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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第四章:麦の道を、探す

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第二十五話「返事は、まだ来ない」

 着任三十二日目の朝、執務所はいつも通りに開いた。


 ロイドの椅子は空いていた。


 昨日の朝、商人組合への申し入れ書を携え、再び東の街道へ出た。


 だが、今朝は誰も戸惑わなかった。


 ヴェクが受付に座る。


 来訪記録を開き、前日の引き継ぎを確認する。


 ダグラスは過去の収穫記録と、官倉の搬入台帳を机に並べた。


 ライルは未処理の相談書を日付順に分ける。


 誰が何を担うかは、すでに決まっていた。


「静かですね」


 受付帳を開きながら、ヴェクが言った。


「以前より、ですか」


「はい」


 ヴェクは空いた椅子を見た。


「前は、あの椅子を見るたびに手が止まりました。何を聞けばいいか、何を残せばいいか、ロイドに確認しないとわからなくて」


「今日は」


「まだ、止まっていません」


 ライルは頷いた。


 ロイドが不在でも、仕事を受け取る者がいる。


 作った帳面が残っている。


 記入する欄がある。


 迷った時の確認先が決まっている。


 同じ不在でも、その重さは違った。


「わからないことが出たら、空欄のまま私へ回してください」


「はい。推測では埋めません」


 ヴェクは答えた。


 午前中の受付は、農地相談が二件、税の確認が一件。


 最初の農民には、相談の対象となる土地の位置を聞いた。


 次の農民には、過去の書面と立会人の有無を確かめた。


 税の相談には、納付年度と受領証を確認した。


 どれも、ヴェクが一人で処理した。


 空欄を聞き忘れることは、もうなかった。


 判断できない箇所には、小さく印をつけてライルへ回す。


 できないことを、できるふりもしなかった。


 ダグラスは過去の収穫記録と、今年の官倉搬入分を照合していた。


 数字のずれが一つ見つかると、元の記録へ戻る。


 誰が書いた数字か。


 いつ集計した数字か。


 税納付分と、売却予定分が混ざっていないか。


 確認した日付を書き添え、脇へ置く。


 誰に指示されたわけでもない作業だった。


「一件、確認が必要です」


 ダグラスが言った。


「内容は」


「北側の一戸です。ゲオルグが聞き取った売却希望量と、官倉への搬入予定量に麦袋三つの差があります」


「理由は」


「まだわかりません」


「では、未確認として分けてください。本人へ確認するまでは、申し入れの数量に加えない」


「承知しました」


 ダグラスは数字を消さなかった。


 線を引き、横に書いた。


 差異三袋。


 理由、未確認。


 執務所は、以前より静かに回っていた。


 だが、静かさの中身は違う。


 何も見ようとしなかった頃の静けさではない。


 それぞれが自分の持ち場を知り、必要な声だけが交わされる静けさだった。


---


 昼前、ニルスが官倉に来た。


 用件は、預けた麦の確認ではなかった。


「隣のカール家に、麦を分けました」


 入口の記録机に座っていたヴェクが顔を上げた。


 ライルも官倉の台帳から目を離す。


「官倉に預けている分ですか」


「いいえ」


 ニルスは首を横に振った。


「家に残してある食い扶持からです。向こうは、来年の種にする麦が足りないと言っていたので」


「量は」


「麦袋二つです」


「代わりに、何か受け取りましたか」


「工具を借りました。刃こぼれした鍬を、あそこの砥石で研がせてもらいます。それから、冬前の柵直しを一日、手伝ってもらうことになりました」


 銅貨は動いていない。


 麦と、道具と、労力が動いた。


「いつ決めたのですか」


「昨日の夜です」


 ニルスは官倉の奥を見た。


「売却分に手をつけたわけではありません。あれは、隊商との話に使うために置いてあるものです」


 はっきりとした答えだった。


 官倉に預けた売却予定分。


 税として納めた分。


 家に残した食用分。


 来年の種麦。


 ニルスは、それらを頭の中で分けている。


「カール家とは、どのように記録しましたか」


「向こうの帳面に書いてもらいました」


「帳面があるのですか」


「家計用のものです。麦袋二つを受け取ったこと。鍬の砥石を使わせること。柵直しを一日手伝うこと。お互いの名前も書きました」


「立ち会った人は」


「カールの妻と、うちの弟です」


 ニルスは少し気まずそうに頭をかいた。


「うちだけの話だと、後で『言った』『言わない』になるかもしれないので」


 誰かに指示されたわけではない。


 執務所が書式を渡したわけでもない。


 それでも、ニルスは記録を残す必要に気づいていた。


「執務所にも記録していいですか」


 ニルスが聞いた。


「記録はします」


 ライルは答えた。


「ただし、執務所が交換の条件を保証するわけではありません」


 ニルスが少し首を傾げた。


「保証」


「麦袋二つと、砥石の使用と、労働一日が同じ価値かどうか。それを執務所が決めるわけではないということです」


「ああ」


「両者が合意した事実と、その内容だけを記録します。約束が守られなかった場合に、何を約束していたかを確認できるようにするためです」


「それで十分です」


 止める理由はなかった。


 禁じる理由もない。


 商会を通さずに物や労力を交換すること自体は、違法ではない。


 問題になるのは、内容が表に残らず、後から一方だけが違うことを言い始めた時だ。


 記録があれば、少なくとも約束の形は確かめられる。


「ヴェク」


「はい」


「仮の記録を一頁作ってください」


「項目は」


「日付。双方の名前。渡した物。受け取る物。数量。履行日。立会人」


 ヴェクが新しい紙へ線を引く。


「今回の履行日は」


 ニルスへ尋ねた。


「砥石は明日です。柵直しは冬前ですが、日はまだ決めていません」


「では、そのまま書きます」


 決まっていないことを、決まった形にはしない。


 ヴェクは記録した。


 柵修繕一日。


 実施日、未定。


---


 午後、ゲオルグが顔を出した。


「ニルスとカールの話を聞きました」


「早いですね」


「隣で起きたことは、畑に出れば聞こえてきます」


 ゲオルグは少し笑った。


「私の家にも、余っている塩があります。代わりに、手が足りない家の畑を手伝ってもらえないかと思いまして」


「相手は決まっていますか」


「まだです。必要な家へ声をかけてみないと」


「量は」


「小袋で三つほどです。全部出すつもりではありません」


「無理に広げなくて構いません」


「わかっています」


 ゲオルグは頷いた。


「ただ、こういう時には、誰が誰へ何を渡したかを、はっきりさせておいた方がいいと思いまして」


 一人が始めたことが、隣へ伝わっている。


 誰かに命じられたわけではない。


 商会との取引が止まり、銅貨が動かなくなった。


 それでも、家ごとに余っている物と足りない物は違う。


 困っている形が同じだから、互いに補えることへ気づいた。


「こうした交換は、増えると思いますか」


 ライルが聞いた。


「増えるでしょう」


 ゲオルグは答えた。


「商会がなくても、隣同士でどうにかできることは、案外あります」


「その分、揉め事も増えるかもしれません」


「量を違って覚えていたり、手伝う日を忘れたり」


「はい」


「だから、記録なんですね」


 ゲオルグは、新しく作られた頁を見た。


「執務所で書いてもらえるなら、安心する者は多いと思います」


「執務所が、取引を決めるわけではありません」


「わかっています」


「条件が公平かどうかを認定するわけでもない」


「ただ、何を約束したかを残す」


「そうです」


 公の記録があるからといって、私的な約束がすべて正しくなるわけではない。


 誰かが、弱い立場の者に不利な条件を押しつける可能性もある。


 記録は、問題をなくす道具ではない。


 問題が起きた時に、事実を見失わないための道具だ。


「それでも、ないよりはいい」


 ゲオルグが言った。


「はい」


 ライルは頷いた。


「それも記録に残しましょう」


 ヴェクが新しい帳面を用意した。


「名称は、どうしますか」


 ライルは少し考えた。


 売買ではない。


 贈与とも限らない。


 物だけでなく、労力や道具の使用も含む。


「融通記録にしましょう」


「融通記録」


 ヴェクが表紙に書いた。


 日付。


 当事者双方の名前。


 渡した物、または労力。


 受け取る物、または労力。


 数量。


 履行日。


 立会人。


 双方の確認。


 最後に、一行を加えた。


 執務所は、交換価値および履行を保証しない。


「この一文は必要ですか」


 ヴェクが聞いた。


「必要です。記録することと、責任を引き受けることは違います」


「承知しました」


 項目はすぐに決まった。


 風聞記録を作った時と同じだった。


 事実を、なかったことにしない。


 ただし、記録にない意味まで付け加えない。


---


 夕方までに、融通記録へ二件目の相談が入った。


 油を少量余らせている家と、薪を多く持つ家。


 まだ交換は成立していない。


 両者へ話を通してよいかという相談だけだった。


「執務所が相手を割り当てることはしません」


 ライルは言った。


「条件は、両家で話してください。合意した場合に、必要なら記録します」


 執務所が交換を命じ始めれば、別の支配になる。


 商会の代わりに行政がすべてを決めても、選択肢が増えたことにはならない。


 執務所がするのは、場を作ること。


 記録を残すこと。


 問題が起きた時に、確認できるようにすること。


 それだけだった。


 ヴェクは、相談者の名前だけを別の頁に書いた。


 交換未成立。


 相手方との協議前。


 記録受付なし。


「成立していないものも書くのですか」


 相談者が聞いた。


「正式な融通記録ではありません」


 ヴェクが答えた。


「今日、相談があったことだけです。話がまとまらなければ、それで終わりです」


 ライルはヴェクを見た。


 説明に不足はなかった。


---


 同じ頃、南通りの穀物商会では、ヴォルツが報告を受けていた。


「東の街道の件、続きです」


「言え」


「市場町の宿で、聞き込みが取れました。ガルダの記録係が、商人組合を訪ねていたそうです」


 ヴォルツの指が止まった。


「用件は」


「そこまでは。組合を訪ねたことだけが確認できています」


「いつだ」


「数日前です。正確な日付は掴めていません」


「一人で行ったのか」


「そう聞いています」


 一人で。


 ただ書状を届けるだけなら、別の使いでも済む。


 記録係本人が出向く必要はない。


 倉。


 農民。


 記録係。


 東の街道。


 商人組合。


 線は増えた。


 だが、まだ一枚の絵にはならない。


「商人組合の中は」


「探れば目立ちます。あちらは、出入りする者をよく見ています」


「記録係は、もうガルダへ戻ったのか」


「一度戻ったようです」


「一度?」


「また東へ向かったという話があります」


 ヴォルツは黙った。


 最初の訪問で何かを確かめた。


 戻って準備をした。


 そして、再び向かった。


 その順番なら、二度目には何かを持っている。


「荷物は」


「小さな旅袋だけです」


「書状は」


「確認できていません」


 書状。


 その可能性が、初めて形を持った。


「市場町へ、こちらの者を出せ」


 ヴォルツが言った。


 使いの男が顔を上げる。


「商人組合へ入れるのですか」


「入るな」


 ヴォルツは即座に答えた。


「街道と宿を見ろ。ガルダの記録係が誰と会い、何を持って帰るか。それだけでいい」


「承知しました」


「接触するな。尾行にも気づかれるな」


「はい」


 使いが下がろうとした。


「待て」


 ヴォルツが止めた。


「間に合わない場合は、無理に追うな」


「よろしいのですか」


「相手が何をしようとしているかわからないまま手を出せば、また記録に残される」


 水路の時も。


 帳簿の時も。


 相手は、こちらが動いた後に、その動きを事実として積み上げた。


 急いで止めれば、止めたという事実を渡すことになる。


「まず、形を見ろ」


「承知しました」


 使いが下がった。


 ヴォルツは指を組んだ。


 もう一手待てば、全体が見えるかもしれない。


 だが、待ちすぎれば、手遅れになるかもしれない。


 どちらの不安も、同じ重さで胸に残った。


 窓の外には、東へ続く道は見えない。


 見えない道の先で、何かが動いている。


 今度こそ、先に形を見たい。


 だが、焦って手を出せば、また同じ轍を踏む。


 ヴォルツは、その両方を抱えたまま、日が落ちるのを待った。


---


 夜、ライルは手帳を開いた。


 着任三十二日目。


 ロイド、東街道へ。


 申し入れ書面、商人組合へ搬送中。


 執務所。


 ロイド不在でも通常受付を継続。


 ヴェク、単独対応三件。


 記録漏れなし。


 ダグラス、収穫量と官倉搬入量を照合。


 差異一件、本人確認待ち。


 融通記録、開始。


 ニルス、カール間。


 麦袋二つ。


 対価、砥石使用、柵修繕一日。


 履行日、一部未定。


 ゲオルグ、塩と労力の交換を検討中。


 執務所は交換条件を決定せず、合意内容のみ記録する。


 命じてはいない。


 生まれた動きを、記録しているだけだ。


 商会側。


 ロイドの商人組合訪問を把握した可能性あり。


 用件は未確認。


 次の動きに注意。


 ロイドからの連絡は、まだない。


 期限まで、残り七日。


 ペンを止めた。


 返事は、まだ来ない。


 申し入れ書が届いたという連絡もない。


 隊商が検討するという保証もない。


 ヴォルツからの妨害も、まだない。


 だが、何も起きていないわけではなかった。


 執務所は、人が一人欠けても回った。


 農民は、商会の外で物と労力を動かし始めた。


 商会は、東の街道へ目を向けた。


 返事も。


 妨害も。


 まだ見えない場所から、同じ時間の中を近づいている。


 ライルは手帳を閉じた。


 待つことは、何もしないことではない。


 返事が来るまでに、崩れない形を作る。


 返事が来なかった時にも、残るものを増やす。


 窓の外で、夜の風が街道の方角から吹いた。


 ライルは蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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