第百十八話「只今、着任しました」
着任六百八日目、朝。
ライルは、内政調整局への返書を書いた。
——赴任の打診を受諾する。
理由は、長く書かなかった。
必要なことは、それで足りていた。
数日後、正式な異動辞令と、後任着任までの運用命令が届いた。
——定型業務は、現行の分掌により継続する。
——調整官権限を必要とする新規判断のみ、後任着任まで内政調整局へ上申する。
誰か一人に、代わりのライルをさせる命令ではなかった。
「引き継ぎ書、できました」
ミラが、数枚の紙を机に置いた。
ライルが頁をめくる。
帳簿総目録。
受付分類。
原本保全。
証言記録。
水利。
官倉。
係争が発生した場合の暫定処理。
どれも、新しく書いた説明ではない。
すでに使われている手順書の所在と、現在の担当者を示しただけだった。
「思ったより、新しく書くことがありませんでした」
ミラが言った。
「それでいいんです」
ライルは答えた。
「私だけが知っていることを、最後の日に書き残す必要があるなら、まだ引き継げていません」
「今は」
「所在を示せば、読める。担当を見れば、誰に聞けばいいかわかる」
ライルは引き継ぎ書を閉じた。
「その方が、長く使えます」
ロイドが、表紙の確認欄へ署名した。
「次の調整官が来るまでも、回せます」
「はい」
「調整官にしか決められないことが来たら」
「上申します」
「それでいいです」
ライルは頷いた。
引き継ぎとは、ライルの仕事を誰か一人へ渡すことではなかった。
仕事を、仕事の場所へ戻していくことだった。
午後。
ヴェクが官倉の点検表を持ってきた。
「今日の分です」
「異常は」
「ありません」
ライルは確認し、受領欄へ署名した。
ヴェクは、少しだけ姿勢を正した。
「長く、お世話になりました」
「こちらこそです」
それだけだった。
ヴェクは、いつものように官倉へ戻っていった。
ミラも、受付の締め記録を持ってきた。
「抜けはありません」
「見直しましたか」
「見直しました」
ミラは答えた。
「見直せば、わかる。最初にそう教わりました」
「今は、私が言わなくても見直しています」
「はい」
ミラは少し笑った。
「ですから、もう大丈夫です」
ライルも、小さく頷いた。
「はい」
夕方。
カイとゲオルグが揃って顔を出した。
「行かれるんですね」
カイが言った。
「はい」
「向こうでも、水路はありますか」
「たぶん」
「なら、最初に見るでしょうね」
カイが笑った。
「どうでしょう」
「見ると思います」
ゲオルグも言った。
「でも、今度は水路じゃないかもしれません」
「それは、着いてから確かめます」
ライルは答えた。
「水位の記録は」
「トビアスも続けています」
カイが言った。
「私がいない日でも、もう測れます」
「そうですか」
「はい」
それ以上の言葉は、いらなかった。
「元気で」
「そちらも」
二人は、水路の方へ戻っていった。
夜。
ダグラスが、重要原本の確認記録を持ってきた。
二名確認。
時刻。
戻し先。
抜けはない。
「これで、今日の分は終わりです」
「ありがとうございます」
ダグラスは一歩下がった。
「行ってらっしゃいませ」
「はい」
ライルは、それだけ答えた。
ダグラスも、それ以上は言わなかった。
深く一礼し、扉を出ていく。
明日も、同じ扉から入ってきて、同じように記録を確認する。
そのことの方が、長い言葉よりも確かだった。
執務所には、ライルとロイドだけが残った。
ロイドが、最後の引き継ぎ書を閉じる。
「着任した日のことを、覚えていますか」
「覚えています」
「私は、あの日、あなたを信じていませんでした」
「そうでしたね」
「今は」
ロイドは少し考えた。
「信じる、という言い方を、しなくなりました」
ライルが顔を上げる。
「記録を見れば、確かめられる。誰かがいなければ、別の人が手順をたどれる」
ロイドは言った。
「それで回るなら、最初から、一人を信じ切る必要はなかったんですね」
「はい」
ライルは頷いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「どうして、そこまで、一人にしない仕組みにこだわったんですか」
ライルは、少し黙った。
「一人が頑張ることでしか回らない仕事は、その人がいなくなった時に、全部止まるからです」
「止まったところを、見たことがあるんですか」
ロイドが尋ねた。
ライルは、すぐには答えなかった。
前の人生のことを、言葉にするつもりはなかった。
ここで必要なのは、秘密を渡すことではない。
もう、行動の方が先に残っている。
「……そういうことにしておいてください」
やがて、そう答えた。
ロイドは、それ以上尋ねなかった。
「わかりました」
少しして、ライルが続けた。
「止まった仕組みは、誰か一人だけのせいで止まったわけではありません」
「はい」
「だから、止まらなくなった仕組みも、誰か一人だけの手柄ではありません」
ライルは机の上の引き継ぎ書を見る。
「あなたたちが、続けて作ったものです」
ロイドは、しばらく黙っていた。
「次の調整官が来ても、続けます」
「はい」
「あなたのやり方としてではなく」
「ガルダのやり方として」
ライルが言った。
ロイドは頷いた。
「はい」
「それで、十分です」
翌朝。
特別な送別の式典は設けなかった。
異動は、他の行政連絡と同じように掲示されている。
執務所の前には、ロイド、ミラ、ヴェク、ダグラス、カイ、ゲオルグがいた。
少し離れたところで、レオが道具箱を抱えて立っている。
水路沿いでは、トビアスが朝の数値を記録していた。
誰も、仕事を止めてはいなかった。
ライルは、執務所を振り返る。
割れていた窓は、もうない。
未処理の紙が積み上がっていた机には、今日使う帳面だけが置かれている。
着任した日との違いを、数える必要はなかった。
「では」
ライルが言った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ロイドが答えた。
いつもの一日を送り出す声だった。
馬車が動き出す。
水路は流れている。
官倉の扉が開く。
受付へ、最初の来訪者が向かっていく。
カイは水路へ戻り、ゲオルグは畑の方へ歩き出す。
ダグラスも、執務所へ戻った。
ライルは、一度だけ振り返った。
誰も、大きく手を振ってはいなかった。
それぞれが、それぞれの持ち場へ戻っていくところだった。
ライルは、前を向いた。
数日の道のりを経て、新しい任地へ着いた。
知らない道。
知らない建物。
知らない人の顔。
まだ、何がどう動いている場所なのかもわからない。
だから、最初から決めることは何もなかった。
まず、見る。
聞く。
記録を確かめる。
それだけだった。
馬車を降りると、一人の役人が迎えに立っていた。
「調整官殿で、間違いありませんか」
声には、歓迎でも警戒でもない、ただ確認する響きがあった。
ライルは、懐から辞令を取り出した。
「ライル・フォン・ヴァルディスです」
役人が、辞令へ目を通す。
ライルは、少しだけ間を置いた。
そして、迷わず言った。
「ええ。只今、着任しました」
完
ここまで『辺境調整官、只今着任』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
第118話をもちまして、本作は完結となります。
派手な力で何かを変えるのではなく、
記録を残し、仕組みを整え、誰かがいなくなったあとも続いていくものをつくる。
そんな主人公の物語を、最後まで書き切ることができました。
ここまでライルたちの歩みを見届けてくださった皆さまに、心より感謝いたします。
もし最後まで読んで感じたことや、印象に残った場面などがありましたら、
感想で一言でも聞かせていただけると、とても嬉しいです。
改めまして、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
また別の物語でお会いできましたら幸いです。




