第二十三話「隊商は、まだいる」
着任三十日目の夕刻、執務所の扉が開いた。
ロイドだった。
旅装のまま、靴は土埃で白くなっている。上着の裾には、乾いた泥が残っていた。
顔には疲れがあった。
頬が少しこけている。目の下にも薄い影がある。
だが、目は落ちていなかった。
「戻りました」
「お疲れさまでした。まず、休んでください」
ライルが言った。
ロイドは首を横に振った。
「先に、報告します」
声はかすれていた。
だが、言葉ははっきりしていた。
旅の袋から、出発前に作った調査記録を取り出す。
紙の端が、道中の湿気で少し波打っていた。それでも綴じ目は崩れていない。
表紙には、出発前に書いた文字がある。
隊商調査。
担当、ロイド。
「座ってください。それからで構いません」
「はい」
ロイドは、自分の椅子に座った。
数日前まで空いていた椅子だった。
ヴェクが水を出した。
「お帰りなさい」
ヴェクが言うと、ロイドは小さく頭を下げた。
「留守を、ありがとうございました」
「抜けたところもありました」
「戻ってから確認します」
短いやり取りだった。
だが、ヴェクの肩から少しだけ力が抜けた。
ダグラスは部屋の隅で書類を整理する手を止め、こちらを見ていた。
何も言わなかった。
ただ、ロイドが無事に戻ったことを確かめるように、その姿を見ていた。
ロイドは水を一口飲んだ。
それから、調査記録を開いた。
---
「順に、お話しします」
「お願いします」
「聞き取り先は、二か所の関所と、隣領市場町の商人組合、それから荷車宿です」
ロイドは指で項目を追った。
「一つ目の関所では、過去五年分の通行記録を確認しました。二つ目では、現在の街道状況と通行税を確認しています」
「聞き取り相手は」
「関所の記録係二名。商人組合では取次役一名。荷車宿では宿の主人です。名前と所属は、こちらに記録しています」
ロイドが頁を示した。
聞き取り日時。
場所。
相手の名前。
役職。
確認した記録。
相手の発言。
事実確認の有無。
必要な欄がすべて埋まっている。
執務所の外に出ても、ロイドの記録の取り方は変わっていなかった。
「隊商の拠点は」
「隣領の市場町です。そこを拠点に、年に二度、近隣の村を回っています」
「通行時期は」
「ガルダの通行記録と一致していました。収穫期の少し後と、冬に入る前です」
「扱う品目は」
「麦が中心です。買い取るだけでなく、乾物、塩、灯りの油、簡単な農具も運んでいます」
ライルの筆が止まった。
塩。
油。
農具。
ニルスが必要としていたものだ。
「麦を買い、生活物資を売る」
「はい。物々交換にも応じる場合があるそうです。ただし、基本は銅貨での取引です」
「街道の状況は」
「問題ありません。関所も通常通り機能しています。通行税と市場使用料にも、ガルダへの立ち寄りが減った時期に変更はありませんでした」
「ガルダとの過去の取引は」
「商人組合の記録に、七年前まで遡って残っていました」
ロイドは次の頁を開いた。
「毎回、荷車五台から七台分。個々の農家から直接買い集めていたようです。南通り穀物商会のように、領内分をまとめて買い上げる方式ではありませんでした」
「価格の記録は」
「一部だけ残っていました。年によって差がありますが、農民側が南通り穀物商会と隊商を比較できる程度には、違う価格がついています」
「どちらが高かったのですか」
「常に同じではありません。隊商の方が高い年も、商会の方が高い年もあります」
それで十分だった。
買い手が二つあれば、農民は条件を比べられる。
どちらか一方を選ぶことができる。
買い手が一つしかなければ、提示された条件を受け入れるしかない。
ここまでは、ガルダに残っていた通行記録から予想していたことだった。
だが、次の一言で、執務所の空気が変わった。
「隊商は、今も存在します」
ロイドは言った。
「今も、その巡回を続けています」
ライルは手帳から顔を上げた。
ヴェクの筆も止まった。
ダグラスも、書類を持ったまま動かなかった。
「ただし」
ロイドは一度、言葉を切った。
「ガルダには、もう何年も立ち寄っていません」
---
「理由は」
ライルが聞いた。
「ここからは、確認できたことと、確認できていないことを分けてお話しします」
「そうしてください」
ロイドは記録の頁を一枚めくった。
「確認できたこと。隊商の巡回路には、ガルダへ続く東街道が今も含まれています。近年の経路記録にも、街道そのものは残っています」
「ガルダを通れない理由はない」
「はい。街道も関所も使えます」
「確認できていないことは」
「なぜガルダへの立ち寄りをやめたのか。隊商本人からは聞けませんでした」
「会えなかったのですか」
「はい。今回、隊商は西側の村を巡回中でした。市場町へ戻るのは十日ほど先だそうです」
「では、立ち寄らなくなった理由について、誰から聞きましたか」
「荷車宿の主人です」
ロイドは、一度記録を確認した。
「三年ほど前、ガルダの者だと名乗る男が、隊商の泊まる宿に現れたそうです」
執務所の中が静かになった。
「何を言ったのですか」
「ガルダの麦には、もう先の約束がある。来ても買える麦はない——そう伝えたと」
「相手の名前は」
「宿の主人は聞いていませんでした」
「容姿は」
「覚えている範囲で、記録しました」
ロイドが別の欄を示した。
三十代から五十代。
男。
ガルダの者と名乗った。
濃い色の外套。
荷物なし。
一人。
「幅がありますね」
「はい。三年前の記憶です。宿の主人も、断定はできないと言っていました」
「商会の者だった可能性は」
「確認できません」
「執務所の者だった可能性は」
「それも確認できません」
ロイドの声は変わらなかった。
誰かを疑う方向へ流れなかった。
「事実として記録できるのは」
ライルが聞いた。
「隊商が、ある時期からガルダへの立ち寄りをやめたこと」
ロイドは答えた。
「その少し前に、ガルダから来たと名乗る者が荷車宿を訪れ、ガルダの麦には先約があると話した——という宿の主人の記憶」
そこで一度止めた。
「この二つです」
ライルは頷いた。
「その男の所属も、発言の真偽も、隊商がそれを理由にガルダを外したのかも、まだ確認できていない」
「はい」
事実。
伝聞。
推測。
ロイドは、その境界を越えなかった。
執務所を出る前に覚えた作法ではない。
ここで積み重ねた仕事を、自分のものにした人間の報告だった。
ダグラスが、静かに口を開いた。
「三年前……」
全員の視線が向いた。
ダグラスは少し考えた。
「商会が、領内の麦の買い付けを増やした時期です。ただ、その男については知りません」
「それも記録します」
ライルが言った。
ヴェクの筆が動いた。
ダグラスは短く頷き、再び口を閉じた。
---
「隊商との接触の可能性は」
「隊商本人には会えませんでした」
ロイドは答えた。
「ですが、商人組合の取次役が、こちらの話を聞いてくれました」
「どこまで話しましたか」
「ガルダで南通り穀物商会による一部農民への買い取り見合わせがあり、過去の取引先を確認していること。官倉による一時保管と、現物納付の受付を再開したことです」
「困窮しているとは」
「言っていません」
「現在の保管量は」
「まだ伝えていません。正式な記録を整えてから提示すると答えました」
ライルは頷いた。
必要以上にこちらの弱みを見せていない。
だが、嘘もついていない。
「取次役は、何と言っていましたか」
「隊商は商売で動く相手です。取引を断った事情が解消され、利益が見込めるなら、検討はするだろうと」
「条件は」
「正式な申し入れを書面で出すことです」
ロイドは少し間を置いた。
「『噂ではなく、書面で来てほしい』と」
ガルダについては、あちらにも噂が届いていた。
新しい調整官が商会を潰そうとしている。
土地の名義を勝手に動かしている。
領内が混乱している。
それとは別に、水路が直ったという話も届いている。
官倉が開いたという話も、すでに市場町の一部では聞かれていた。
良い話も、悪い話も、街道を通る。
だが、噂だけでは取引は始まらない。
「次の巡回は」
「冬前の巡回が、ひと月ほど先です」
「申し入れの期限は」
「隊商が市場町へ戻る十日後までに書面が届けば、次の巡回経路を決める前に検討できるそうです」
ひと月ではない。
実質、十日だ。
ライルは手帳に書いた。
隊商帰還まで十日。
経路決定前に申し入れ。
官倉には、ニルスの麦が預けられている。
現物納付は、本来の形に戻った。
量を記録する。
状態を記録する。
誰の麦かを記録する。
預かり分と税納付分を分ける。
仕組みは、すでに動き始めている。
だが、一件分だけでは足りない。
隊商が荷車を動かすには、買い付けるだけの量が要る。
品質が揃っている必要もある。
積み込み場所と、日程も決めなければならない。
「ロイド」
「はい」
「もし今、隊商へ申し入れをするなら、何を示せば信じてもらえると思いますか」
ロイドは少し考えた。
「三年前と同じ言葉を、また誰かが言うかもしれません」
「ガルダに買える麦はない、と」
「はい」
ロイドは官倉の方向へ目を向けた。
「それを打ち消せるのは、口約束ではありません」
「記録」
「はい」
ロイドは指を折るように、一つずつ言った。
「売却を希望する農家の名前」
「麦の量」
「品質」
「保管場所」
「いつまで保管できるか」
「積み込み場所と、運び出せる日」
ライルは続けた。
「隊商が持ち込む品目への需要も必要です」
「塩、油、農具」
「乾物も」
官倉と現物納付。
応急のために打った二つの手が、ここでつながった。
保つための時間稼ぎだったものが、取引の信用を作る仕組みに変わる。
「官倉の預かり量と状態、現物納付の受領記録を整理します」
ライルは言った。
「それに、農家別の売却希望量、希望する品目、搬入可能日を加えます」
「はい」
「十日以内に、隊商への正式な申し入れを出します」
「私が、まとめます」
ロイドが言った。
「帰ってきたばかりです」
「今日中に、項目だけでも」
ライルはロイドの顔を見た。
疲れている。
報告を終えたことで、張っていたものが少し緩んでいる。
だが、目だけは帳面に向いていた。
「では、項目だけです」
「はい」
「書いたら帰って休んでください。明日の朝までは、受付にも出なくて構いません」
「ですが」
「これは指示です」
ロイドは少しだけ口を閉じた。
それから、頷いた。
「承知しました」
---
ロイドは調査記録を閉じ、自分の机に向かった。
椅子を引く。
数日前まで、誰も座っていなかった椅子だ。
埃をかぶった上着のまま、帳面を開いた。
近隣取引先の調査記録。
出発した朝には白かった頁に、文字が並んでいる。
拠点。
巡回時期。
取扱品。
過去の取引量。
接触可能性。
必要な手続き。
ロイドは次の頁に、新しい見出しを書いた。
隊商への申し入れ資料。
その下に、項目を並べる。
売却希望者。
売却希望量。
麦の状態。
保管場所。
積み込み可能日。
必要物資。
連絡責任者。
そこまで書いて、筆を止めた。
「できました」
「今日は、それで十分です」
ロイドは筆を置いた。
立ち上がろうとして、椅子の背に一度手を置いた。
旅の疲れが、ようやく体に戻ってきたのだろう。
ヴェクが帳面を受け取った。
「明日の朝までに、官倉の記録をこちらへ移しておきます」
ロイドは少し驚いた顔をした。
「できますか」
「空欄があれば、残しておきます。勝手には埋めません」
ロイドは一度だけ、ヴェクの顔を見た。
「お願いします」
ダグラスが扉を開けた。
「宿まで送りましょう」
ロイドは断ろうとした。
だが、ダグラスはすでに外へ出ていた。
「……お願いします」
二人の足音が、廊下を遠ざかった。
ライルは、ロイドの机を見た。
空いていた椅子が、埋まった。
そしてまた、一晩だけ空く。
だが、以前とは違う。
今は、その仕事を受け取る者がいる。
記録を残すために外へ出た者が、事実を持ち帰った。
その事実を、今度は執務所全体が次の仕事へ変えようとしている。
---
夜、ライルは手帳を開いた。
隊商、現存確認。
拠点、隣領市場町。
巡回継続中。
ガルダのみ、長年立ち寄りなし。
扱う品目。
麦、乾物、塩、油、簡易農具。
過去の取引。
荷車五台から七台分。
個々の農家との直接取引。
不在の経緯。
伝聞のみ。
ガルダ側を名乗る者が先約を主張。
所属、目的、隊商への影響、未確認。
接触可能性あり。
隊商帰還まで十日。
次回巡回、約ひと月後。
官倉と現物納付の記録を、申し入れの裏付けとする。
売却希望量、品質、保管状態、必要物資を調査する。
ペンを止めた。
道の上にあった答えが、今、机の上に戻ってきた。
ただし、それは解決ではない。
隊商がいることはわかった。
話を聞く可能性があることもわかった。
だが、隊商は慈善で来るのではない。
買う価値のある麦があること。
運ぶだけの量があること。
約束した時に渡せること。
ガルダが取引相手として信用できること。
それを、これから示さなければならない。
答えを持ってきたのは、記録の作法を外の世界でも崩さなかった一人の役人だった。
次に必要なのは、その答えを取引の形へ変えることだ。
ライルは最後に一行加えた。
隊商は、まだいる。
ガルダが、もう一度その道の途中に戻れるかは、これから決まる。
蝋燭を消した。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




