第二十一話「答えは、机の上にない」
着任二十六日目の朝、机の上に帳面がもう一冊増えていた。
昨日、ロイドが表紙を書いたものだ。
近隣取引先の調査記録。
表紙を開く。
中身はまだ白い。
書くべき項目だけが、最初の頁に並んでいた。
取引先名。
所在地。
買い取り品目。
時期。
価格。
輸送手段。
保管条件。
手数料。
白い頁は、何もわかっていないことを示している。
だが、わからないことの形は、すでに見え始めていた。
「まず、何から調べますか」
ロイドが聞いた。
「今の取引先ではなく、前の取引先を調べます」
「前、というと」
「水路が止まる前です」
ライルは帳面を閉じた。
「麦を買っていたのが南通り穀物商会だけだったのか。それとも、他にもいたのか」
ロイドは少し考えた。
「通行記録なら、倉庫にあります」
「通行記録」
「関所を通った者と、徴収した通行税を記録したものです。古いものは、五年以上前まで残っています」
「出してください」
「承知しました」
ロイドが倉庫に向かった。
もう、指示を受けてから理由を考えるような動きではなかった。
何を確認しようとしているのかを理解して、そのために必要な記録を探している。
それも、この執務所に起きた変化の一つだった。
---
運ばれてきた通行記録は、三冊あった。
埃をかぶっていたが、綴りは崩れていない。
ロイドが乾いた布で表紙を拭った。
ライルは古い順から開いた。
七年前。
六年前。
五年前。
年に二度、同じ時期に「隊商」という記載がある。
収穫期の少し後と、冬に入る前。
人数。
荷車の台数。
徴収した通行税。
備考欄には、麦を買い付けたという短い記録が添えられている。
名は記されていない。
南通り穀物商会の出入りには、毎回、商会名と担当者名が記されている。
だが、この隊商は違う。
ただ「隊商」とだけ書かれている。
毎年来る地元商会と違い、その時期だけ現れる外部の商人だったのだろう。
役人にとっては、名前まで残す必要のない相手だった。
だが、確かに来ていた。
「荷車は六台」
ロイドが七年前の記録を読んだ。
「翌年は五台。その次は七台です」
「通行税だけではありませんね」
「はい。市場使用料も払っています」
外から来て、麦を買い、荷車に積んで出ていった。
取引があったことは間違いない。
四年前にも記録がある。
荷車は四台。
三年前。
記載はある。
だが、荷車は一台だけだった。
買い付け量の記録も少ない。
二年前。
記載がない。
その次の年もない。
それきり、隊商という文字は帳面から消えていた。
「ここで、途切れています」
ロイドが指した先を、ライルはすでに見ていた。
「水路が止まったのと、ほぼ同じ時期です」
「はい」
ライルは三冊の記録を並べて置いた。
水路が止まった年。
隊商の荷車が減った年。
その翌年、記録から消えた。
三つの線が、近い場所で重なっている。
「隊商が来なくなった理由は」
「記録には、書かれていません」
「関所の通行税が変わった記録はありますか」
「確認します」
ロイドが別の頁をめくった。
税率変更の告示はない。
街道が封鎖された記録もない。
市場使用料も変わっていない。
「では、今わかっていることを分けます」
ライルは手帳を開いた。
「事実は三つです」
ロイドが筆を構えた。
「隊商は、少なくとも七年前から年に二回来ていた」
「はい」
「三年前に規模が縮小し、二年前から記録がなくなった」
「はい」
「同じ頃、水路の補修が止まり、麦の収穫量も落ちた可能性が高い」
ロイドが記録した。
「商会の買い取り量が増えた記録もあります」
「それも事実です」
ライルは頷いた。
「ですが、ここから先は仮説です」
ロイドの筆が止まった。
「一つ。収穫量が減り、隊商が買える麦が少なくなった」
「はい」
「二つ。南通り穀物商会が先に買い付けるようになり、隊商に回る麦がなくなった」
「はい」
「三つ。記録に残っていない別の理由で、隊商がこの道を使わなくなった」
「別の理由」
「街道の安全。別の市場。隊商側の事情。商会から何か働きかけがあった可能性もあります」
ライルは手帳に線を引いた。
「今ある記録だけでは、どれか一つに決められません」
ロイドは三冊の帳面を見た。
「商会が隊商を追い出した、とは言えない」
「言えません」
「ですが、関係がないとも言えない」
「その通りです」
ライルは手帳に書いた。
隊商、七年前より記録あり。
年二回、収穫後に来訪。
三年前、荷車一台へ減少。
二年前以降、記載なし。
水路停止、収穫減少、商会買い付け集中と近い時期。
原因、未確認。
最後の一行が重要だった。
未確認。
わからないことを、わかったことにしない。
だが、わからないままにもしておかない。
---
昼前、ゲオルグが土地相談で来訪した。
用件が済んだ後、ライルは尋ねた。
「昔、南通り穀物商会以外に、麦を買いに来る者はいましたか」
ゲオルグは少し考えた。
「そういえば……」
記憶をたどるような間があった。
「昔は、隊商が来ていました。年に二回」
「どこから来ていましたか」
「東の街道からです。荷車を何台も連ねていました」
「商会とは別に、農民から直接買っていた?」
「はい。家ごとに声をかけて回っていました。量が少なくても、まとめて持っていけば買ってくれた」
「価格は」
「年によって違いました。ただ、商会と比べることはできました」
ロイドの筆が、そこでわずかに止まった。
比べることができた。
買い手が二つあれば、農民には選択肢がある。
価格が低ければ、もう一方へ持っていける。
条件が悪ければ、断ることもできる。
買い手が一つになれば、それができない。
「いつ頃まで来ていましたか」
「はっきりとは覚えていません。ただ、水路が動いていた頃の話です」
「来なくなった理由は、聞きましたか」
ゲオルグは首を横に振った。
「いつの間にか、来なくなりました」
「商会から何か説明は」
「ありません。麦を売るなら南通りへ持っていく。それが当たり前になりました」
当たり前になった。
誰かが命令したのではない。
選択肢が一つずつ消えた結果、残ったものが当たり前になった。
「ありがとうございます」
ゲオルグは軽く頭を下げて帰っていった。
記録が、証言と重なった。
紙の上の線が、人の記憶の中にも同じ形で残っていた。
だが、まだ足りない。
隊商が存在したことは確認できた。
なぜ消えたのかは、まだわからない。
そして何より、今もどこかを走っているのかがわからない。
---
ゲオルグが帰った後、ロイドが筆を止めた。
「隊商が、今も来ているかどうかは」
「わかりません」
「以前、東の街道を通っていたとしても、今も同じとは限らない」
「はい」
「では、どうやって確認しますか」
「近隣まで、誰かが行って聞くしかありません」
ロイドは少しの間、黙っていた。
帳面に視線を落とす。
近隣取引先の調査記録。
中には、今朝より多くの文字がある。
だが、肝心の取引先名はまだ一つもない。
それから、ロイドは帳面を静かに閉じた。
「私が、行きます」
ライルはロイドを見た。
「執務所を離れることになります」
「はい」
「窓口も、記録も、しばらく止まります」
「ヴェクに受付を頼みます。判断が必要なものは、調整官様に回してもらいます」
すでに考えていた答えだった。
「近隣の市場までは、往復で一日では戻れない可能性があります」
「承知しています」
「これまでの仕事とは違います」
「はい」
ロイドの声に迷いはなかった。
「それでも、行きます」
「理由を聞いても?」
ロイドは閉じた帳面の表紙に手を置いた。
「記録は、事実がなければ書けません」
ゆっくりとした声だった。
「事実は、ここに座っているだけでは集まらないこともあります」
それは、ロイド自身の言葉だった。
ライルに言われたことではなかった。
最初に領内を歩いた日、ロイドは前任者が執務所から出なかった理由を知っていた。
見なければ、知らなかったことにできる。
あの日、ロイドはライルの後ろを歩いた。
今は、自分から外へ出ようとしている。
「わかりました」
ライルは言った。
「近隣の市場、関所、街道筋を確認してください。隊商の名、拠点、通う時期、今も同じ道を使っているか」
「はい」
「ガルダの麦を買う意思があるかどうかは、まだ聞かなくて構いません」
ロイドが少しだけ目を上げた。
「まず、存在を確認する」
「はい。交渉はその後です」
確認と交渉を同時にすれば、相手にこちらの窮状を教えることになる。
買い手を探している。
今すぐ売らなければならない。
その情報は、価格を下げる材料にもなる。
「ガルダの取引停止についても、必要以上に話さないでください」
「聞かれた場合は」
「事実だけを。南通り穀物商会が一部農民への買い取りを見合わせた。そのため、過去の取引状況を確認している、と」
「承知しました」
「無理はしないでください」
「はい」
「出立前に、行程、宿泊先、持参金、連絡方法を記録します」
「はい」
ロイドは新しい帳面の表紙に、一行書き足した。
隊商調査。
担当、ロイド。
その文字を書いてから、少しだけ手を止めた。
これまで、ロイドは執務所から出たことがなかった。
窓口に座り、帳面を作り、記録を残す。
それがロイドの仕事だった。
今、その仕事が、執務所の外へ向かおうとしていた。
記録を残すために、記録のない場所へ行く。
---
夜、ライルは手帳を開いた。
着任二十六日目。
商会以外の買い手は、かつて存在した。
隊商。
年に二回。
七年以上前の記録から確認。
三年前より規模縮小。
二年前より記載なし。
水路停止、収穫量減少、商会買い付け集中と近い時期。
ゲオルグの証言と一致。
原因、未確認。
途絶えた理由を確認する。
ロイド、近隣へ。
ペンを止めた。
水路は、直せば水が戻ることがわかっていた。
どこが詰まり、どこを掘り、どこへ流せばいいか。
土地が答えを持っていた。
だが、麦の買い手は違う。
いるのか、いないのか。
いるとして、今も同じ道を通っているのか。
ガルダの麦を買う理由が、まだ残っているのか。
答えは、机の上にはない。
帳面は、過去を教える。
だが、今を知るには外へ出なければならない。
ライルは手帳を閉じた。
明日、ロイドが執務所を出る。
水路の次は、道だ。
蝋燭を消した。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




