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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第三章:声が、届く

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第十八話「声が、出た」

 着任二十二日目の朝、水路の終端に近い場所に立った。


 今年修繕した北側水路だ。


 水が流れている。


 開けた場所がある。人が三十人ほど立てる。川岸の土が、作業で踏み固められたままだ。水路の縁には、鍬の跡がまだ残っている。乾き切っていない土の色が、ここで人が働いたことを示していた。


 手帳を開いた。


 説明は短く。農民自身の言葉を入れる。


 その一行だけが書いてある。


 長く話す必要はない。


 今日ここに置くべきものは、ライルの言葉ではない。


 水路。


 記録。


 そして、この土地にいた人間の声だ。


---


 夕刻、ゲオルグが来た。


「二十人から三十人は来ると思います」


「ありがとうございます」


「信じていない者も来ると思います」


「それで構いません」


 ゲオルグは少し間を置いた。


「水路を見たい者も来ます。話を聞きたい者も。調整官様を確かめたい者も」


「はい」


「それから、商会の者も来るでしょう」


「来てもらって構いません」


 ゲオルグはライルを見た。


 不安そうではなかった。


 ただ、念を押す顔だった。


「明日は、私も行きます」


「お願いします」


「話すかどうかは、わかりません」


「聞いているだけでも構いません」


 ゲオルグは小さく頷いた。


---


 翌朝、ロイドが帳面を二冊用意していた。


「一冊は事実の記録。もう一冊は風聞記録として開けておきます。商会側の方々が来れば、その動きも残します」


「そうしてください」


「それと、発言者の名前を確認できない場合の欄も作りました。無理に名を聞くと、話せなくなる人もいると思いましたので」


 ライルはロイドを見た。


「よく考えましたね」


 ロイドは少しだけ目を伏せた。


「今日は、記録を取る場ですが……記録のために声を止めてはいけないと思いました」


「その通りです」


 ロイドは立ち上がった。


「行きましょう」


---


 水路前に、人が少しずつ来た。


 最初は三人。次に四人。また増えた。


 ライルは水路の縁に立っていた。始めようとしなかった。


 人が来るのを待った。


 遠巻きに立っている者もいた。輪の中には入らないが、来ている。それでよかった。


 聞きに来た者。


 確かめに来た者。


 噂が本当かどうかを見に来た者。


 商会の様子をうかがっている者。


 それぞれの理由で、同じ水路の前に立っている。


 ロイドが少し外れた位置で帳面を広げた。


 商会側の者が来ていた。三名だった。少し外れたところに立った。誰も名乗らない。ロイドは無理に近づかなかった。ただ、人数、位置、到着時刻を記録した。


 カイが来た。何も言わず、人の輪の端に入った。


 ゲオルグが農民数名を連れてきた。


 ニルスが来た。少し遅れた。人の後ろに立った。懐に通知書の封を入れていた。


 ダグラスが来た。


 誰も呼んでいない。


 輪から外れた場所に、静かに立った。


 ざわめきが少しだけ起きた。


 ダグラスはその声を聞いても、動かなかった。


 ライルは見ていたが、何も言わなかった。


---


 三十人ほど集まった頃、ライルは口を開いた。


「今日は三つのことをお伝えします」


 水路の音が続いていた。


「一つ目。この水路の補修費について、三年分の発注記録があります。金額も支払い記録も、全件揃っています」


 間を置いた。


「ただし、検収記録がありませんでした。作業員名簿も、資材受領記録も、通水確認記録も、三年分、一件もありませんでした」


 誰も何も言わなかった。


 水の音だけがある。


「二つ目。今年の修繕です。二十五名、九日間で行いました。作業員の名前、作業時間、道具、資材、通水確認、全件記録があります。ここにいる方々が行いました」


 また間を置いた。


「三つ目。農地の移動記録について、十五件分が確認されています。上位機関に書類を届けました。処理には時間がかかります。ただし、止まっていません」


 ライルはそこで言葉を切った。


 説明は、それだけだった。


「以上です」


 人々がこちらを見ている。


 答えを待っている者もいる。


 何かを言ってほしい者もいる。


 だが、今日ライルがすべきことは、すべてを言い切ることではない。


「何か聞きたいことがあれば、今ここで話してください。答えられることは答えます。答えられないことは、答えられないと記録します」


---


 沈黙があった。


 水路の音だけが続いた。


 やがて、誰かが口を開いた。


「土地は……戻るのですか」


 声は、人の輪の中ほどからだった。


 誰が言ったのか、ライルからは見えなかった。


「確認中です。止まっていません」


「戻るとは言えないのですか」


「今は、言えません」


 小さなざわめきが広がった。


 失望ではない。


 不満でもない。


 ただ、期待していた言葉と違った時の、空気の揺れだった。


 別の声がした。


「商会がなくなったら、麦はどこへ売ればいい」


 商会側の者が、少しだけ顔を上げた。


 ライルはその方向を見なかった。


「商会をなくすかどうかを決める場ではありません」


 ライルは言った。


「水路補修費、土地移動、管理委託契約について、記録を確認している場です。麦の売り先については、今後必要があれば別に整理します」


「でも、困るのはこっちだ」


「はい」


 ライルは頷いた。


「だから、その不安も記録します」


 ロイドの筆が動いた。


 また沈黙が来た。


 誰かが何かを言いかけて、止まった。


 言えない空気ではない。


 言う言葉を探している空気だった。


---


 ニルスが動いた。


 人の後ろから、一歩前に出た。


「一つだけ、言ってもいいですか」


 ゲオルグが後ろに引いた。


 場ができた。


 ニルスはしばらく、水路を見ていた。


 それから顔を上げた。


「三年前、書類に署名しました」


 声は低かった。


 だが、届いた。


「管理を預けるだけだと聞きました。水路が直ったら戻せる、とも言われました」


 人々の間に、わずかな動きがあった。


 ニルスは続けた。


「急かされて、内容を全部は確認できませんでした。一年後に、名義が変わっていました」


 それだけだった。


 ニルスは黙った。


 足元に水が流れていた。


 元は自分の田んぼの前だった場所に、今年直した水路が通っている。


 聞いていた者の顔が、少しだけ変わった。


 誰かが息を吸った。


 誰かが視線を伏せた。


 その中に、似た経験を思い出した者がいるのかもしれない。


 ロイドの筆が止まらなかった。


---


 カイが、ニルスの横に立った。


「俺も言っていいですか」


 ニルスが短く頷いた。


 カイは人の輪を見なかった。


 水路を見ていた。


「水路は直りました」


 間。


「二十五人で、九日間。俺もやりました」


 それだけだった。


 短すぎる言葉だった。


 だが、その短さがかえって場に残った。


 直した者がここにいる。


 その事実が、今初めて公の場に出た。


 カイは続けた。


「最初は六人でした。途中から人が増えました。水が動いたからです」


 水路の音が、足元で続いている。


「誰かに言われて来たんじゃありません。水が来るかもしれないと思ったから、来ました」


 それ以上は言わなかった。


 カイは一歩下がった。


 人々の目が、少しだけ水路へ向いた。


---


 ゲオルグが前に出た。


 ゆっくりとした動き方だった。


「私は、税を納めに来ました」


 人々の視線が、ゲオルグに向いた。


「二年前も、一年前も。ですが、受け取られませんでした。受付は終わった、記録済みだ、そう言われました」


 老いた声だった。


 だが、弱くはなかった。


「その話を、調整官様は聞きました。そして、受け取りました。記録しました」


 ゲオルグは少しだけ、水路を見た。


「今日ここに来た人間が、自分の言葉で伝えればいい」


 誰かに向かって話しているわけではなかった。


 どこかに向かって、置くように言った。


「それだけでいい」


 沈黙が落ちた。


 先ほどまでの沈黙とは違った。


 何も言えない沈黙ではなかった。


 誰かが言った言葉を、自分の中に置いている沈黙だった。


---


 人が少しずつ離れた。


 急に散ったわけではなかった。


 二人、三人と水路を見ながら歩き出す。立ち止まって、隣の者と小さく話す。誰かがニルスに近づいた。何を言ったのかは、ここからは聞こえなかった。


 商会側の者が帰った。


 帰り際、一人が懐から小さな紙を出し、何かを書いた。


 ロイドが見ていた。


 帳面に一行書き入れた。


 商会関係者三名、説明会に参加。発言なし。終了後、一名が短く書付を作成した様子あり。


 ライルは何も言わなかった。


 商会もまた、今日の場を持ち帰る。


 声が出た以上、それをなかったことにはできない。


---


 ダグラスが最後まで残っていた。


 人の輪が解けてから、一人で立っていた。


 帰り際、ライルのそばを通った。


 目が合った。


 言葉はなかった。


 ダグラスは小さく頭を下げた。


 それだけで歩いていこうとした。


「筆頭役人」


 ライルは呼んだ。


 ダグラスの足が止まった。


「今日の発言も、記録に残ります」


「……はい」


 ダグラスは水路の方を見た。


 長い間、止まっていた水路を。


 それから、もう一度ライルを見た。


「明日、執務所に伺います」


 声は低かった。


「私の話も、記録してください」


 ライルは頷いた。


「承知しました」


 ダグラスはそれ以上言わず、歩いていった。


---


 ロイドが帳面を閉じた。


「参加者、三十二名です。発言者はニルスさん、カイさん、ゲオルグさん、それから名前を確認できなかった方が二名」


「ありがとうございます」


 ロイドは少しだけ間を置いた。


「商会側の方の記録も残しました」


「そうしてください」


 ロイドが帳面を抱えた。


「今日の記録は……いつもと少し違います」


「何が違いますか」


「記録より先に、声がありました」


 ライルは答えなかった。


 ロイドも、それ以上は言わなかった。


 水路の音が続いていた。


 紙に残る前に、人の声があった。


 その声を、今日は紙が追いかけた。


---


 夜、手帳に書いた。


 着任二十三日目、昼。


 水路前。


 参加三十二名。


 ニルス、管理委託契約について発言。


 カイ、水路修繕について発言。


 ゲオルグ、税受付について発言。


 商会側三名参加、発言なし。


 ダグラス、明日来訪予定。


 ライルはペンを止めた。


 その下に、一行だけ加えた。


 声が出た。


 ペンを置いた。


 水路の音が、夜の中にあった。


 蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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