第百十五話「変わる方の、記録」
着任四百六十一日目、朝。
監査室からの正式便が届いた。
これまでより、さらに厚かった。
ロイドが受領記録を残し、封を切る。
「広域照合の、最終まとめだそうです」
「件数は」
ミラが尋ねた。
「出ています」
ロイドが読み上げる。
——確認者署名の欠落・記録の一部欠落等、比較対象となった記載不備案件、合計八件。
——うち二件はガルダ・フェルンで確認済みの案件。残る六件は本局側の広域照合で新たに確認。
「八件」
ライルが繰り返した。
「十には、届きませんでした」
「はい」
ロイドが答えた。
「地域名は、この便にも記載がありません」
「今後も」
「開示するかどうかは、監査室の判断に委ねられています」
ロイドが言った。
「ガルダ側から、開示を求める照会は出しません」
「はい」
ライルは頷いた。
「知りたい気持ちはあります。ですが、知る必要があるかどうかは、別です」
「新たに見つかった六件の案件は」
ミラが尋ねた。
「今、どうなっているんでしょうか」
「わかりません」
ライルが答えた。
「必要な所管で、それぞれ個別に確認されることになります」
「ガルダのような形で」
「同じ形とは限りません」
ライルは言った。
「土地が違えば、事情も違います。同じ答えを、他の土地に当てはめません」
ロイドが、続きを読む。
——本件を受け、内政調整局として、以下の運用改善を実施する。
——一、死亡・退任等の重要な人事記載には、根拠書類番号または確定通知番号の記載を必須とする。
——二、根拠が確認できない場合の暫定表記(「確認待ち」等)の運用を、全地域で統一の様式により徹底する。
部屋が、静かになった。
「二つだけ、ですか」
ミラが言った。
「もっと、大きな改革になるかと思っていました」
「二つで、十分なのかもしれません」
ライルが答えた。
「根拠を書く。書けない時は、書けないと書く。それだけのことが、徹底されていなかった、ということです」
「当たり前のことに、聞こえます」
ミラが言った。
「当たり前のことほど」
ライルが答えた。
「忙しい時、急いでいる時に、抜け落ちます」
「うちも、そうでしたか」
「うちも、そうでした」
ライルは頷いた。
「最初から、できていたわけではありません。一つずつ、直してきただけです」
「ガルダの、事務手順書と」
ロイドが言った。
「似ている考え方ですね」
「似ています」
ライルは頷いた。
「ですが、うちの手順がそのまま採用された、とは書かれていません」
「参考にした、とも」
「書かれていません」
ライルは、正確に答えた。
「書かれていないことを、書かれていることにはしません」
ロイドが、続きの一文を見つけた。
——なお、本件の照合作業において、ガルダ執務所が実践してきた「事実・伝聞・推測を明確に区分する記録様式」が、複数の照合作業者から参考として言及されたとの報告がある。
「言及、とだけ」
ミラが言った。
「はい」
ロイドが答えた。
「採用したとも、標準にするとも、書かれていません」
「それで、十分です」
ライルが言った。
「誰かの役に立ったかもしれない、というところまでで」
「それだけでも」
ミラが言った。
「悪くない話だと思います」
「悪くはありません」
ライルは頷いた。
「ただ、悪くないことと、大きな成果であることは、別です」
昼前、アルノからの私信が届いた。
訪問の予告ではない。
短い文面だった。
——正式便に書かれた範囲で、十分だと思う。記録の書き方が誰かの仕事を少しでも確かにするなら、それでいい。誰かの名を冠した制度にする必要もない。
——それ以上のことは、私信では書かない。
「アルノ様らしいですね」
ミラが言った。
「はい」
ライルが答えた。
「正式便と私信の役割を、混ぜない方です」
午後、ダグラスが顔を出した。
「広域の件、片づいたと聞きました」
「片づきました」
ライルは答えた。
「運用変更は、二点に絞られました」
「二つで、足りますか」
「わかりません」
「ですが、今できることは、それだけでした」
ダグラスは頷いた。
「それだけのことが、ずっとできていなかった、ということですね」
「はい」
ライルは答えた。
夕方、カイが水路の見回り記録を届けに来た。
「遠くの話、片づいたんですか」
「片づきました」
ライルは答えた。
「ガルダのやり方が、少しだけ、他の場所でも使われたようです」
「偉いことですか」
「偉いことだとは、思いません」
ライルは、静かに答えた。
「いつも通りのことを、いつも通りにやっていただけです」
カイは、少し笑った。
「それでいいなら、俺たちにもできそうですね」
「できます」
ライルは頷いた。
「もう、やっています」
カイは、水路の方へ戻っていった。
夕刻、ヴェクが官倉の点検記録を届けに来た。
「変わりありません」
「ありがとうございます」
ロイドが受け取り、日付を入れる。
全地域向けの運用変更が通知された日にも、官倉の記録は一行で終わる。
その一行の積み重ねこそが、遠くの土地でも参照された記録様式そのものだった。
夜、ロイドが二欄整理の紙を見つめていた。
「あの方の生死・失踪理由。残るのは、これだけです」
「はい」
ライルは答えた。
「ですが、今日、閉じるべきものが、もう一つあります」
「ダグラスさんと、ベルクさんの、処遇ですか」
「はい」
ライルは言った。
「印の話も、赴任の話も、広域の話も、片づきました。ガルダの中で、まだ動いていないのは、そこだけです」
「監査室からの通知は」
「まだ、届いていません」
ライルは答えた。
「ですが、届いた時に、すぐ動けるようにしておきます」
夜、ライルは手帳を開いた。
——監査室より広域照合の最終まとめ。比較対象となった記載不備案件は合計八件(既知二件、新規六件)。発生地域の全体像・地域名は非開示のまま。改革内容は、根拠書類番号の必須化と、暫定表記運用の全地域統一という二点に絞られる。
——ガルダの記録様式が、複数の照合作業で参考として言及されたが、正式な標準採用や制度化には至っていない。アルノの私信は、正式便の範囲を越える新情報を含めない。
——広域の課題が一段落したことで、制度・処遇面でガルダ側に残るのは、ダグラス・ベルクの処遇となった。
最後に、もう一行。
——大きな話にしない。今日も、それだけを守った。
手帳を閉じた。
窓の外、水路の音が、いつもと同じ速さで流れていた。
遠くの土地で、記録の書き方が、少しだけ変わったらしい。
それだけで、今日は十分だった。
誰の名前も、そこには残らない。
それでいい、とライルは思った。
残るべきは、名前ではなく、書き方の方だった。
ロイドが、明かりを一つ落とした。
「明日は、ダグラスさんとベルクさんの通知が届くかもしれません」
「はい」
ライルは答えた。
「届いた時に、動けるようにしておきます」
執務所の窓に、月明かりだけが残った。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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