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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第十二章:いなくても、回る

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第百十八話「只今、着任しました」

 着任六百八日目、朝。


 ライルは、内政調整局への返書を書いた。


 ——赴任の打診を受諾する。


 理由は、長く書かなかった。


 必要なことは、それで足りていた。


 数日後、正式な異動辞令と、後任着任までの運用命令が届いた。


 ——定型業務は、現行の分掌により継続する。


 ——調整官権限を必要とする新規判断のみ、後任着任まで内政調整局へ上申する。


 誰か一人に、代わりのライルをさせる命令ではなかった。


「引き継ぎ書、できました」


 ミラが、数枚の紙を机に置いた。


 ライルが頁をめくる。


 帳簿総目録。


 受付分類。


 原本保全。


 証言記録。


 水利。


 官倉。


 係争が発生した場合の暫定処理。


 どれも、新しく書いた説明ではない。


 すでに使われている手順書の所在と、現在の担当者を示しただけだった。


「思ったより、新しく書くことがありませんでした」


 ミラが言った。


「それでいいんです」


 ライルは答えた。


「私だけが知っていることを、最後の日に書き残す必要があるなら、まだ引き継げていません」


「今は」


「所在を示せば、読める。担当を見れば、誰に聞けばいいかわかる」


 ライルは引き継ぎ書を閉じた。


「その方が、長く使えます」


 ロイドが、表紙の確認欄へ署名した。


「次の調整官が来るまでも、回せます」


「はい」


「調整官にしか決められないことが来たら」


「上申します」


「それでいいです」


 ライルは頷いた。


 引き継ぎとは、ライルの仕事を誰か一人へ渡すことではなかった。


 仕事を、仕事の場所へ戻していくことだった。


 午後。


 ヴェクが官倉の点検表を持ってきた。


「今日の分です」


「異常は」


「ありません」


 ライルは確認し、受領欄へ署名した。


 ヴェクは、少しだけ姿勢を正した。


「長く、お世話になりました」


「こちらこそです」


 それだけだった。


 ヴェクは、いつものように官倉へ戻っていった。


 ミラも、受付の締め記録を持ってきた。


「抜けはありません」


「見直しましたか」


「見直しました」


 ミラは答えた。


「見直せば、わかる。最初にそう教わりました」


「今は、私が言わなくても見直しています」


「はい」


 ミラは少し笑った。


「ですから、もう大丈夫です」


 ライルも、小さく頷いた。


「はい」


 夕方。


 カイとゲオルグが揃って顔を出した。


「行かれるんですね」


 カイが言った。


「はい」


「向こうでも、水路はありますか」


「たぶん」


「なら、最初に見るでしょうね」


 カイが笑った。


「どうでしょう」


「見ると思います」


 ゲオルグも言った。


「でも、今度は水路じゃないかもしれません」


「それは、着いてから確かめます」


 ライルは答えた。


「水位の記録は」


「トビアスも続けています」


 カイが言った。


「私がいない日でも、もう測れます」


「そうですか」


「はい」


 それ以上の言葉は、いらなかった。


「元気で」


「そちらも」


 二人は、水路の方へ戻っていった。


 夜。


 ダグラスが、重要原本の確認記録を持ってきた。


 二名確認。


 時刻。


 戻し先。


 抜けはない。


「これで、今日の分は終わりです」


「ありがとうございます」


 ダグラスは一歩下がった。


「行ってらっしゃいませ」


「はい」


 ライルは、それだけ答えた。


 ダグラスも、それ以上は言わなかった。


 深く一礼し、扉を出ていく。


 明日も、同じ扉から入ってきて、同じように記録を確認する。


 そのことの方が、長い言葉よりも確かだった。


 執務所には、ライルとロイドだけが残った。


 ロイドが、最後の引き継ぎ書を閉じる。


「着任した日のことを、覚えていますか」


「覚えています」


「私は、あの日、あなたを信じていませんでした」


「そうでしたね」


「今は」


 ロイドは少し考えた。


「信じる、という言い方を、しなくなりました」


 ライルが顔を上げる。


「記録を見れば、確かめられる。誰かがいなければ、別の人が手順をたどれる」


 ロイドは言った。


「それで回るなら、最初から、一人を信じ切る必要はなかったんですね」


「はい」


 ライルは頷いた。


「一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「どうして、そこまで、一人にしない仕組みにこだわったんですか」


 ライルは、少し黙った。


「一人が頑張ることでしか回らない仕事は、その人がいなくなった時に、全部止まるからです」


「止まったところを、見たことがあるんですか」


 ロイドが尋ねた。


 ライルは、すぐには答えなかった。


 前の人生のことを、言葉にするつもりはなかった。


 ここで必要なのは、秘密を渡すことではない。


 もう、行動の方が先に残っている。


「……そういうことにしておいてください」


 やがて、そう答えた。


 ロイドは、それ以上尋ねなかった。


「わかりました」


 少しして、ライルが続けた。


「止まった仕組みは、誰か一人だけのせいで止まったわけではありません」


「はい」


「だから、止まらなくなった仕組みも、誰か一人だけの手柄ではありません」


 ライルは机の上の引き継ぎ書を見る。


「あなたたちが、続けて作ったものです」


 ロイドは、しばらく黙っていた。


「次の調整官が来ても、続けます」


「はい」


「あなたのやり方としてではなく」


「ガルダのやり方として」


 ライルが言った。


 ロイドは頷いた。


「はい」


「それで、十分です」


 翌朝。


 特別な送別の式典は設けなかった。


 異動は、他の行政連絡と同じように掲示されている。


 執務所の前には、ロイド、ミラ、ヴェク、ダグラス、カイ、ゲオルグがいた。


 少し離れたところで、レオが道具箱を抱えて立っている。


 水路沿いでは、トビアスが朝の数値を記録していた。


 誰も、仕事を止めてはいなかった。


 ライルは、執務所を振り返る。


 割れていた窓は、もうない。


 未処理の紙が積み上がっていた机には、今日使う帳面だけが置かれている。


 着任した日との違いを、数える必要はなかった。


「では」


 ライルが言った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 ロイドが答えた。


 いつもの一日を送り出す声だった。


 馬車が動き出す。


 水路は流れている。


 官倉の扉が開く。


 受付へ、最初の来訪者が向かっていく。


 カイは水路へ戻り、ゲオルグは畑の方へ歩き出す。


 ダグラスも、執務所へ戻った。


 ライルは、一度だけ振り返った。


 誰も、大きく手を振ってはいなかった。


 それぞれが、それぞれの持ち場へ戻っていくところだった。


 ライルは、前を向いた。


 数日の道のりを経て、新しい任地へ着いた。


 知らない道。


 知らない建物。


 知らない人の顔。


 まだ、何がどう動いている場所なのかもわからない。


 だから、最初から決めることは何もなかった。


 まず、見る。


 聞く。


 記録を確かめる。


 それだけだった。


 馬車を降りると、一人の役人が迎えに立っていた。


「調整官殿で、間違いありませんか」


 声には、歓迎でも警戒でもない、ただ確認する響きがあった。


 ライルは、懐から辞令を取り出した。


「ライル・フォン・ヴァルディスです」


 役人が、辞令へ目を通す。


 ライルは、少しだけ間を置いた。


 そして、迷わず言った。


「ええ。只今、着任しました」


完

ここまで『辺境調整官、只今着任』をお読みいただき、本当にありがとうございました。

第118話をもちまして、本作は完結となります。


派手な力で何かを変えるのではなく、

記録を残し、仕組みを整え、誰かがいなくなったあとも続いていくものをつくる。


そんな主人公の物語を、最後まで書き切ることができました。

ここまでライルたちの歩みを見届けてくださった皆さまに、心より感謝いたします。


もし最後まで読んで感じたことや、印象に残った場面などがありましたら、

感想で一言でも聞かせていただけると、とても嬉しいです。


改めまして、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

また別の物語でお会いできましたら幸いです。

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