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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第十二章:いなくても、回る

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第百十七話「いなくても、回る」

 着任六百日目、朝。


 執務所に、ライルの姿はなかった。


 五日前から、隣領で進む技術協力の実地確認に出ている。


 内政調整局からの依頼だった。


 着任した日から、六百日。


 割れたままの窓は、もうない。


 帳面は種類ごとに棚へ収まり、受付、官倉、土地、水利、それぞれの持ち場に、それぞれの記録がある。


「今日で、留守は五日目です」


 ミラが、留守中の運用記録に日付を書いた。


「はい」


 ロイドは答えた。


 それだけだった。


 受付には、いつも通り人が来た。


 土地利用の相談に来た若い夫婦へ、ミラが必要な書式を渡す。


「調整官殿は、今日は」


「不在です」


 ミラは答えた。


「ただ、受付と確認の手順は、いつも通りです」


「戻られるまで、待った方が」


「今日決められることは、今日進めます。調整官の判断が必要なところまで来たら、そこで止めます」


 夫婦は頷き、用紙へ向かった。


 官倉では、ヴェクが在庫を確認していた。


 ダグラスは来訪記録を見直し、訂正が必要な箇所には、元の文字を消さずに補足を付ける。


 誰も、ライルがいないことを理由に、仕事を止めてはいなかった。


 昼前。


 ゲオルグとカイが、水路の見回りから戻ってきた。


「北側の水量が、少し落ちています」


 ゲオルグが言った。


「いつからですか」


 ロイドが尋ねる。


「昨日の夕方からです」


 カイが答えた。


「今朝も、同じくらいでした」


「下流で、水が足りない場所は」


「今のところ、ありません」


「詰まりや崩れは」


「見える範囲には、ありません」


 ロイドは、すぐに結論を出さなかった。


「原因は、まだわかりませんね」


「はい」


 カイが答えた。


「では、確認を先にします」


 ロイドが言った。


「ゲオルグさんとカイさんは、上流を見てください。新しい取水や、壊れた箇所がないか。ヴェクさんには、官倉側の流入口を見てもらいます」


「記録は」


 ミラが尋ねた。


「朝夕の水量を、今日から残します」


「何日分」


「必要なだけです」


 ロイドは答えた。


「結論は急ぎません。でも、確認は今日から始めます」


 カイが、少しだけ笑った。


「はい」


 二人はすぐに上流へ向かった。


 ミラは水量記録の用紙を用意し、朝の数値と時刻を書き込んだ。


 ヴェクからは、官倉側に異常なしとの報告が届いた。


 残るのは、上流だった。


 午後。


 ゲオルグとカイが戻った。


「上流の一戸が、今年から畑を広げています」


 ゲオルグが報告した。


「取水板を一段、上げていました」


「勝手に、ですか」


 ミラが尋ねた。


「本人は、以前からある取り決めの範囲だと思っていました」


 カイが答えた。


「こちらも、その場では判断していません」


「それでいいです」


 ロイドは言った。


「取り決めを確認します」


 古い水利記録は、重要原本として保管されていた。


 ロイドが施錠棚の前で立ち止まる。


「一人では開けません」


「私が立ち会います」


 ダグラスが言った。


 二人で時刻を記し、確認者欄へ並んで署名する。


 原本を開く。


 収穫前の一定期間、上流三戸については、定められた範囲で取水量を増やせる。


 対象期間。


 対象戸。


 取水の方法。


 一つずつ確認した。


「範囲内です」


 ロイドが言った。


「では、違反ではない」


 ミラが確認する。


「はい」


「水量が落ちた原因は」


「これだけとは、まだ決めません。ただ、時期と状況は合います」


 その日のうちに、ロイドとダグラスは原本から必要箇所の認証写しを作った。


 原本は、確認記録とともに棚へ戻す。


 ゲオルグとカイには、その写しを持って上流の家へもう一度行ってもらった。


 夕方。


「取り決めの範囲内でした」


 ゲオルグが戻って報告した。


「本人にも、写しを見せました」


「今後は」


「取水を増やす時は、事前に一言知らせてもらえるそうです」


「義務として、ですか」


 ロイドが尋ねた。


「いいえ。向こうから、そうすると」


「では、運用上の申し合わせとして残します。元の権利条件は変えません」


 ミラが、その通りに記録した。


 朝に見つかった変化は、その日のうちに、


 ——水量低下を確認。


 ——下流への不足なし。


 ——施設異常なし。


 ——上流一戸の季節取水を確認。


 ——既存取り決めの範囲内。


 ——事前連絡は任意の運用として合意。


 という形まで整理された。


 原因を断定しすぎず、違反ではないものを違反にせず、それでも次に確認しやすい記録を残す。


 それで、その日の水利対応は終わった。


 夕刻。


 旅装のまま、ライルが執務所へ戻ってきた。


「戻りました」


「お帰りなさい」


 ロイドが答えた。


 ライルは荷物を置き、いつものように尋ねた。


「留守中、何かありましたか」


「ありました」


 ロイドが、水利記録を差し出す。


「北側の水量が落ちました。確認は終わっています」


 ライルは、紙を上から順に読んだ。


 最初の報告。


 確認した事実。


 原本の開封記録。


 上流での確認。


 最後の申し合わせ。


 一つずつ目を通す。


「私が、決めることは残っていますか」


「ありません」


 ロイドが答えた。


 ライルは、もう一度だけ紙を見た。


「そうですか」


 それだけ言って、確認済みの欄へ署名した。


 誰かがライルの真似をしたわけではない。


 ロイドはロイドの仕事をした。


 ミラはミラの仕事をした。


 ヴェクは現場を見た。


 ダグラスは、一人で原本を開かなかった。


 カイとゲオルグは、村側で確かめるべきことを確かめた。


 役割が違うまま、仕事だけが最後までつながっていた。


 夜。


 内政調整局から、ライル宛ての正式便が届いた。


 ロイドが受領記録を残し、封を渡す。


 ライルが読む。


 ——広域照合を受けた記録手順の見直し対象地域の一つについて、現地運用の再構築を担う人員を検討している。


 ——当該地域では、長く一部担当者の経験に依存してきたため、担当者の交代・不在時にも継続できる手順への移行を必要としている。


 ——ガルダにおける運用整備の実績を踏まえ、次期担当として赴任の意向を確認したい。


 ミラが、文面を横から見た。


「また、辺境ですか」


「そう書いてあります」


「今度は、何を直すんでしょう」


「まだ、わかりません」


 ライルは答えた。


「わかっているのは、誰か一人がいなければ止まる仕事を、止まらない形にする必要がある、ということだけです」


 ロイドが、机の上の水利記録を見た。


「今日のガルダとは、逆ですね」


「はい」


 ライルも、その紙を見る。


 五日間、自分はいなかった。


 その間にも受付は進み、官倉は閉じ、水量の変化は発見され、必要な確認が終わった。


 戻ってきた自分に残っていたのは、出来上がった記録を読むことだけだった。


「返事は」


 ロイドが尋ねた。


「今日は、書きません」


 ライルは答えた。


「明日、もう一度読みます」


 ダグラスが、静かに口を開いた。


「もし、行かれるなら」


 少し間を置く。


「ここは、回ります」


 ライルは頷いた。


「はい」


 窓の外、水路の音が流れていた。


 五日間、ライルがいなくても止まらなかった音だった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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