場合は」


「ニルスとゲオルグには、事情を説明します」


「二人だけに絞らないでください」


 ロイドが顔を上げた。


「取次役が、こちらで選んだ者だけの話だと感じる可能性があります」


「では」


「売却希望八戸すべてに、訪問の目的を伝えます。話したい者は、本人の意思で来てもらう」


「全員を集めるのですか」


「集めるよう命じてはいけません」


 ライルは言った。


「取引を望む者が、必要なら自分の言葉で話せるようにするだけです」


「承知しました」


 用意された証言は信用されにくい。


 だが、誰が来ても同じ記録へ行き着くなら、それは仕組みが動いている証拠になる。


「私は、何を話せばいいですか」


 ロイドが聞いた。


「取次役に尋ねられたことへ、事実だけを答えてください」


「困っている、とは言わない」


「困っていることを隠す必要はありません」


 ロイドが少し目を上げた。


「ただし、それを取引条件にはしない」


 ライルは続けた。


「困っているから買ってほしい、ではない。売れる麦があり、必要な物があり、取引できる仕組みがある。その事実を示します」


「はい」


「飾らない。大きく見せない。悪い部分も隠さない」


「これまでと同じですね」


「同じです」


 三日間で、何かを新しく作る必要はない。


 官倉を飾る必要もない。


 都合の悪い記録を隠す必要もない。


 すでにあるものを、正しく見せる。


 それだけだった。


「官倉を見せる順番を決めます」


 ライルは紙を一枚出した。


「まず、台帳」


 ロイドが書く。


「次に、実物」


 ヴェクが続ける。


「その後、所有者別の札と預かり証」


 ダグラスが言った。


「最後に、搬出手順です」


 ライルは頷いた。


「数字から現物へ。現物から、動かす仕組みへ」


 順番が決まった。


---


 準備を始める前に、ライルは取次役への受領返信を書いた。


 書状を受け取ったこと。


 指定された日程で受け入れること。


 官倉、記録、売却希望者との面談を準備すること。


 到着予定に変更がある場合の連絡先。


「今日中に出しますか」


 ヴェクが聞いた。


「出します」


「誰が届けます」


「関所の定期便に載せます。ロイドをもう一度走らせる必要はありません」


 ロイドが何か言おうとした。


 ライルは先に続けた。


「今回、あなたがするべきことは、ガルダにあります」


「……承知しました」


「旅の記録を整理してください。取次役が、申し入れから返答までの経緯を確認する可能性があります」


「はい」


 ロイドは自分の席へ戻った。


 旅装のままではない。


 今度は上着を脱ぎ、いつもの帳面を開く。


 外へ出た者が、外で得た事実を、執務所の記録へ戻していく。


 ヴェクは官倉の全件確認表を作る。


 ダグラスは過去の収穫記録を、取次役へ見せられる順に並べ直す。


 書状が一通届いたことで、三日分の仕事が執務所全体へ広がった。


 返答は、紙の上で終わらなかった。


 人を動かし始めていた。


---


 同じ頃、南通りの穀物商会では、ヴォルツが報告を受けていた。


「商人組合から、ガルダへ使いが出るそうです」


「使いだけか」


「いいえ」


 報告役が声を落とした。


「取次役本人が、直接向かうと」


 ヴォルツは黙った。


 書状の中身まではわからない。


 だが、取次役が自ら動くという事実だけで十分だった。


 ガルダは、外部の買い手との話を進めている。


 相手は、書面を読んだだけでは断らなかった。


 さらに、現地へ行くだけの価値があると判断した。


「日程は」


「三日後です」


 三日。


 止めるには短い。


 だが、何もできないほど短くはない。


「同行者は」


「組合の記録係と、麦を見る者が一人だそうです」


 現地を見る。


 記録を見る。


 麦を見る。


 取引を決めるための訪問だ。


 ヴォルツは指を組んだ。


 力で止める手段は、すでに失敗している。


 農民を脅しても、記録された。


 役人を動かしても、証言された。


 書面で正面から異議を出せば、その異議自体が公の記録になる。


「先に、会う」


 ヴォルツは言った。


「取次役が、ガルダへ着く前に」


「街道で止めるのですか」


「止めるな」


 ヴォルツの声が低くなった。


「宿でも、関所でもいい。偶然を装って話をする」


「何を」


「ガルダの現状だ」


 新しい調整官は、着任してまだひと月あまり。


 官倉は再開したばかり。


 行政官も少ない。


 保管体制も、取引実績もない。


 農民同士で麦や塩を融通しなければならない程度に、領内の貨幣は動いていない。


「嘘ではありませんね」


「嘘を言う必要はない」


 ヴォルツは答えた。


「事実は、並べる順番で意味が変わる」


 水路が直ったことは言わない。


 記録が整い始めたことも言わない。


 官倉へ実際に麦が集まっていることも言わない。


 再開したばかりであることだけを言う。


 経験が浅いことだけを言う。


 不安定である可能性だけを、先に示す。


 フォルケが来た時と、同じやり方だった。


「誰を出します」


「マルコが」


「駄目だ」


 ヴォルツは即座に首を振った。


「顔を知られている者は使うな」


「では、新しく雇った荷役の者を」


「商会とのつながりを調べられない者にしろ」


「話す内容は」


「調整官が、結果を急いでいる」


 ヴォルツは一つずつ言った。


「記録は立派だが、運用は始まったばかり」


「はい」


「今年だけ動いても、来年まで続く保証はない」


「はい」


「南通り穀物商会との対立を理由に、外の商人を利用しようとしている可能性がある」


 報告役が少し迷った。


「それは、事実ですか」


「可能性だ」


 ヴォルツは答えた。


「断定する必要はない。疑う理由を渡せばいい」


「証拠は」


「要らない」


 取次役がガルダの記録を見る前に、疑いの色を一滴だけ落としておく。


 同じ数字を見ても、整った仕組みではなく、急ごしらえに見えるようにする。


 同じ官倉を見ても、再建の第一歩ではなく、一時しのぎに見えるようにする。


「街道のどこで」


「ガルダに着く前の最後の宿だ」


「関所では」


「記録係がいる。宿の方がいい」


「承知しました」


「接触した者の名は残すな」


「はい」


「商会から来たとも言うな」


「はい」


 使いが下がった。


 ヴォルツは窓の外を見た。


 三日。


 向こうは記録を整える。


 こちらは、記録を見る目を先に曇らせる。


 書面にも、力にも頼らない。


 相手の判断そのものへ触れる。


 それが、ヴォルツに残された三つ目のやり方だった。


 だが、指を組む手には力が入っていた。


 疑いの種が芽を出すかどうかは、相手次第だ。


 もし取次役が噂より自分の目を信じる人間なら。


 もしガルダの記録が、疑いを越えるほど整っているなら。


 この一手も、また相手に届かない。


---


 夜、ライルは手帳を開いた。


 着任三十五日目。


 商人組合取次役から、正式返答。


 評価。


 官倉預かり記録。


 現物納付記録。


 売却希望戸数、数量。


 懸念。


 書面のみでは、長年外れていた巡回路を戻す判断材料として不足。


 条件。


 取次役本人が、三日後にガルダへ来訪。


 同行者。


 組合記録係一名。


 品質確認担当一名。


 確認予定。


 官倉。


 数量。


 品質。


 売却意思。


 集積手順。


 購入希望物資。


 責任者との対話。


 準備。


 官倉全件再確認。


 売却希望者八戸へ訪問目的を通知。


 面談参加は任意。


 記録、現物、搬出手順の順で提示。


 差異三袋。


 原因確認済み。


 売却予定量変更の報告漏れ。


 台帳訂正済み。


 取次役への受領返信、発送。


 ペンを止めた。


 返答は、来た。


 断られなかった。


 だが、決まったわけでもない。


 三日後、取次役はガルダを自分の目で見る。


 帳面だけではない。


 官倉の床も。


 麦袋の状態も。


 農民の声も。


 それらが同じ事実を示しているかを確かめる。


 準備するべきは、見栄えではない。


 記録と現実が一致していることだ。


 ライルは手帳を閉じかけた。


 その手が止まる。


 取次役が来るという情報は、商人組合だけに留まらない。


 宿。


 関所。


 荷車。


 人が動けば、話も動く。


 ヴォルツが知る可能性は高い。


 三日の間に、何かが動く。


 官倉を壊すとは限らない。


 麦を奪うとも限らない。


 訪問そのものを止める必要すらない。


 見る者の目に、先に何かを入れるだけでもいい。


 ライルは手帳をもう一度開いた。


 最後に一行だけ書く。


 相手が何を聞いて来ても、こちらは見せる順番を変えない。


 事実は、先に聞いた噂で形を変えない。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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