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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第四章:麦の道を、探す

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第二十二話「空いた椅子」

 着任二十七日目の朝、ロイドが荷物を背負って執務所に来た。


 いつもの帳面ではなく、着替えと、少しの銅貨と、地図の写しが入った袋だった。


 手には、昨日作成した隊商調査の記録用紙を持っている。


 聞き取り先。


 相手の名前と所属。


 隊商の拠点。


 通行時期。


 扱う品目。


 街道の状況。


 ガルダとの過去の取引。


 必要な項目は、すでに並んでいた。


「行程は」


「隣領の市場町まで一日半です。途中、関所で二か所、聞き取りをします。市場町では商人組合と荷車宿を確認します」


「戻りは」


「早くて三日後です。聞き取りに時間がかかれば、五日後になるかもしれません」


「宿泊先は」


「初日は東街道の宿場。二日目以降は市場町の共同宿を予定しています。変更した場合は、関所に伝言を残します」


 ライルは地図の写しを確認した。


 予定経路には線が引かれている。


 宿泊予定地と、伝言を残す関所にも印があった。


「調査だと伝える相手は、必要な範囲に留めてください」


「はい」


「ガルダが買い手を失って困っている、と先に話してはいけません」


「取引停止の事実を聞かれた場合だけ、必要な範囲で答えます」


「それで構いません」


 ロイドは頷いた。


「無理はしないでください」


「はい」


「危険を感じたら、調査より帰還を優先してください」


「承知しました」


 ロイドは軽く頭を下げ、扉を出た。


 足音が廊下を進み、外へ出て、少しずつ遠ざかっていく。


 執務所には、ライルとヴェクが残った。


 ロイドの机の椅子が、そこにあった。


 誰も座っていなかった。


 着任した日、この執務所には役人が実質二名しかいなかった。


 今日も、実質二名だ。


 だが、あの日の二名と、今日の二名は違う。


 あの日は、誰も何も記録していなかった。


 今日は、一人が記録の仕方を知っている。


 その一人が、記録すべき事実を探すために外へ出た。


 その違いの重さを、空いた椅子が示していた。


---


 午前、受付にヴェクが座った。


 慣れない手つきで帳面を開く。


 名前を書く欄。


 住所を書く欄。


 用件を書く欄。


 来訪時刻。


 提出書類。


 対応内容。


 形は、ロイドが作ったものそのままだった。


 最初に来たのは、土地の相談を持つ農民だった。


 父の代に隣家と口頭で畑の境界を決めたが、最近になって位置が違うと言われたらしい。


 ヴェクは名前と住所を聞き、相談内容を書いた。


 だが、「書類の写しの有無」の欄を聞き忘れた。


 ライルが気づいて代わりに尋ねた。


「境界について、何か書面はお持ちですか」


「いえ……口約束だけで」


「立ち会った方は」


「村の古い者が二人。ただ、一人はもう亡くなっています」


「その旨も記録します」


 ヴェクが慌てて筆を足した。


「申し訳ありません」


「気にしないでください」


 ライルは言った。


「これまで当たり前に埋まっていた欄です」


 当たり前に埋まっていた。


 ロイドが、一つずつ必要性を考えて作った欄だった。


 いなくなって初めて、それがどれだけの仕事だったかがわかる。


「次からは、聞き取りの最後に空欄を確認してください」


「はい」


 ヴェクは帳面の端に、小さく書いた。


 終了前、空欄確認。


 昼過ぎには、別の農民が土地の境界の相談に来た。


 ヴェクは日付を書き間違えた。


 手が止まる。


 ライルは何も言わなかった。


 ヴェクは間違えた文字に一本の線を引き、横に正しい日付を書いた。訂正者の印も押した。


 ロイドなら、初めから間違えなかったかもしれない。


 だが、ヴェクは間違いを隠さなかった。


 間違えても、消さずに直せばいい。


 それも、この執務所がいつからか覚えたことだった。


 ライルは手帳に書いた。


 ロイド不在。


 記録の抜けを都度確認する必要あり。


 ヴェク、慣れは早い。精度はこれから。


 その下に、もう一行加えた。


 手順は、人が変わっても残る形にする。


---


 二日が過ぎた。


 受付は回っていた。


 だが、以前より一拍遅い。


 相談を受ける。


 帳面を確認する。


 空欄を探す。


 必要なら聞き直す。


 一つひとつに、ロイドがいた時には見えなかった時間がかかった。


 それでも、止まってはいなかった。


 商会からの新しい書面は来なかった。


 買い取りを断られた農民だけが、少しずつ増えていた。


 昼前、ゲオルグが用もなく顔を出した。


「近くまで来たので」


 それだけ言って、水路の様子を少し話した。


 第一工区も第二工区も、水は問題なく流れている。


 崩れた箇所もない。


 帰り際、ゲオルグは一言だけ付け加えた。


「北側でも、麦が積まれたままの家が増えています」


「屋内に置けていますか」


「置けている家もあります。ただ、納屋に入り切らない家もあります」


「雨が降れば」


「困るでしょう」


「わかりました。記録します」


 ゲオルグが頷いて出ていった。


 夜、経路を変えて宿へ戻る道すがら、ライルは北側の農家のそばを通った。


 刈り取られた麦が、軒下に積まれている。


 布をかけた家。


 板を渡して地面から浮かせた家。


 何もできず、納屋の壁際に置いただけの家。


 空はまだ晴れている。


 だが、雲は西から少しずつ増えていた。


 雨が降るかどうかはわからない。


 わからないまま、待てる時間は長くなかった。


---


 三日目の昼過ぎ、ニルスが来た。


 いつもより顔色が悪かった。


「相談ではないんですが」


「聞きます。座ってください」


 ニルスは座らなかった。


 椅子の前に立ったまま、言った。


「麦が、売れないままです。うちの倉は狭い。今の量を全部は入れられません」


「保管場所は、今どうしていますか」


「納屋の外です。地面には板を敷いています。上から布もかけています」


「風は通りますか」


「少しは。ただ、雨が続けば駄目です」


「どの程度の量ですか」


 ニルスが答えた。


 ヴェクが記録する。


 自家消費分。


 種に残す分。


 税に回す予定の分。


 売却する予定だった分。


 一つずつ分けると、問題の形が見えた。


 麦そのものが足りないのではない。


 余剰分を銅貨に変えられない。


「銅貨は」


 ニルスが少し間を置いた。


「工具の修理に要ります。冬前に直さないと、来年使えません」


「他には」


「塩も、そろそろ切れます。灯りの油も」


 ニルスは自分の手を見た。


「麦を売れれば、済む話でした」


 ライルは書き留めた。


 工具。


 塩。


 油。


 麦では代えられないもの。


 正確には、麦で直接交換できる相手がいないものだ。


 麦を売れれば済む話だった。


 だが、売る先がない。


 水路を戻しても、麦が銅貨にならなければ暮らしは回らない。


 ライルは手帳を開いた。


 着任初日、馬車の中で読んだ十年分の税収記録。


 その中に、一行だけ「官倉」という文字があった。


 古い年度の備考欄だった。


 現物納付分、一時官倉保管。


 当時は意味を深く考えなかった。


 今、その一行が形を持った。


「確認することがあります」


 ライルは立ち上がった。


「ダグラス」


 部屋の隅で、土地台帳の照合をしていたダグラスが顔を上げた。


「帝国の税規定では、麦による現物納付は今も認められていますね」


「……はい」


「ガルダで運用を停止した正式な決定はありますか」


 ダグラスはすぐには答えなかった。


 記憶をたどる顔だった。


「ありません。商会の換算証明を添える運用が定着しただけです」


「誰の決定ですか」


「前任調整官です。ただし、正式な規則変更ではありません」


「つまり、元の手続きに戻すことはできる」


「できます」


 ライルはニルスを見た。


「二つ、手を打ちます。今日中に」


「二つ」


「一つ目。今年の税に充てる麦は、麦のまま納めてください。商会の換算証明は不要です。数量と品質を執務所で確認し、正式な受領証を出します」


 ニルスが顔を上げた。


「知りませんでした。そんな決まりが、元からあったなんて」


「元からあった決まりを、運用で狭くしていただけです」


 商会を通さなければ、税は納められない。


 そう思い込まされていた期間が、何年もあった。


 だが、これで解決するのは税の分だけだ。


「二つ目。売却予定分の一時保管です」


 ライルはダグラスに尋ねた。


「執務所の裏に、官倉があったはずです」


「……あります」


「現在の状態は」


「三年以上、使われていません。鍵は私が持っています。ただ、内部の確認が必要です」


「屋根、床、湿気、害獣の痕跡を確認してください。使える状態なら、今日から一時保管を始めます」


「承知しました」


 ダグラスが立ち上がり、鍵の束を取り出した。


「ニルスさん」


「はい」


「官倉に入れる麦は、税として受け取る分と、あなたの所有物として預かる分を分けます」


「私の麦のまま、置けるということですか」


「はい。預かり分について、所有権は移りません。数量と状態を記録し、預かり証を発行します。勝手に売ることも、税に回すこともありません」


 ニルスはしばらくライルを見ていた。


「手数料は」


「当面は取りません。ただし、保管できる量には限りがあります」


「……わかりました」


 ダグラスは何も言わず、扉へ向かった。


 多くを語らない関わり方だった。


 だが、迷いはなかった。


---


 官倉の扉を開ける前に、ダグラスが錠前の埃を払った。


 鍵を差し込む。


 一度では回らなかった。


 油を差し、もう一度力をかける。


 鈍い音がして、錠が外れた。


 扉を開くと、埃と湿った木の匂いが流れ出した。


 ライルはすぐには中へ入らなかった。


 床を見る。


 壁を見る。


 天井を見る。


 屋根から水が落ちた跡は、奥に一か所だけ。


 床板は一部が浮いているが、腐ってはいない。


 鼠の糞が隅に残っている。


「そのまま麦を入れることはできません」


「はい」


 ダグラスが答えた。


「掃除をします。床板も確認します」


「敷板を用意してください。壁からも離して積みます。搬入前と搬出時に、数量と状態を確認する」


「預かり札も必要ですね」


 ヴェクが言った。


 ライルはヴェクを見た。


「作れますか」


「ロイドの帳面を参考にします」


「お願いします」


 三人で官倉を整えた。


 窓を開ける。


 埃を掃く。


 古い縄を捨てる。


 床に敷板を置く。


 雨染みのある区画には、使わない印をつける。


 夕方近くになって、最初の麦が運び込まれた。


 ニルスの麦だった。


 ヴェクが入口に机を置き、帳面を開く。


「名前をお願いします」


「ニルスです」


「搬入量を確認します」


 税納付予定分。


 一時預かり分。


 二つに分けて量を測る。


 税の分には受領証を出す。


 預かり分には、別の札をつける。


 所有者名。


 搬入日。


 数量。


 搬入時の状態。


 札の控え番号。


 同じ番号を、ニルスに渡す預かり証にも書いた。


「ここに、置いていいんですか」


「一時的な保管です」


 ライルは言った。


「この札がついた麦は、あなたのものです。搬出する時も、同じ番号で確認します」


 ニルスは預かり証を見た。


 それから、倉の中に積まれた麦を見た。


「助かります」


 それだけだった。


 だが、声に張りがあった。


 雨が降っても、今夜すぐに麦が駄目になることはない。


 税の分も、商会を通さず正式に納められた。


 今日を越える理由はできた。


 ライルは手帳に記した。


 官倉、暫定再開。


 ニルス、税現物納付分を受領。


 売却予定分、一時預かりとして搬入。


 預かり証発行。


 その下に、もう一行。


 これは、根本の解決ではない。


 保つための時間を作っただけだ。


 麦を買う者がいなければ、倉はいずれ満ちる。


 税は麦で受けられても、銅貨が必要な場面は残る。


 工具も。


 塩も。


 油も。


 官倉の扉を開けただけでは、買えない。


---


 その日の夜、ダグラスが官倉の状態を報告に来た。


「使用可能区画は、全体の三分の二程度です。奥の一角は、屋根の補修が必要です」


「あと、どの程度預かれますか」


「今日と同じ量なら、六件ほどです。積み方を変えれば、もう少し入ります。ただ、通気を考えると詰めすぎない方がいいでしょう」


「その判断で進めてください」


「承知しました」


「明日、屋根の補修に必要な資材と人数を出してください」


「はい」


 ダグラスはそれだけ答えた。


 頭を下げて、下がる。


 多くを語らない。


 だが、聞かれたことには正確に答える。


 必要な仕事があれば、黙って動く。


 ここ数日、ダグラスはそうやって執務所にいた。


 証言したことで、過去が消えたわけではない。


 それでも、今日の仕事は残っている。


---


 夜、ライルは手帳を閉じようとして、もう一度開いた。


 ロイドからの連絡は、まだない。


 三日目。


 早ければ、明日には戻る。


 遅ければ、あと二日。


 官倉の扉は開いた。


 現物納付も、本来の形に戻した。


 ニルスの麦は、今夜の雨を心配せずに済む。


 だが、扉一つで保てる時間には限りがある。


 官倉が満ちる前に、麦を動かさなければならない。


 麦を守ることと、麦を売ることは違う。


 塩は、官倉には積めない。


 工具も、官倉では直らない。


 灯りの油も、麦の束からは生まれない。


 ライルはペンを置いた。


 視線が、ロイドの机へ向いた。


 空いた椅子が、そこにある。


 今日、その椅子が担っていた仕事を、ヴェクとダグラスとライルで分けた。


 執務所は止まらなかった。


 だが、椅子が空いていることは変わらない。


 その椅子に座る者は今、机の上にはない答えを探して、街道を歩いている。


 ライルは手帳に一行加えた。


 時間は作った。


 答えは、まだ道の上にある。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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