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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第三章:声が、届く

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第十九話「押した印は、残る」

 着任二十三日目の夜、手帳を開いた。


 声が出た。


 ダグラス、明日来訪予定。


 それだけ書いてある。


 問いを用意する必要はない。


 ダグラスが何を話すか、どこから始めるか。それはダグラスが決める。場を作り、待つ。それだけでいい。


 ただ、一つだけ決めていた。


 弁明としては扱わない。


 同情としても扱わない。


 記録として扱う。


 蝋燭を消した。


---


 翌朝、ダグラスが執務所に来た。


 約束の刻より少し早かった。


 扉を開けたのはロイドだった。


 来訪記録を取る。


 来訪者名、ダグラス。


 所属、執務所筆頭役人。


 時刻、朝一刻前。


 用件。


 ロイドの筆が、そこで一度だけ止まった。


 それから、書いた。


 証言のため。


 ダグラスはロイドの筆の動きを一度だけ見て、何も言わなかった。


 ロイドも何も言わなかった。


 ライルは椅子を一つ出した。


「おかけください」


 机の上に水の入った杯を置いた。


 ダグラスは座った。杯に目が向いた。それから、自分の手の上に視線を落とした。


 体格のいい人間の、疲れた手だった。


 その手で、印を押してきた。


 その手で、帳面を隠してきた。


 その手で、昨日は水路の前に立っていた。


---


 執務所の中は静かだった。


 水路の音が遠くに聞こえる。


 ダグラスは机の上の何もない場所を、長い間見ていた。


 ライルは待った。


 ロイドの筆が帳面の上で止まっていた。


 待つことも、記録の一部になる時がある。


 やがて、ダグラスは口を開いた。


「知っていました」


 声は低かった。


「水路の補修費が、商会に流れていることは、知っていました」


 間があった。


「毎年の発注記録を確認者として押していたのですから。三年分、全件、私が押しました」


 ロイドの筆が動き始めた。


 紙の上に、音が戻る。


「工事がないことも、知っていました」


 ダグラスは顔を上げなかった。


「水路が直っていないことも、現場を見ればわかりました。見なくても、わかりました。あの水路は毎年、春の前に手を入れなければならない。昔はそうしていた。私も、それを知っていました」


 ライルは何も言わなかった。


 ダグラスも、こちらを見なかった。


「それでも、押しました」


---


 ダグラスはそのまま続けた。


「ヴォルツ様から最初に話があった時、断ることができたはずです。別の手立てを探すこともできたはずです」


 弁明ではなかった。


 ただ、事実を置いていた。


「ですが、止めませんでした」


 窓の外で、水路の音が続いている。


「断った者がどうなるかを、私は知っていました。前任調整官の前の任期の者が——」


 そこで一度、言葉が止まった。


「……それも、言い訳です」


 ダグラスは机の端を見た。


「止めなかったのは、事実です」


 ロイドの筆が走る。


 言い訳です。


 止めなかったのは、事実です。


 その二つの言葉が、同じ頁に残っていく。


「誰かに命じられたから、というだけではありません」


 ダグラスは続けた。


「私にも、都合がありました。執務所の仕事を回すには、商会に逆らわない方が楽だった。前任者の時代から、そういう空気でした。物資も、人夫も、倉庫も、運搬も、商会に頼ればすぐに動いた。正しいかどうかではなく、楽かどうかで選んだことが何度もありました」


 ライルは静かに聞いていた。


「そのうち、何が正しいかを考えなくなりました」


 ダグラスの声は、そこで少しだけ掠れた。


「考えない方が、仕事が進むからです」


---


「別帳を残したのは」


 ダグラスは自分から言った。


 また間があった。


「正しさのためではありませんでした」


「いつか、自分を守るためでした」


 ライルは何も言わなかった。


「ヴォルツ様がいつか私を切る日が来ると、わかっていました。その時のために、自分だけが知っている記録を持っておこうと思いました。手札として、です」


 ロイドの筆だけが動いている。


「だから燃やしませんでした」


 ダグラスは、そこで初めてライルを見た。


「あなたに渡すために残したわけではありません。ニルスのためでも、農民のためでもありません」


 その言葉は、重かった。


 だが、必要だった。


「自分のために残しました」


 ロイドの筆が、一度だけ止まった。


 すぐに、また動いた。


---


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 水路の音だけがある。


 ダグラスは続けた。


「燃やすことは、できました。あなたが着任した後も、しばらくの間は燃やせました」


「なぜ燃やさなかったのかは——今でも、うまく言えません」


 窓の外に目が向いた。


 水路の方向だった。


「ただ、あの帳面には十五人の名前があります。私が確認印を押した書類で、土地を失った者たちの名前が」


 ダグラスはそこで一度だけ、手を膝の上で握った。


「昨日の説明会で、ニルスが話していました。聞いていました」


 声がわずかに変わった。


「私が押した印で、あの男の土地がなくなりました」


 それ以上は言わなかった。


 善人の言葉ではない。


 償いの言葉でもない。


 だが、嘘でもなかった。


 押した印は、紙の上に残る。


 その印で失われたものも、人の中に残る。


---


「記録します」


 ライルは言った。


「今おっしゃったことを、正式な記録として残してよいですか」


「……はい」


「これは、処分を免れるための申立てではありませんね」


 ダグラスの目がわずかに動いた。


「はい」


「自発的な証言として扱います。異議はありますか」


「ありません」


「証言内容は、上位機関への追加資料として提出される可能性があります」


「承知しています」


 ロイドが写しを取り始めた。


 ダグラスは、その筆の音を聞いていた。


 以前なら、止めたかもしれない音だった。


 今は、止めなかった。


---


 ライルは一つだけ問いを加えた。


「ベルクのことは」


 ダグラスの目が動いた。


「甥ですから」


 少しの間があった。


「指示を出したのは私です。あの子は、私が言ったことをやっただけです」


「受付拒否についても」


「はい」


「記録済みと伝えた件も」


「私が指示しました」


 ロイドの筆が止まらなかった。


「ベルクは、正規の手順を知っていました」


「はい」


「それでも、あなたの指示に従った」


「はい」


 ダグラスは小さく息を吐いた。


「あの子に責任がないとは言いません。ですが、始めたのは私です。あの子は、私の後ろにいました」


「それも記録します」


「お願いします」


 ダグラスは深く頭を下げた。


 謝罪ではなかった。


 自分の言葉を、逃げずに紙に置くための動きだった。


---


 記録が確定した。


 ロイドが写しに受領の印を押した。


 ダグラスは立ち上がろうとして、一度だけ止まった。


「これで、どうなりますか」


 ライルはすぐには答えなかった。


「それはまだわかりません」


 ダグラスは静かに聞いていた。


「ただ、記録は残ります。正しい順番で並べれば、判断する者が判断します」


「……私は、どうすれば」


「今日の仕事をしてください」


 ダグラスが顔を上げた。


 意外そうではなかった。


 だが、すぐには理解できない顔だった。


「今日の仕事、ですか」


「はい」


 ライルは言った。


「証言したことで、過去の仕事が消えるわけではありません。ですが、今日の仕事を放り出していい理由にもなりません」


 水路の音が、遠くで続いている。


「執務所には、まだ未処理の記録があります。農地被害農民への通知の控えも整理が必要です。あなたに確認してもらう台帳も残っています」


 ダグラスはしばらく黙っていた。


 それから、短く頷いた。


「承知しました」


 扉を開けて、出ていった。


 後ろを振り返らなかった。


---


 ロイドが帳面を閉じた。


 少しの間、何も言わなかった。


「……あの人は、ずっと知っていたんですね」


「はい」


「私も」


 ロイドは帳面の表紙を一度だけ手で押さえた。


「少しは、知っていたのだと思います。全部ではないですが」


 ライルはロイドを見た。


 ロイドの顔には、怯えではないものがあった。


 後悔だった。


 けれど、その後悔に飲まれてはいなかった。


「記録できましたか」


「……はい」


「では、それが今日の仕事です」


 ロイドは少しだけ目を伏せた。


「はい」


 それ以上は言わなかった。


 ライルも何も言わなかった。


 水路の音が、執務所の外で続いていた。


 知っていた者がいる。


 黙っていた者がいる。


 押した者がいる。


 運んだ者がいる。


 見ないふりをした者がいる。


 そのすべてを、同じ罪として扱うことはできない。


 だが、なかったことにもできない。


 だから、記録する。


---


 夕刻、書簡が届いた。


 使者便ではなかった。


 私的な経路だった。


 封蝋は簡素だったが、紙は上等だった。急ぎの書簡に使うには、少しばかり目立つ紙だった。


 ライルは封を開けた。


 文面は短い。


 ガルダという地名を耳にした。


 状況を少し聞かせてほしい。


 必要なら、こちらで確認できることもある。


 それだけだった。


 差出人の名を確認した。


 アルノ・フォン・ケステル。


 ライルはその名を二度読んだ。


 手帳はすぐには開かなかった。


 帝都にいる者の名だ。


 兄たちが笑ったあの日、同じ場にいたわけではない。だが、帝都の政務に関わる者なら、その名を知らない者は少ない。


 ガルダの名が、上位機関とは別の道でも動いている。


 それは、良いこととは限らない。


 目が向くということは、助けが来るという意味だけではない。


 値踏みされるという意味でもある。


 ライルは書簡を折り直した。


---


 夜、机に向かった。


 手帳を開いた。


 着任二十四日目。


 ダグラス証言、記録確定。


 証言内容。


 水路補修費の不正流用を認識。


 工事不存在を認識。


 別帳は自己保身のために保管。


 ベルクへの指示を認める。


 処分免脱目的の申立てではなく、自発的証言として記録。


 その下に一行加えた。


 書簡一通。


 帝都より。


 差出人、アルノ・フォン・ケステル。


 ペンを置いた。


 水路が動いた。


 人が動いた。


 書状が走った。


 声が出た。


 そして今、帝都の名が一つ、こちらを向いた。


 ガルダの名が、動き始めている。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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