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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第三章:声が、届く

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第二十話「帝都が、見ている」

 着任二十五日目の朝、執務所の窓を開けた。


 水路の音が入ってくる。


 ロイドがすでに帳面を三冊広げていた。受付記録。土地相談記録。風聞記録。今日の来訪者欄はまだ空だ。


 着任初日、この執務所には役人が実質二名しかいなかった。


 今日も二名だ。


 だが、机の上のものは違う。


 白紙だった欄には名前がある。


 来なかった人の記録ではなく、来た人の記録がある。


 止まっていた水路の作業記録がある。


 土地を失った者たちの通知控えがある。


 噂を噂として扱うための風聞記録がある。


 人の声を追いかけた説明会の記録がある。


 数は増えていない。


 だが、役所は少しだけ役所に戻っている。


「今日の予定は」


 ライルが聞くと、ロイドは帳面を一つ手前に寄せた。


「午前中に農地相談が二件。午後に近隣の村から一名、土地の確認に来る予定です。それから、昨日の説明会記録の写しを整理します」


「わかりました」


 ロイドの筆が動く。


 以前より少し大きな字だった。


 残すための字だ。


---


 昼前、ニルスが来た。


 相談ではなかった。


 懐から封を取り出した。先日、執務所から送った土地移動確認中通知だ。


「正式な記録に、入ったんですね」


「はい」


 ロイドが答えた。


「土地の名義がどうなるかは、まだわかりません。ただ、記録には入っています」


 ニルスは封を懐に戻した。


 その動きは、丁寧だった。


 紙一枚で土地は戻らない。


 だが、紙一枚がなければ、土地が失われたことすら公には残らない。


「昨日、話したことも」


「記録しました」


 ロイドは答えた。


「発言者名、発言内容、場所、時刻。説明会記録に入っています」


 ニルスは小さく頷いた。


 何かを言おうとして、やめた。


 帰りがけに一度だけ振り返った。


「水は、今日も流れていますね」


「はい」


 それだけ言って、出ていった。


 扉が閉まった後も、少しの間、水路の音が聞こえていた。


---


 昼過ぎ、ゲオルグが来た。


 前置きはなかった。


「商会が、麦を買わないと言っています」


 ライルは手帳を開いた。


「いつですか」


「今朝、市場で。複数の農民に、口頭で」


「対象は」


「説明会に来た者と、水路の修繕に入った者に対して、今年の買い取りを断ると」


「理由の文言は」


「取引上の判断、と言ったそうです」


 ロイドの筆が動き始めた。


 ライルは手帳に書いた。


 通告の時刻。


 場所。


 形。


 理由の文言。


 対象の農民の状況。


 口頭であること。


 商会は、取引相手を選べる。


 それ自体は正当な判断だ。


 だが、正当な形式を取ったものが、常に正当な目的で使われるとは限らない。


「商会は、取引相手を選べます。それは、正当な判断です」


 ライルは言った。


 ゲオルグが少し間を置いた。


「わかっています」


 続けた。


「だから、来ました」


 ライルはゲオルグを見た。


 怒っている顔ではなかった。


 訴えている顔でもなかった。


 知らせるべきことを、知らせに来た顔だった。


「商会の麦売りがなくなると、困る者が出ます。余裕がある者ばかりではありません」


「どの程度、商会に出していますか」


「北側は半分以上です。家によっては、ほとんど全部です」


「保管できる期間は」


「長くはありません。倉がある家ばかりではない。税に回す分と、売る分と、種に残す分と、それぞれあります」


「輸送手段は」


「商会の荷車を使う家が多いです」


 ライルは書いた。


 買い取り。


 保管。


 輸送。


 倉。


 種麦。


 税。


 麦は、水とは違う。


 流せば届くわけではない。


 置く場所がいる。


 運ぶ手段がいる。


 買う者がいる。


 値を決める者がいる。


 水路の次に、領地を縛っていたものが見えてきた。


「記録します。それから、確認します」


「何を、ですか」


「麦を売れる場所が、商会だけかどうか」


 ゲオルグは少しだけ目を動かした。


 それから頷いた。


「商会以外に、考えたことがありませんでした」


「それも、記録します」


---


 ゲオルグが帰った後、ロイドが筆を止めた。


「……これは、どうすればいいのですか」


 ライルはすぐには答えなかった。


 窓の外を見た。修繕された水路が午後の光の中にある。


 水路を直せば、田に水は届く。


 だが、水が届いた田で実った麦をどうするか。


 その答えがなければ、農民はまた同じ場所に戻される。


「麦を買う者が、商会だけである必要はありません」


「近隣に、他の商会が」


「確認しないと、わかりません。ただ、調べる価値はあります」


 ロイドは少しの間考えてから、新しい欄を帳面に作った。


「近隣取引先の調査記録、でいいですか」


「そうしてください」


「項目は、買い取り品目、買い取り時期、輸送手段、保管場所、手数料、取引条件」


「十分です」


 ロイドの筆が走った。


 帳面が、また少し厚くなった。


 ライルは続けた。


「加えて、北側農民の麦の保管状況を確認します。倉の有無、収穫見込み、商会依存度。すぐ売らなければならない家を先に把握してください」


「承知しました」


「商会の通告は、風聞記録ではなく、取引停止関連記録として分けます」


 ロイドは新しい紙を一枚出した。


「取引停止関連記録」


「はい」


 ロイドが表紙に書く。


 また一つ、帳面が増える。


 それは厄介事が増えたという意味でもある。


 同時に、見えなかったものが見え始めたという意味でもあった。


---


 夕刻、アルノへの返書を書いた。


 短くした。


 三点だけ書いた。


 着任からの日数と、現在行っている業務の概要。


 上位機関への書類は発送済みであること。


 現地処理は継続しており、現時点で求めることは何もないこと。


 書き終えて、読み返した。


 助けを求める文ではない。


 報告でもない。


 こちらの位置を知らせるための文だった。


 求めれば、相手が持てる余地が生まれる。


 今は、まだその時ではない。


 誰かの手を借りることと、誰かの思惑に乗ることは、同じではない。


 だが、似た形で始まる。


 ライルは封をした。


 使者に渡した。


 出立時刻、使者名、封蝋確認。


 ロイドが記録した。


「返書の控えは」


「こちらに」


 ロイドが差し出した。


 その控えも、棚の一角に収まった。


---


 夜、手帳を開いた。


 着任二十五日目。


 そのまま止まった。


 水路の音が聞こえる。


 水路が動いた。


 農民が声を出した。


 書類が走った。


 ダグラスが言葉にした。


 ヴォルツの手が変わった。


 一つ一つは小さい。


 だが、向きが揃っている。


 向きが揃った時が、次の妨害が来る時でもある。


 手帳に書いた。


 商会の次の一手。


 取引停止。


 麦の流通が焦点になる。


 その下に加えた。


 確認事項。


 買い取り先。


 輸送。


 保管。


 商会依存度。


 農民別の緊急度。


 さらに一行。


 アルノ・フォン・ケステル。


 返書は送った。


 どう動くかは、向こうが決める。


 ペンを置いた。


 ガルダの問題は、水路だけではなかった。


 土地だけでもなかった。


 麦が動かなければ、人は残れない。


 ライルは蝋燭を消した。


---


 場所が変わる。


 帝都の夜だ。


 灯りの多い部屋だった。書類が積まれた机。窓の外には帝都の夜景が広がっている。石造りの建物と、その合間に灯る橙色の光が、夜の空の下に並んでいた。


 ガルダとは違う夜だ。


 音が多く、光が多く、それでいて遠い。


 アルノ・フォン・ケステルは、ライルからの返書を読み終えていた。


 短い手紙だった。


 業務の概要。


 書類の発送済み。


 求めることは何もない。


 アルノは紙を置いた。


「求めることは、何もない、か」


 小さく言った。


 笑ったわけではなかった。


 ただ、その一文をもう一度目で追った。


 それから手元の文書入れを開き、一枚の書類を取り出した。


 古い書類だ。


 辞令書だった。


 ライル・フォン・ヴァルディス宛の、ガルダへの赴任辞令。


 アルノはそれを静かに広げた。


 発令日。


 発令部署。


 赴任先。


 着任期日。


 標準的な辞令書に見える。


 文面も、様式も。


 辺境への赴任。


 帝都の多くの者は、それを左遷と読んだ。


 実際、そのように処理された。


 誰も疑わなかった。


 笑う者もいた。


 だが、アルノの指が一か所で止まった。


 承認者の押印欄だ。


 通常の地方任官辞令書には、所轄部門の長の印が一つある。それが標準の手続きだ。


 この書類には、押印欄の外に、もう一つ印があった。


 欄の右隅、余白にあたる場所に、小さく、確かに押されている。


 普通に読めば、見落とす。


 見落としてよいように、そこにある。


 アルノは人差し指の先で、その印に一度だけ触れた。


 しばらく、そこから指を離さなかった。


 この印を押せる人間は、帝都にも多くない。


 そして、この印が押された辞令は、単なる人事異動では終わらない。


 灯りが揺れた。


 風が入ったわけでもない。


 ただ、揺れた。


 侍従が部屋に入った。


「ガルダへのご返書は」


「もう出した」


「追加の指示は」


「まだ要らない」


 侍従が下がろうとした。


 アルノは一度だけ呼び止めた。


「南通り穀物商会について、帝都側の取引記録を当たれ。表には出すな」


「承知しました」


 侍従が下がった。


 アルノは辞令書を折り直した。


 文書入れに戻した。


 立ち上がり、窓の外を見た。


 帝都の灯りが、夜の中に並んでいた。


 一つひとつは小さい。


 それでも、遠くからでも見える。


 ガルダは、帝都から見れば小さな点にすぎない。


 だが、小さな点が線になることがある。


 水路。


 土地。


 麦。


 記録。


 声。


 それらが同じ方向に並び始めている。


 アルノは窓の外を見たまま、静かに言った。


「さて」


 帝都の灯りが、わずかに揺れて見えた。


「誰が先に気づくか」

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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