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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第四章:麦の道を、探す

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第二十一話「答えは、机の上にない」

 着任二十六日目の朝、机の上に帳面がもう一冊増えていた。


 昨日、ロイドが表紙を書いたものだ。


 近隣取引先の調査記録。


 表紙を開く。


 中身はまだ白い。


 書くべき項目だけが、最初の頁に並んでいた。


 取引先名。


 所在地。


 買い取り品目。


 時期。


 価格。


 輸送手段。


 保管条件。


 手数料。


 白い頁は、何もわかっていないことを示している。


 だが、わからないことの形は、すでに見え始めていた。


「まず、何から調べますか」


 ロイドが聞いた。


「今の取引先ではなく、前の取引先を調べます」


「前、というと」


「水路が止まる前です」


 ライルは帳面を閉じた。


「麦を買っていたのが南通り穀物商会だけだったのか。それとも、他にもいたのか」


 ロイドは少し考えた。


「通行記録なら、倉庫にあります」


「通行記録」


「関所を通った者と、徴収した通行税を記録したものです。古いものは、五年以上前まで残っています」


「出してください」


「承知しました」


 ロイドが倉庫に向かった。


 もう、指示を受けてから理由を考えるような動きではなかった。


 何を確認しようとしているのかを理解して、そのために必要な記録を探している。


 それも、この執務所に起きた変化の一つだった。


---


 運ばれてきた通行記録は、三冊あった。


 埃をかぶっていたが、綴りは崩れていない。


 ロイドが乾いた布で表紙を拭った。


 ライルは古い順から開いた。


 七年前。


 六年前。


 五年前。


 年に二度、同じ時期に「隊商」という記載がある。


 収穫期の少し後と、冬に入る前。


 人数。


 荷車の台数。


 徴収した通行税。


 備考欄には、麦を買い付けたという短い記録が添えられている。


 名は記されていない。


 南通り穀物商会の出入りには、毎回、商会名と担当者名が記されている。


 だが、この隊商は違う。


 ただ「隊商」とだけ書かれている。


 毎年来る地元商会と違い、その時期だけ現れる外部の商人だったのだろう。


 役人にとっては、名前まで残す必要のない相手だった。


 だが、確かに来ていた。


「荷車は六台」


 ロイドが七年前の記録を読んだ。


「翌年は五台。その次は七台です」


「通行税だけではありませんね」


「はい。市場使用料も払っています」


 外から来て、麦を買い、荷車に積んで出ていった。


 取引があったことは間違いない。


 四年前にも記録がある。


 荷車は四台。


 三年前。


 記載はある。


 だが、荷車は一台だけだった。


 買い付け量の記録も少ない。


 二年前。


 記載がない。


 その次の年もない。


 それきり、隊商という文字は帳面から消えていた。


「ここで、途切れています」


 ロイドが指した先を、ライルはすでに見ていた。


「水路が止まったのと、ほぼ同じ時期です」


「はい」


 ライルは三冊の記録を並べて置いた。


 水路が止まった年。


 隊商の荷車が減った年。


 その翌年、記録から消えた。


 三つの線が、近い場所で重なっている。


「隊商が来なくなった理由は」


「記録には、書かれていません」


「関所の通行税が変わった記録はありますか」


「確認します」


 ロイドが別の頁をめくった。


 税率変更の告示はない。


 街道が封鎖された記録もない。


 市場使用料も変わっていない。


「では、今わかっていることを分けます」


 ライルは手帳を開いた。


「事実は三つです」


 ロイドが筆を構えた。


「隊商は、少なくとも七年前から年に二回来ていた」


「はい」


「三年前に規模が縮小し、二年前から記録がなくなった」


「はい」


「同じ頃、水路の補修が止まり、麦の収穫量も落ちた可能性が高い」


 ロイドが記録した。


「商会の買い取り量が増えた記録もあります」


「それも事実です」


 ライルは頷いた。


「ですが、ここから先は仮説です」


 ロイドの筆が止まった。


「一つ。収穫量が減り、隊商が買える麦が少なくなった」


「はい」


「二つ。南通り穀物商会が先に買い付けるようになり、隊商に回る麦がなくなった」


「はい」


「三つ。記録に残っていない別の理由で、隊商がこの道を使わなくなった」


「別の理由」


「街道の安全。別の市場。隊商側の事情。商会から何か働きかけがあった可能性もあります」


 ライルは手帳に線を引いた。


「今ある記録だけでは、どれか一つに決められません」


 ロイドは三冊の帳面を見た。


「商会が隊商を追い出した、とは言えない」


「言えません」


「ですが、関係がないとも言えない」


「その通りです」


 ライルは手帳に書いた。


 隊商、七年前より記録あり。


 年二回、収穫後に来訪。


 三年前、荷車一台へ減少。


 二年前以降、記載なし。


 水路停止、収穫減少、商会買い付け集中と近い時期。


 原因、未確認。


 最後の一行が重要だった。


 未確認。


 わからないことを、わかったことにしない。


 だが、わからないままにもしておかない。


---


 昼前、ゲオルグが土地相談で来訪した。


 用件が済んだ後、ライルは尋ねた。


「昔、南通り穀物商会以外に、麦を買いに来る者はいましたか」


 ゲオルグは少し考えた。


「そういえば……」


 記憶をたどるような間があった。


「昔は、隊商が来ていました。年に二回」


「どこから来ていましたか」


「東の街道からです。荷車を何台も連ねていました」


「商会とは別に、農民から直接買っていた?」


「はい。家ごとに声をかけて回っていました。量が少なくても、まとめて持っていけば買ってくれた」


「価格は」


「年によって違いました。ただ、商会と比べることはできました」


 ロイドの筆が、そこでわずかに止まった。


 比べることができた。


 買い手が二つあれば、農民には選択肢がある。


 価格が低ければ、もう一方へ持っていける。


 条件が悪ければ、断ることもできる。


 買い手が一つになれば、それができない。


「いつ頃まで来ていましたか」


「はっきりとは覚えていません。ただ、水路が動いていた頃の話です」


「来なくなった理由は、聞きましたか」


 ゲオルグは首を横に振った。


「いつの間にか、来なくなりました」


「商会から何か説明は」


「ありません。麦を売るなら南通りへ持っていく。それが当たり前になりました」


 当たり前になった。


 誰かが命令したのではない。


 選択肢が一つずつ消えた結果、残ったものが当たり前になった。


「ありがとうございます」


 ゲオルグは軽く頭を下げて帰っていった。


 記録が、証言と重なった。


 紙の上の線が、人の記憶の中にも同じ形で残っていた。


 だが、まだ足りない。


 隊商が存在したことは確認できた。


 なぜ消えたのかは、まだわからない。


 そして何より、今もどこかを走っているのかがわからない。


---


 ゲオルグが帰った後、ロイドが筆を止めた。


「隊商が、今も来ているかどうかは」


「わかりません」


「以前、東の街道を通っていたとしても、今も同じとは限らない」


「はい」


「では、どうやって確認しますか」


「近隣まで、誰かが行って聞くしかありません」


 ロイドは少しの間、黙っていた。


 帳面に視線を落とす。


 近隣取引先の調査記録。


 中には、今朝より多くの文字がある。


 だが、肝心の取引先名はまだ一つもない。


 それから、ロイドは帳面を静かに閉じた。


「私が、行きます」


 ライルはロイドを見た。


「執務所を離れることになります」


「はい」


「窓口も、記録も、しばらく止まります」


「ヴェクに受付を頼みます。判断が必要なものは、調整官様に回してもらいます」


 すでに考えていた答えだった。


「近隣の市場までは、往復で一日では戻れない可能性があります」


「承知しています」


「これまでの仕事とは違います」


「はい」


 ロイドの声に迷いはなかった。


「それでも、行きます」


「理由を聞いても?」


 ロイドは閉じた帳面の表紙に手を置いた。


「記録は、事実がなければ書けません」


 ゆっくりとした声だった。


「事実は、ここに座っているだけでは集まらないこともあります」


 それは、ロイド自身の言葉だった。


 ライルに言われたことではなかった。


 最初に領内を歩いた日、ロイドは前任者が執務所から出なかった理由を知っていた。


 見なければ、知らなかったことにできる。


 あの日、ロイドはライルの後ろを歩いた。


 今は、自分から外へ出ようとしている。


「わかりました」


 ライルは言った。


「近隣の市場、関所、街道筋を確認してください。隊商の名、拠点、通う時期、今も同じ道を使っているか」


「はい」


「ガルダの麦を買う意思があるかどうかは、まだ聞かなくて構いません」


 ロイドが少しだけ目を上げた。


「まず、存在を確認する」


「はい。交渉はその後です」


 確認と交渉を同時にすれば、相手にこちらの窮状を教えることになる。


 買い手を探している。


 今すぐ売らなければならない。


 その情報は、価格を下げる材料にもなる。


「ガルダの取引停止についても、必要以上に話さないでください」


「聞かれた場合は」


「事実だけを。南通り穀物商会が一部農民への買い取りを見合わせた。そのため、過去の取引状況を確認している、と」


「承知しました」


「無理はしないでください」


「はい」


「出立前に、行程、宿泊先、持参金、連絡方法を記録します」


「はい」


 ロイドは新しい帳面の表紙に、一行書き足した。


 隊商調査。


 担当、ロイド。


 その文字を書いてから、少しだけ手を止めた。


 これまで、ロイドは執務所から出たことがなかった。


 窓口に座り、帳面を作り、記録を残す。


 それがロイドの仕事だった。


 今、その仕事が、執務所の外へ向かおうとしていた。


 記録を残すために、記録のない場所へ行く。


---


 夜、ライルは手帳を開いた。


 着任二十六日目。


 商会以外の買い手は、かつて存在した。


 隊商。


 年に二回。


 七年以上前の記録から確認。


 三年前より規模縮小。


 二年前より記載なし。


 水路停止、収穫量減少、商会買い付け集中と近い時期。


 ゲオルグの証言と一致。


 原因、未確認。


 途絶えた理由を確認する。


 ロイド、近隣へ。


 ペンを止めた。


 水路は、直せば水が戻ることがわかっていた。


 どこが詰まり、どこを掘り、どこへ流せばいいか。


 土地が答えを持っていた。


 だが、麦の買い手は違う。


 いるのか、いないのか。


 いるとして、今も同じ道を通っているのか。


 ガルダの麦を買う理由が、まだ残っているのか。


 答えは、机の上にはない。


 帳面は、過去を教える。


 だが、今を知るには外へ出なければならない。


 ライルは手帳を閉じた。


 明日、ロイドが執務所を出る。


 水路の次は、道だ。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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