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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第四章:麦の道を、探す

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第二十四話「書面が、道をひらく」

 着任三十一日目の朝、ロイドは定刻より少し早く執務所へ来た。


 顔色は戻っていた。


 昨日まで残っていた旅の疲れも、少なくとも表面からは消えている。


「昨日の続きを」


「はい」


 机の上には、昨夜、項目だけを書き出した紙が広げられていた。


 隊商への申し入れ資料。


 売却希望者。


 売却希望量。


 麦の状態。


 保管場所。


 積み込み可能日。


 必要物資。


 連絡責任者。


 欄はまだ、ほとんど空だった。


 だが、何を集めればよいかは、もうわかっている。


「まず、数字を埋めます」


 ライルは言った。


「今日中に」


「はい」


「推測は書きません。確認できた数量だけです」


「承知しました」


 ロイドは席に着いた。


 筆を取る。


 昨日までとは違う速さで、手が動き始めた。


 旅から戻ったばかりの人間の動きではない。


 次に何を確かめ、どの順に並べるべきか。


 それが見えている人間の動きだった。


「ヴェク」


「はい」


「官倉の預かり台帳と、現物納付の受領記録をお願いします」


「すぐに持ってきます」


「ダグラスには、過去の収穫量と売却記録の照合を」


「伝えます」


 必要な仕事が、執務所の中で分かれていく。


 誰か一人がすべてを抱えるのではない。


 集める者。


 確かめる者。


 書く者。


 それぞれの仕事が、同じ一通の書面へつながっていく。


---


 昼前、ゲオルグが来た。


 用件は別だった。


 北側水路の脇で、畦の一部が崩れているという報告だった。


 ヴェクが内容を書き取り、修繕候補へ加える。


 話が終わったところで、ライルはゲオルグを呼び止めた。


「もう一つ、聞かせてください」


「何でしょう」


「南通り穀物商会以外への売却を希望する家は、どれくらいありますか」


 ゲオルグは少し考えた。


「私が知る範囲なら、七戸か八戸です」


「確実に売る意思がある家ですか」


「商会に断られて困っている家です。別の買い手がいるなら売りたい、と」


「量は」


「家によります。多い家で麦袋二十。少ない家なら五つか六つでしょう」


 ロイドが書き取った。


 ライルは続けた。


「今日中に、正確な数を集められますか」


「回ってみます」


「無理な約束はしないよう伝えてください」


 ゲオルグがライルを見る。


「出せる量だけで構いません。生活分や種麦まで含める必要はありません」


 ゲオルグは、少し笑った。


「無理をさせないための話だと、伝えておきます」


「お願いします」


 ゲオルグは頭を下げ、出ていった。


 ロイドは、書いた数字の横に小さく印をつけた。


「これは、まだ見込みですね」


「はい。本人の確認が取れるまでは、予定数です」


 ロイドは欄外に書き足した。


 ゲオルグ聞き取り。


 七戸から八戸。


 数量、未確定。


 その記録の仕方に、もう迷いはなかった。


---


 昼過ぎ、ニルスが来た。


 官倉に預けている麦の状態を確認するためだった。


「うちの麦は」


「今朝、ヴェクが確認しています。状態に問題はありません」


 ニルスは目に見えて息をついた。


「よかった」


「隊商への申し入れに向けて、確認したいことがあります」


「はい」


「預けている分のうち、売却を希望する量は変わりませんか」


「変わりません。全部、売れれば助かります」


「自家消費分と、来年の種麦は別に確保していますね」


「はい。それは家に置いています」


「積み込みには、いつ対応できますか」


「連絡をもらえれば、すぐに」


「荷車まで運ぶ人手は」


「家族だけでは足りません。ただ、近所に声をかければ」


「確実に集められる人数を確認してください」


「わかりました」


 ロイドが書き入れる。


 ニルス。


 売却希望量、官倉預かり分全量。


 自家消費・種麦、別途確保済み。


 搬出、即日対応可。


 人足、要確認。


「それから、隊商が塩や油、簡単な農具を扱っているそうです」


 ニルスが顔を上げた。


「塩もですか」


「はい。必要な物と量を、わかる範囲で教えてください」


「塩は欲しいです。油も。農具は、鍬の刃があれば」


「必ず買えるとは限りません」


「わかっています」


 ニルスは頷いた。


「でも、来るかもしれないなら、書いておいてください」


「記録します」


 麦を買ってほしい。


 それだけでは、隊商がガルダに来る理由として弱い。


 買う物があり、売れる物もある。


 往路も復路も荷車を空にしない。


 商人が道を選ぶには、商人側の利益が必要だった。


---


 午後遅く、ゲオルグが戻ってきた。


 朝よりも少し息が上がっている。


「八戸です」


「全員に確認できましたか」


「はい。家ごとに聞きました」


 ゲオルグは折った紙を差し出した。


 自分で書いたものではない。


 家ごとに印だけをもらい、読み書きのできる者に名前と数量を書いてもらったらしい。


「合計は、麦袋百二十ほどです」


「ほど、というのは」


「まだ袋詰めが終わっていない家が二戸あります。少なく見積もって百二十です。多くても百三十を少し超える程度だと」


「では、書面には百二十と書きます」


 ゲオルグが頷いた。


 出せるかもしれない量ではなく、確実に出せる量を書く。


「搬出可能日は」


「三日以内なら全戸対応できます。ただ、一度に運ぶなら人手が要ります」


「積み込み場所を官倉前にまとめる場合は」


「前日までに言ってもらえれば、運べます」


「ありがとうございます」


 ロイドが一つずつ欄を埋める。


 売却希望者、八戸。


 確定数量、麦袋百二十。


 追加見込み、最大十袋程度。


 搬入、通知後三日以内。


 集積場所、官倉前を候補。


 空欄が、文字へ変わっていく。


 文字が、量を持つ。


 量が、取引の可能性へ変わっていく。


---


 夕方、ヴェクが官倉の記録を運んできた。


「預かり件数、五件です。総量、麦袋百三十五」


「状態は」


「すべて良好です。今日の確認時刻と、確認者も記録しています」


「積み方に問題は」


「壁との間隔は確保しています。一番奥の区画は使用していません」


 ロイドが記録を受け取った。


「現物納付は」


「今年分、三件を受領済みです」


「売却希望分と混ざっていませんね」


「台帳も保管場所も分けています」


 ライルは二つの記録を並べた。


 官倉の預かり量。


 現物納付の受領量。


 所有者。


 搬入日。


 状態。


 担当者。


 すべてに、数字と日付と印がある。


 口約束ではない。


 ガルダに売れる麦がある。


 保管する場所がある。


 誰の麦かを区別できる。


 約束した量を、約束した日に出せる。


 それを示す材料が揃い始めていた。


「この記録を、申し入れの裏付けにします」


「はい」


 ロイドが本文の下書きを始めた。


 ガルダ領の現状。


 南通り穀物商会による一部農家への買い取り見合わせ。


 新たな取引先を求めていること。


 官倉による一時保管体制。


 売却希望八戸。


 確定数量、麦袋百二十。


 品質、現時点で良好。


 集積、官倉前で対応可能。


 塩、油、農具などへの需要。


「感情は入れません」


 ライルが言った。


「困っている。助けてほしい。そういう言葉は書かない」


「はい」


「隊商にとって検討できる取引であることを、数字で示します」


 ロイドの筆が止まる。


「買ってほしい、ではなく」


「取引の検討を求める」


「はい」


「こちらが差し出せるものと、必要としているものを同じ書面に載せます」


 書き上がった文面を、ロイドが読み上げた。


 ライルは黙って聞いた。


 内容に大きな問題はない。


 だが、最初の一行で止めた。


「宛先を直します」


「隊商殿、ではなく」


「隣領市場町商人組合、取次役殿」


「はい」


 隊商の名前は、まだ正式には確認できていない。


 組合を飛び越えて、直接申し入れるべきでもない。


 正規の窓口を通す。


 誰から、誰へ渡された文書なのかを残す。


 それが、「噂ではなく、書面で」という要請への正しい応え方だった。


「本文の順番も変えましょう」


「どのように」


「まず、こちらが何者か」


 ロイドが別の紙を出した。


「次に、申し入れの目的」


「はい」


「その後に、取引条件と裏付けです」


 順番を入れ替える。


 帝国ガルダ領調整官。


 ライル・フォン・ヴァルディス。


 領内で生産された麦について、新たな取引先を求めている。


 売却希望者、八戸。


 確定数量、麦袋百二十以上。


 官倉で保管中の麦を含む。


 状態確認済み。


 指定日から三日以内に、官倉前へ集積可能。


 塩、油、簡易農具などの購入需要あり。


 最後に一文。


 貴組合を通じ、次回巡回を予定する隊商へのお取り次ぎをご検討いただきたい。


「ご検討いただきたい」


 ロイドが読み返す。


「要望はします。ですが、要求はしません」


「判断は相手に委ねる」


「はい」


 それは、これまで商会や帝都へ送ってきた書面と同じだった。


 こちらの立場を明らかにする。


 確認できた事実を示す。


 求めることを明確にする。


 相手の判断まで奪わない。


「添付する記録は」


 ロイドが尋ねた。


「原本は出しません」


 ライルは答えた。


「官倉台帳と受領記録から、必要な部分だけを写します。写しであることと、原本の保管場所を明記してください」


「数字が変わった場合は」


「発送時点の数字だと書きます」


「売却希望者の名前は、すべて載せますか」


「組合へ渡す書面には人数と総量だけです。個人名の一覧は、取引の検討が進んだ段階で提示します」


 必要な情報は渡す。


 だが、農民の名を、不必要に外へ出さない。


 ロイドは頷き、書面を整え直した。


---


「届けるのは」


 ロイドが聞いた。


「使者を出します」


 ライルは答えた。


 ロイドが顔を上げた。


「私が行きます」


「戻ったばかりです」


「取次役の顔を知っています。前回、どこまで話したかも、私が一番わかっています」


「書面を渡すだけでは済まない可能性があります」


「質問されたことは記録し、判断できないものは持ち帰ります」


「その場で条件を約束しない」


「はい」


「取引価格も、数量の追加も」


「約束しません」


 ライルは少し考えた。


 別の者に持たせれば、書面そのものは届く。


 だが、書面に至る経緯を説明できる者が行く方がよい。


「明朝、出発してください」


「承知しました」


「ただし、今回は往路を急がないこと。前回と同じ宿泊記録を残してください」


「はい」


「書面を渡した日時、受取人、返答の期限を記録する」


「はい」


「正式な返答は、必ず書面でもらってください」


「承知しました」


「期限まで、九日です」


「間に合います」


 ロイドは書面を封筒に入れた。


 まだ封はしない。


 最終確認と、ライルの署名、調整官印が残っている。


 旅の袋は、机の脇に置かれていた。


 昨日片づけたばかりの袋だった。


 ロイドはもう、次の道へ出る準備を始めている。


---


 日が落ちる前、ライルは完成した書面を読み返した。


 誤字。


 数字。


 日付。


 宛先。


 添付資料。


 返答の送付先。


 一つずつ確認する。


 ロイドも、隣で同じ箇所を確認している。


「麦袋百二十以上」


 ライルが言った。


「はい」


「『以上』は外しましょう」


 ロイドが本文を見る。


「追加見込みがありますが」


「確実に用意できるのは百二十です」


「では、百二十」


「追加分は、別記で見込み最大十袋とします」


「承知しました」


 確実な数字と、増える可能性のある数字を混ぜない。


 書面で信用を作るなら、少なく見せることより、約束を守ることの方が重要だった。


 修正を終える。


 ライルが署名した。


 調整官印を押す。


 封筒へ入れ、蝋を落とす。


 印章を押し当てる。


 赤い蝋の上に、ガルダ調整官の印が残った。


 これで、ただの相談ではなくなった。


 誰が出し、誰に届け、何を申し入れたのか。


 後から確かめられる公の書面になった。


 ロイドは封書を両手で受け取った。


「預かります」


「お願いします」


---


 同じ頃、南通りの穀物商会では、ヴォルツが報告を受けていた。


「執務所裏の倉が、また開いています」


「何が入っている」


「麦です。農民が何人か、荷を運び込んでいます」


「出ていく荷は」


「まだ、ありません」


 ヴォルツは指を組んだ。


 倉を開けた。


 税の現物納付を戻した。


 麦を集めている。


 それだけなら、領内で滞留させているにすぎない。


 買い手がいなければ、いずれ倉は満ちる。


「調整官の記録係は」


「先日、戻ってきたそうです」


「どこへ行っていた」


「わかりません。ただ、東の街道から戻ったと」


 東の街道。


 ヴォルツの指が止まった。


「戻ってからは」


「執務所で何かを書いています。今日も農民が何人か出入りしていました」


「何を書いている」


「そこまでは」


「記録係が、また旅支度をしているという話もあります」


 ヴォルツは窓の外を見た。


 水路の時も、同じだった。


 最初は、ただ人が集まっただけに見えた。


 次に、石と土が動いた。


 気づいた時には、水が流れていた。


 今回も、小さな動きが静かに積み重なっている。


 倉。


 農民。


 記録係。


 東の街道。


 何かがつながりかけている。


 だが、まだ形が見えない。


「調べろ」


「執務所を?」


「違う」


 ヴォルツは短く言った。


「東の街道だ。関所と市場町で、ガルダの人間を見た者がいないか聞け」


「承知しました」


「近づきすぎるな。誰が尋ねたかも残すな」


「はい」


 使いが下がった。


 ヴォルツは指を組んだまま、動かなかった。


 すぐに止めるべきか。


 まだ見るべきか。


 正体のわからない動きを恐れて手を出せば、相手に利用される。


 それは、すでに一度経験している。


 見て、待つ。


 形が見えてから、潰す。


 そう自分に言い聞かせた。


 だが、机を叩く指は、一定の速さではなかった。


---


 夜、ライルは手帳を開いた。


 申し入れ文書、完成。


 宛先。


 隣領市場町商人組合、取次役。


 目的。


 次回巡回隊商との取引検討。


 売却希望。


 八戸。


 確定数量、麦袋百二十。


 追加見込み、最大十袋。


 保管。


 官倉、一時預かり体制あり。


 品質確認済み。


 積み込み。


 通知後三日以内。


 購入希望物資。


 塩、油、簡易農具、乾物。


 添付。


 官倉預かり記録写し。


 現物納付受領記録写し。


 明朝、ロイド出立。


 期限まで九日。


 ペンを止めた。


 言葉ではなく、記録で示す。


 それが、この一か月、続けてきたやり方だった。


 水路も。


 台帳も。


 土地も。


 証言も。


 見えないものを、一つずつ確かめられる形にしてきた。


 麦もまた、同じやり方で動かす。


 ただし、書面を出せば、隊商が来るわけではない。


 相手には、断る理由がある。


 価格が合わないかもしれない。


 量が少ないかもしれない。


 ガルダの噂を信用しないかもしれない。


 それでも、書面は最初の道になる。


 噂しか届いていなかった場所へ、事実を届ける。


 途切れていた相手との間に、もう一度、返事の通る道を作る。


 ライルは手帳の最後に一行書いた。


 麦を動かす前に、書面を動かす。


 明日、その一通が東の街道へ出る。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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