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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第四章:麦の道を、探す

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第二十七話「順番は、変えない」

 着任三十六日目の朝、官倉の前にヴェクとダグラスが立っていた。


 ヴェクの手には、昨夜までに確認を終えた帳面がある。


「八戸、すべて確認できました」


 帳面が、ライルへ差し出された。


「差異は」


「ありません。現在の搬入量、売却希望量、売却意思。いずれも、申し入れ書に記した数字と一致しています」


 ダグラスが続けた。


「変更があった一件も、聞き取り時点の数字、変更後の数字、変更理由まで説明できる状態です」


「他の七戸は」


「一戸ずつ、本人に直接確認しました」


 ヴェクが答えた。


「量が変わっていないか。売る意思が変わっていないか。家に残す食用分や種麦と混ざっていないか」


「口頭だけですか」


「いいえ。こちらの控えを読み上げて確認し、本人か立会人に印をもらっています」


 ライルは帳面を開いた。


 売却希望者。


 売却希望量。


 官倉搬入量。


 自宅保管量。


 積み込み可能日。


 確認日。


 確認者。


 数字が静かに並んでいる。


 以前の記録を消した跡はない。


 変更前の数字も残っている。


 説明できない空白もない。


「これで、見せられます」


「はい」


 だが、帳面だけを見て終わりにはしなかった。


 三人で官倉の中へ入る。


 麦袋は、床に敷いた板の上へ積まれている。


 壁との間には、風が通るだけの隙間がある。


 所有者ごとの札。


 搬入日。


 数量。


 状態確認日。


 帳面と同じ番号が、袋の列ごとに掲げられていた。


 ライルは一つずつ数えた。


 ヴェクも、別の側から数える。


 二人の数字が一致した後、ダグラスが台帳を確認する。


 湿気の跡はない。


 新しい害獣の痕跡もない。


 雨染みのある奥の区画は、最初から空けてある。


「取次役が見やすいよう、並べ替えますか」


 ヴェクが尋ねた。


「変えません」


 ライルは答えた。


「ですが、所有者ごとにもっと揃えた方が」


「見せるために整えた倉ではなく、普段の運用を見てもらいます」


 帳面と現物が一致している。


 誰の麦かがわかる。


 搬出時にも取り違えない。


 それが示せれば十分だった。


「掃除は」


「通常の管理として行います。明日も、いつも通りに」


「承知しました」


 三日前から、特別に変えたところはなかった。


 変える必要もなかった。


---


 昼前、売却を希望する八戸へ、取次役来訪の知らせを出した。


 そのうち、ニルスとゲオルグが執務所へ来た。


「二日後、商人組合の取次役が来ます」


「例の書状を受け取った方ですか」


 ニルスが聞いた。


「そうです。官倉と麦の状態を、自分の目で確認したいとのことです」


「俺たちにも、話を聞くんでしょうか」


「希望すれば、です」


 ライルは答えた。


「取次役が農家の話を聞きたいと言った場合、応じるかどうかは皆さんが決めてください。断っても構いません」


「全員、来た方がいいですか」


「その必要はありません」


「でも、来ないと売る意思がないと思われませんか」


「意思は、すでに書面で確認しています」


 ライルは帳面を示した。


「ここへ来て話すことは、取引の条件ではありません」


 取次役に良い印象を与えるため、農民を動員する。


 それでは、住民の声を聞かせるのではなく、用意した景色を見せることになる。


「話す場合は、何を言えばいいですか」


 ゲオルグが尋ねた。


「聞かれたことへ、事実だけを答えてください」


「困っている、とは言わない方が」


「使う必要はありません。ただ、隠す必要もありません」


 ニルスが少し眉を寄せた。


「どういうことでしょう」


「困っているから買ってほしい、という話にはしません」


 ライルは言った。


「商会に買い取りを断られた。麦を保管している。塩や油、工具を買うために銅貨が必要。それは事実です」


「はい」


「その事実を話してください。相手がどう判断するかまで、こちらで決める必要はありません」


 ゲオルグが頷いた。


「今まで通り、ということですね」


「はい」


 誰かに教えられた言葉を繰り返すのではない。


 自分が経験したことだけを話す。


 それなら、質問の順番が変わっても答えは変わらない。


「もう一つ、伝えておきたいことがあります」


 ライルは続けた。


「取次役は、ガルダへ着く前に、こちらとは違う話を聞いているかもしれません」


「違う話というのは」


「ガルダについての悪い噂です」


 ゲオルグが眉を寄せた。


「新しい調整官は着任したばかりだ。官倉は急ごしらえだ。人手も足りない。商会との争いに、外の隊商を巻き込もうとしている」


 ニルスの表情が硬くなる。


「そんなことを言う者が」


「いるかもしれない、という話です」


「それなら、こちらから先に否定しておいた方がよくありませんか」


 ゲオルグが聞いた。


「いいえ」


 ライルは首を横に振った。


「否定しに行きません」


「では、どうするんです」


「見せるものを、変えません」


 二人は顔を見合わせた。


「着任して間もないことは事実です」


「はい」


「役人が少ないことも事実です」


「そうですね」


「官倉の運用を再開したばかりなのも事実です」


 都合の悪い部分を隠せば、噂を認めたように見える。


 反対に、すべての噂へ逐一反論すれば、何を確かめるべきかが曖昧になる。


「その上で、帳面と麦を見てもらいます」


「聞いた話と、見たものが違えば」


「どちらを信じるかは、取次役が決めます」


 ライルは言った。


「こちらが決めることではありません」


 ニルスは少し間を置いた。


「俺たちは、いつも通りでいいんですね」


「はい」


「麦を良く見せようと、上の袋だけ替えたりもしない」


「しないでください」


「わかりました」


 ゲオルグも頷いた。


「変に構えれば、かえって不自然ですからね」


 二人は、それ以上の説明を求めなかった。


 自分が話すことを、自分で決めて帰っていった。


---


「本当に、噂には何もしないのですか」


 二人が帰った後、ロイドが尋ねた。


「何もしないわけではありません」


 ライルは手帳を開いた。


「官倉を確認する。台帳を確認する。農家の意思を確かめる。質問された時に、誰でも同じ記録へたどり着けるようにする」


「それが、備え」


「はい」


「噂そのものへの対処は」


「しません」


 ライルは言った。


「フォルケ様が来た時と同じです」


 あの時も、商会は先に話を届けていた。


 新しい調整官が、十分な確認もなく役人と商人を疑っている。


 土地の権利を混乱させている。


 そう聞かされた上で、フォルケはガルダへ来た。


「こちらは、噂の一つずつに反論しませんでした」


「証拠を、順番に見せた」


「はい」


 まず帳簿。


 次に、失われた記録。


 証言。


 別帳。


 誰かを悪人だと決めつける前に、事実を重ねた。


「今回も」


「今回もです」


 ロイドは少し考えた。


「ただ、フォルケ様は帝国の役人でした。取次役は商人です」


「違いはあります」


「利益があるかどうかで判断する」


「はい」


 ライルは頷いた。


「だから今回は、正しさだけでは足りません」


 売れる麦がある。


 買いたい物がある。


 量を揃えられる。


 積み込みができる。


 取引相手として、約束を守れる。


「事実を示した上で、商売になることも示します」


「噂が間違っていると証明するのではなく」


「ガルダへ来る価値があると判断してもらう」


「はい」


 ヴェクが小さく声を上げた。


「では、本当に宿で何かがあるかもしれないと」


「可能性は考えています」


 ライルは答えた。


「取次役がガルダへ入る前、最後に泊まる宿。そこで話しかければ、こちらに気づかれずに言葉を渡せます」


「ヴォルツ様なら、そうする」


 ダグラスが言った。


 それまで黙っていた声だった。


「以前から、正面から命令するより、先に話を回す方法を好みました」


「誰を使うと思いますか」


 ロイドが尋ねる。


「顔の知られていない者でしょう」


 ダグラスは答えた。


「商会とのつながりを、すぐには辿れない者です」


「宿へ人を出して、止めますか」


 ヴェクが聞いた。


「止めません」


「ですが」


「宿で誰かが取次役へ話しかけたとして、何を理由に止めますか」


 ヴェクは答えられなかった。


 旅人同士の会話。


 商人同士の噂。


 それを行政が監視し、禁じる。


 その方が、取次役へ不信を与える。


「備えは、すでにしています」


 ライルは官倉の方角を見た。


「見せるものを整えることが、備えです」


「相手が何を聞いていても」


「順番は変えません」


---


 午後、取次役へ見せる資料を、机の上へ並べた。


 最初に、ガルダから出した申し入れ書の控え。


 次に、売却希望者八戸の確認表。


 官倉の預かり台帳。


 現物納付の受領記録。


 商品の需要一覧。


 最後に、搬出時の手順書。


「この順番でよろしいですか」


 ロイドが聞いた。


「いいえ」


 ライルは一枚を動かした。


 申し入れ書の次に、官倉の台帳を置く。


「売却希望者より、先に官倉ですか」


「最初に、麦を管理できていることを示します」


 次に、現物。


 その後で、誰の麦なのかを確認する。


 農家の売却意思。


 搬出できる日。


 必要物資。


「書類だけを机で全部見せるのではなく」


 ロイドが気づいた。


「はい。帳面を見せた後、官倉へ移ります」


 台帳の数字を一つ選ぶ。


 実際の麦袋を数える。


 札を確認する。


 所有者の預かり証控えと照合する。


「どの家の麦を選びますか」


 ヴェクが聞いた。


「取次役に選んでもらいます」


 ヴェクが少し目を見開いた。


「こちらで選んだものだけを見せれば、都合のよい例だと思われる可能性があります」


「どれを選ばれても、同じように確認できる」


「そのための全件確認です」


 ロイドが言った。


「はい」


 順番を守るとは、用意した答えだけを見せることではない。


 どこから確かめられても、同じ事実に行き着くようにすることだった。


---


 翌日。


 着任三十七日目。


 取次役の到着は、明日に迫っていた。


 ガルダへ続く街道の、最後の宿。


 日が落ちる少し前に、三人の旅人が到着した。


 商人組合の取次役。


 組合の記録係。


 麦の品質を確認する鑑定役。


 荷を降ろし、馬を預ける。


 夕食までの時間、取次役は食堂の端で書面を読み返していた。


 ガルダから送られてきた申し入れ書。


 添付された記録の写し。


 麦袋百二十。


 売却希望者八戸。


 官倉での保管。


 塩、油、農具への需要。


 その机へ、一人の男が近づいた。


「隣領からいらしたので」


 顔を知らない男だった。


 荷役風の身なりをしている。


 酒の杯を持っているが、酔っている様子はない。


「ガルダへ向かわれるとか」


 取次役は書面を閉じた。


「そうだが」


「あそこの調整官は、まだ着任して間もないと聞きます」


「詳しいな」


「近くまで荷を運ぶ商売です。多少は耳に入ります」


 男は向かいへ座ろうとはしなかった。


 立ったまま、世間話のように続ける。


「役所も、人手が足りないとか」


「そうらしいな」


「官倉も、つい先日まで使われていなかったそうで」


 取次役は男を見た。


「それで」


「いえ」


 男は薄く笑った。


「せっかく遠くまで行かれるのです。見た目だけ整えたものに、無駄足を踏まされなければいいと思いまして」


「見たことがあるのか」


 男の笑みが、わずかに止まった。


「何をです」


「その官倉を」


「私はありません」


「調整官と話したことは」


「ありません」


「麦を預けている農家に、知り合いは」


「それも」


 取次役は閉じた書面へ指を置いた。


「では、何を知っている」


 男はすぐには答えなかった。


「噂です」


「そうか」


 取次役はそれだけ言った。


 追い払わない。


 礼も言わない。


 否定もしない。


 男は少し間を置いた後、言葉を重ねた。


「南通りの商会と揉めているそうです。外から商人を呼び、対抗しようとしているのだとか」


「誰から聞いた」


「商売をしていれば、いろいろと」


「名前を出せない話か」


 男は笑った。


「噂とは、そういうものでしょう」


「そうだな」


 取次役は杯へ手を伸ばした。


 男は、最後に一言だけ置いた。


「今年だけ形が整っていても、来年まで続く保証はありません」


 酒の代を机へ置き、席を離れる。


 取次役は、その背中を追わなかった。


 記録係が、少し離れた席から近づいてくる。


「今の話も、記録しますか」


「話の内容は残せ」


「相手の名は」


「名乗らなかった」


「所属は」


「不明」


「信頼性は」


 取次役は、ガルダから届いた書面をもう一度開いた。


「確認不能」


 記録係が筆を動かす。


 着任間もない。


 人手不足。


 官倉再開直後。


 商会との対立。


 今年だけの仕組みである可能性。


 すべて、確認が必要な話だった。


「明日、質問しますか」


「質問はする」


「先ほどの男についても」


「必要ない」


 取次役は言った。


「話した者ではなく、話の中身を確かめる」


 男が席を立った後も、取次役はしばらく書面を見ていた。


 噂の内容そのものより、そのタイミングが気になった。


 なぜ、この宿で。


 なぜ、今。


 なぜ、自分がガルダへ向かうと知っている。


 書面を求めたのは、商人組合だ。


 噂ではなく、記録で判断する。


 そのために、自分の目で見る。


 そう決めた直後に、名前も所属も明かさない者が現れた。


 偶然にしては、都合がよすぎる。


 だが、それもまた、明日の判断を先に決める理由にはならない。


 噂が嘘だと決めつけない。


 正しいとも決めつけない。


 取次役は杯を置いた。


「明日、予定通りガルダへ向かう」


「はい」


「到着時刻も変えない」


「承知しました」


「先入観があることだけは、覚えておく」


 記録係は、その一言も書き留めた。


 明日、自分の目で見る。


 それだけは、変わらなかった。


---


 夜、ライルは手帳を開いた。


 着任三十七日目。


 官倉。


 売却希望八戸、全件確認完了。


 台帳と現物、差異なし。


 変更一件。


 経緯を含め、説明可能。


 農家。


 来訪目的を通知。


 面談参加は任意。


 回答は、自身が確認した事実のみ。


 資料提示。


 申し入れ書。


 官倉台帳。


 現物確認。


 所有者別記録。


 売却意思。


 搬出手順。


 確認対象は、取次役自身に選んでもらう。


 噂への対処。


 なし。


 証拠を示す順番を変えない。


 ペンを止めた。


 宿で何かが起きたかどうかは、まだわからない。


 だが、起きていても驚くことではなかった。


 水路の時も。


 フォルケが来た時も。


 ヴォルツは、こちらが事実を見せる前に、別の見方を渡そうとした。


 そのたびに、こちらは同じやり方で応じてきた。


 噂を追いかけない。


 聞かれていない弁明をしない。


 都合の悪いものを隠さない。


 見栄えのために、現場を作り替えない。


 帳面を見せる。


 現物を見せる。


 人の声を聞いてもらう。


 順番を、変えない。


 明日、取次役はガルダへ着く。


 何を聞いていても、官倉にある麦の数は同じだ。


 預かり札に書かれた名前も同じだ。


 農民が必要としている塩の量も変わらない。


 噂によって変わるのは、最初の見え方だけだ。


 事実そのものではない。


 ライルは手帳を閉じた。


 窓の外では、東からの街道が夜の中へ続いている。


 明日、その道を、ガルダを判断する者が通る。


 ライルは蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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