第百十七話「いなくても、回る」
着任六百日目、朝。
執務所に、ライルの姿はなかった。
五日前から、隣領で進む技術協力の実地確認に出ている。
内政調整局からの依頼だった。
着任した日から、六百日。
割れたままの窓は、もうない。
帳面は種類ごとに棚へ収まり、受付、官倉、土地、水利、それぞれの持ち場に、それぞれの記録がある。
「今日で、留守は五日目です」
ミラが、留守中の運用記録に日付を書いた。
「はい」
ロイドは答えた。
それだけだった。
受付には、いつも通り人が来た。
土地利用の相談に来た若い夫婦へ、ミラが必要な書式を渡す。
「調整官殿は、今日は」
「不在です」
ミラは答えた。
「ただ、受付と確認の手順は、いつも通りです」
「戻られるまで、待った方が」
「今日決められることは、今日進めます。調整官の判断が必要なところまで来たら、そこで止めます」
夫婦は頷き、用紙へ向かった。
官倉では、ヴェクが在庫を確認していた。
ダグラスは来訪記録を見直し、訂正が必要な箇所には、元の文字を消さずに補足を付ける。
誰も、ライルがいないことを理由に、仕事を止めてはいなかった。
昼前。
ゲオルグとカイが、水路の見回りから戻ってきた。
「北側の水量が、少し落ちています」
ゲオルグが言った。
「いつからですか」
ロイドが尋ねる。
「昨日の夕方からです」
カイが答えた。
「今朝も、同じくらいでした」
「下流で、水が足りない場所は」
「今のところ、ありません」
「詰まりや崩れは」
「見える範囲には、ありません」
ロイドは、すぐに結論を出さなかった。
「原因は、まだわかりませんね」
「はい」
カイが答えた。
「では、確認を先にします」
ロイドが言った。
「ゲオルグさんとカイさんは、上流を見てください。新しい取水や、壊れた箇所がないか。ヴェクさんには、官倉側の流入口を見てもらいます」
「記録は」
ミラが尋ねた。
「朝夕の水量を、今日から残します」
「何日分」
「必要なだけです」
ロイドは答えた。
「結論は急ぎません。でも、確認は今日から始めます」
カイが、少しだけ笑った。
「はい」
二人はすぐに上流へ向かった。
ミラは水量記録の用紙を用意し、朝の数値と時刻を書き込んだ。
ヴェクからは、官倉側に異常なしとの報告が届いた。
残るのは、上流だった。
午後。
ゲオルグとカイが戻った。
「上流の一戸が、今年から畑を広げています」
ゲオルグが報告した。
「取水板を一段、上げていました」
「勝手に、ですか」
ミラが尋ねた。
「本人は、以前からある取り決めの範囲だと思っていました」
カイが答えた。
「こちらも、その場では判断していません」
「それでいいです」
ロイドは言った。
「取り決めを確認します」
古い水利記録は、重要原本として保管されていた。
ロイドが施錠棚の前で立ち止まる。
「一人では開けません」
「私が立ち会います」
ダグラスが言った。
二人で時刻を記し、確認者欄へ並んで署名する。
原本を開く。
収穫前の一定期間、上流三戸については、定められた範囲で取水量を増やせる。
対象期間。
対象戸。
取水の方法。
一つずつ確認した。
「範囲内です」
ロイドが言った。
「では、違反ではない」
ミラが確認する。
「はい」
「水量が落ちた原因は」
「これだけとは、まだ決めません。ただ、時期と状況は合います」
その日のうちに、ロイドとダグラスは原本から必要箇所の認証写しを作った。
原本は、確認記録とともに棚へ戻す。
ゲオルグとカイには、その写しを持って上流の家へもう一度行ってもらった。
夕方。
「取り決めの範囲内でした」
ゲオルグが戻って報告した。
「本人にも、写しを見せました」
「今後は」
「取水を増やす時は、事前に一言知らせてもらえるそうです」
「義務として、ですか」
ロイドが尋ねた。
「いいえ。向こうから、そうすると」
「では、運用上の申し合わせとして残します。元の権利条件は変えません」
ミラが、その通りに記録した。
朝に見つかった変化は、その日のうちに、
——水量低下を確認。
——下流への不足なし。
——施設異常なし。
——上流一戸の季節取水を確認。
——既存取り決めの範囲内。
——事前連絡は任意の運用として合意。
という形まで整理された。
原因を断定しすぎず、違反ではないものを違反にせず、それでも次に確認しやすい記録を残す。
それで、その日の水利対応は終わった。
夕刻。
旅装のまま、ライルが執務所へ戻ってきた。
「戻りました」
「お帰りなさい」
ロイドが答えた。
ライルは荷物を置き、いつものように尋ねた。
「留守中、何かありましたか」
「ありました」
ロイドが、水利記録を差し出す。
「北側の水量が落ちました。確認は終わっています」
ライルは、紙を上から順に読んだ。
最初の報告。
確認した事実。
原本の開封記録。
上流での確認。
最後の申し合わせ。
一つずつ目を通す。
「私が、決めることは残っていますか」
「ありません」
ロイドが答えた。
ライルは、もう一度だけ紙を見た。
「そうですか」
それだけ言って、確認済みの欄へ署名した。
誰かがライルの真似をしたわけではない。
ロイドはロイドの仕事をした。
ミラはミラの仕事をした。
ヴェクは現場を見た。
ダグラスは、一人で原本を開かなかった。
カイとゲオルグは、村側で確かめるべきことを確かめた。
役割が違うまま、仕事だけが最後までつながっていた。
夜。
内政調整局から、ライル宛ての正式便が届いた。
ロイドが受領記録を残し、封を渡す。
ライルが読む。
——広域照合を受けた記録手順の見直し対象地域の一つについて、現地運用の再構築を担う人員を検討している。
——当該地域では、長く一部担当者の経験に依存してきたため、担当者の交代・不在時にも継続できる手順への移行を必要としている。
——ガルダにおける運用整備の実績を踏まえ、次期担当として赴任の意向を確認したい。
ミラが、文面を横から見た。
「また、辺境ですか」
「そう書いてあります」
「今度は、何を直すんでしょう」
「まだ、わかりません」
ライルは答えた。
「わかっているのは、誰か一人がいなければ止まる仕事を、止まらない形にする必要がある、ということだけです」
ロイドが、机の上の水利記録を見た。
「今日のガルダとは、逆ですね」
「はい」
ライルも、その紙を見る。
五日間、自分はいなかった。
その間にも受付は進み、官倉は閉じ、水量の変化は発見され、必要な確認が終わった。
戻ってきた自分に残っていたのは、出来上がった記録を読むことだけだった。
「返事は」
ロイドが尋ねた。
「今日は、書きません」
ライルは答えた。
「明日、もう一度読みます」
ダグラスが、静かに口を開いた。
「もし、行かれるなら」
少し間を置く。
「ここは、回ります」
ライルは頷いた。
「はい」
窓の外、水路の音が流れていた。
五日間、ライルがいなくても止まらなかった音だった。
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次回は明日19:10更新予定です。
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