第二十二話「空いた椅子」
着任二十七日目の朝、ロイドが荷物を背負って執務所に来た。
いつもの帳面ではなく、着替えと、少しの銅貨と、地図の写しが入った袋だった。
手には、昨日作成した隊商調査の記録用紙を持っている。
聞き取り先。
相手の名前と所属。
隊商の拠点。
通行時期。
扱う品目。
街道の状況。
ガルダとの過去の取引。
必要な項目は、すでに並んでいた。
「行程は」
「隣領の市場町まで一日半です。途中、関所で二か所、聞き取りをします。市場町では商人組合と荷車宿を確認します」
「戻りは」
「早くて三日後です。聞き取りに時間がかかれば、五日後になるかもしれません」
「宿泊先は」
「初日は東街道の宿場。二日目以降は市場町の共同宿を予定しています。変更した場合は、関所に伝言を残します」
ライルは地図の写しを確認した。
予定経路には線が引かれている。
宿泊予定地と、伝言を残す関所にも印があった。
「調査だと伝える相手は、必要な範囲に留めてください」
「はい」
「ガルダが買い手を失って困っている、と先に話してはいけません」
「取引停止の事実を聞かれた場合だけ、必要な範囲で答えます」
「それで構いません」
ロイドは頷いた。
「無理はしないでください」
「はい」
「危険を感じたら、調査より帰還を優先してください」
「承知しました」
ロイドは軽く頭を下げ、扉を出た。
足音が廊下を進み、外へ出て、少しずつ遠ざかっていく。
執務所には、ライルとヴェクが残った。
ロイドの机の椅子が、そこにあった。
誰も座っていなかった。
着任した日、この執務所には役人が実質二名しかいなかった。
今日も、実質二名だ。
だが、あの日の二名と、今日の二名は違う。
あの日は、誰も何も記録していなかった。
今日は、一人が記録の仕方を知っている。
その一人が、記録すべき事実を探すために外へ出た。
その違いの重さを、空いた椅子が示していた。
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午前、受付にヴェクが座った。
慣れない手つきで帳面を開く。
名前を書く欄。
住所を書く欄。
用件を書く欄。
来訪時刻。
提出書類。
対応内容。
形は、ロイドが作ったものそのままだった。
最初に来たのは、土地の相談を持つ農民だった。
父の代に隣家と口頭で畑の境界を決めたが、最近になって位置が違うと言われたらしい。
ヴェクは名前と住所を聞き、相談内容を書いた。
だが、「書類の写しの有無」の欄を聞き忘れた。
ライルが気づいて代わりに尋ねた。
「境界について、何か書面はお持ちですか」
「いえ……口約束だけで」
「立ち会った方は」
「村の古い者が二人。ただ、一人はもう亡くなっています」
「その旨も記録します」
ヴェクが慌てて筆を足した。
「申し訳ありません」
「気にしないでください」
ライルは言った。
「これまで当たり前に埋まっていた欄です」
当たり前に埋まっていた。
ロイドが、一つずつ必要性を考えて作った欄だった。
いなくなって初めて、それがどれだけの仕事だったかがわかる。
「次からは、聞き取りの最後に空欄を確認してください」
「はい」
ヴェクは帳面の端に、小さく書いた。
終了前、空欄確認。
昼過ぎには、別の農民が土地の境界の相談に来た。
ヴェクは日付を書き間違えた。
手が止まる。
ライルは何も言わなかった。
ヴェクは間違えた文字に一本の線を引き、横に正しい日付を書いた。訂正者の印も押した。
ロイドなら、初めから間違えなかったかもしれない。
だが、ヴェクは間違いを隠さなかった。
間違えても、消さずに直せばいい。
それも、この執務所がいつからか覚えたことだった。
ライルは手帳に書いた。
ロイド不在。
記録の抜けを都度確認する必要あり。
ヴェク、慣れは早い。精度はこれから。
その下に、もう一行加えた。
手順は、人が変わっても残る形にする。
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二日が過ぎた。
受付は回っていた。
だが、以前より一拍遅い。
相談を受ける。
帳面を確認する。
空欄を探す。
必要なら聞き直す。
一つひとつに、ロイドがいた時には見えなかった時間がかかった。
それでも、止まってはいなかった。
商会からの新しい書面は来なかった。
買い取りを断られた農民だけが、少しずつ増えていた。
昼前、ゲオルグが用もなく顔を出した。
「近くまで来たので」
それだけ言って、水路の様子を少し話した。
第一工区も第二工区も、水は問題なく流れている。
崩れた箇所もない。
帰り際、ゲオルグは一言だけ付け加えた。
「北側でも、麦が積まれたままの家が増えています」
「屋内に置けていますか」
「置けている家もあります。ただ、納屋に入り切らない家もあります」
「雨が降れば」
「困るでしょう」
「わかりました。記録します」
ゲオルグが頷いて出ていった。
夜、経路を変えて宿へ戻る道すがら、ライルは北側の農家のそばを通った。
刈り取られた麦が、軒下に積まれている。
布をかけた家。
板を渡して地面から浮かせた家。
何もできず、納屋の壁際に置いただけの家。
空はまだ晴れている。
だが、雲は西から少しずつ増えていた。
雨が降るかどうかはわからない。
わからないまま、待てる時間は長くなかった。
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三日目の昼過ぎ、ニルスが来た。
いつもより顔色が悪かった。
「相談ではないんですが」
「聞きます。座ってください」
ニルスは座らなかった。
椅子の前に立ったまま、言った。
「麦が、売れないままです。うちの倉は狭い。今の量を全部は入れられません」
「保管場所は、今どうしていますか」
「納屋の外です。地面には板を敷いています。上から布もかけています」
「風は通りますか」
「少しは。ただ、雨が続けば駄目です」
「どの程度の量ですか」
ニルスが答えた。
ヴェクが記録する。
自家消費分。
種に残す分。
税に回す予定の分。
売却する予定だった分。
一つずつ分けると、問題の形が見えた。
麦そのものが足りないのではない。
余剰分を銅貨に変えられない。
「銅貨は」
ニルスが少し間を置いた。
「工具の修理に要ります。冬前に直さないと、来年使えません」
「他には」
「塩も、そろそろ切れます。灯りの油も」
ニルスは自分の手を見た。
「麦を売れれば、済む話でした」
ライルは書き留めた。
工具。
塩。
油。
麦では代えられないもの。
正確には、麦で直接交換できる相手がいないものだ。
麦を売れれば済む話だった。
だが、売る先がない。
水路を戻しても、麦が銅貨にならなければ暮らしは回らない。
ライルは手帳を開いた。
着任初日、馬車の中で読んだ十年分の税収記録。
その中に、一行だけ「官倉」という文字があった。
古い年度の備考欄だった。
現物納付分、一時官倉保管。
当時は意味を深く考えなかった。
今、その一行が形を持った。
「確認することがあります」
ライルは立ち上がった。
「ダグラス」
部屋の隅で、土地台帳の照合をしていたダグラスが顔を上げた。
「帝国の税規定では、麦による現物納付は今も認められていますね」
「……はい」
「ガルダで運用を停止した正式な決定はありますか」
ダグラスはすぐには答えなかった。
記憶をたどる顔だった。
「ありません。商会の換算証明を添える運用が定着しただけです」
「誰の決定ですか」
「前任調整官です。ただし、正式な規則変更ではありません」
「つまり、元の手続きに戻すことはできる」
「できます」
ライルはニルスを見た。
「二つ、手を打ちます。今日中に」
「二つ」
「一つ目。今年の税に充てる麦は、麦のまま納めてください。商会の換算証明は不要です。数量と品質を執務所で確認し、正式な受領証を出します」
ニルスが顔を上げた。
「知りませんでした。そんな決まりが、元からあったなんて」
「元からあった決まりを、運用で狭くしていただけです」
商会を通さなければ、税は納められない。
そう思い込まされていた期間が、何年もあった。
だが、これで解決するのは税の分だけだ。
「二つ目。売却予定分の一時保管です」
ライルはダグラスに尋ねた。
「執務所の裏に、官倉があったはずです」
「……あります」
「現在の状態は」
「三年以上、使われていません。鍵は私が持っています。ただ、内部の確認が必要です」
「屋根、床、湿気、害獣の痕跡を確認してください。使える状態なら、今日から一時保管を始めます」
「承知しました」
ダグラスが立ち上がり、鍵の束を取り出した。
「ニルスさん」
「はい」
「官倉に入れる麦は、税として受け取る分と、あなたの所有物として預かる分を分けます」
「私の麦のまま、置けるということですか」
「はい。預かり分について、所有権は移りません。数量と状態を記録し、預かり証を発行します。勝手に売ることも、税に回すこともありません」
ニルスはしばらくライルを見ていた。
「手数料は」
「当面は取りません。ただし、保管できる量には限りがあります」
「……わかりました」
ダグラスは何も言わず、扉へ向かった。
多くを語らない関わり方だった。
だが、迷いはなかった。
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官倉の扉を開ける前に、ダグラスが錠前の埃を払った。
鍵を差し込む。
一度では回らなかった。
油を差し、もう一度力をかける。
鈍い音がして、錠が外れた。
扉を開くと、埃と湿った木の匂いが流れ出した。
ライルはすぐには中へ入らなかった。
床を見る。
壁を見る。
天井を見る。
屋根から水が落ちた跡は、奥に一か所だけ。
床板は一部が浮いているが、腐ってはいない。
鼠の糞が隅に残っている。
「そのまま麦を入れることはできません」
「はい」
ダグラスが答えた。
「掃除をします。床板も確認します」
「敷板を用意してください。壁からも離して積みます。搬入前と搬出時に、数量と状態を確認する」
「預かり札も必要ですね」
ヴェクが言った。
ライルはヴェクを見た。
「作れますか」
「ロイドの帳面を参考にします」
「お願いします」
三人で官倉を整えた。
窓を開ける。
埃を掃く。
古い縄を捨てる。
床に敷板を置く。
雨染みのある区画には、使わない印をつける。
夕方近くになって、最初の麦が運び込まれた。
ニルスの麦だった。
ヴェクが入口に机を置き、帳面を開く。
「名前をお願いします」
「ニルスです」
「搬入量を確認します」
税納付予定分。
一時預かり分。
二つに分けて量を測る。
税の分には受領証を出す。
預かり分には、別の札をつける。
所有者名。
搬入日。
数量。
搬入時の状態。
札の控え番号。
同じ番号を、ニルスに渡す預かり証にも書いた。
「ここに、置いていいんですか」
「一時的な保管です」
ライルは言った。
「この札がついた麦は、あなたのものです。搬出する時も、同じ番号で確認します」
ニルスは預かり証を見た。
それから、倉の中に積まれた麦を見た。
「助かります」
それだけだった。
だが、声に張りがあった。
雨が降っても、今夜すぐに麦が駄目になることはない。
税の分も、商会を通さず正式に納められた。
今日を越える理由はできた。
ライルは手帳に記した。
官倉、暫定再開。
ニルス、税現物納付分を受領。
売却予定分、一時預かりとして搬入。
預かり証発行。
その下に、もう一行。
これは、根本の解決ではない。
保つための時間を作っただけだ。
麦を買う者がいなければ、倉はいずれ満ちる。
税は麦で受けられても、銅貨が必要な場面は残る。
工具も。
塩も。
油も。
官倉の扉を開けただけでは、買えない。
---
その日の夜、ダグラスが官倉の状態を報告に来た。
「使用可能区画は、全体の三分の二程度です。奥の一角は、屋根の補修が必要です」
「あと、どの程度預かれますか」
「今日と同じ量なら、六件ほどです。積み方を変えれば、もう少し入ります。ただ、通気を考えると詰めすぎない方がいいでしょう」
「その判断で進めてください」
「承知しました」
「明日、屋根の補修に必要な資材と人数を出してください」
「はい」
ダグラスはそれだけ答えた。
頭を下げて、下がる。
多くを語らない。
だが、聞かれたことには正確に答える。
必要な仕事があれば、黙って動く。
ここ数日、ダグラスはそうやって執務所にいた。
証言したことで、過去が消えたわけではない。
それでも、今日の仕事は残っている。
---
夜、ライルは手帳を閉じようとして、もう一度開いた。
ロイドからの連絡は、まだない。
三日目。
早ければ、明日には戻る。
遅ければ、あと二日。
官倉の扉は開いた。
現物納付も、本来の形に戻した。
ニルスの麦は、今夜の雨を心配せずに済む。
だが、扉一つで保てる時間には限りがある。
官倉が満ちる前に、麦を動かさなければならない。
麦を守ることと、麦を売ることは違う。
塩は、官倉には積めない。
工具も、官倉では直らない。
灯りの油も、麦の束からは生まれない。
ライルはペンを置いた。
視線が、ロイドの机へ向いた。
空いた椅子が、そこにある。
今日、その椅子が担っていた仕事を、ヴェクとダグラスとライルで分けた。
執務所は止まらなかった。
だが、椅子が空いていることは変わらない。
その椅子に座る者は今、机の上にはない答えを探して、街道を歩いている。
ライルは手帳に一行加えた。
時間は作った。
答えは、まだ道の上にある。
蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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