第百十四話「二つの、計算」
着任四百五十八日目、朝。
監査室からの正式便が届いた。
ロイドが受領記録を残し、封を切る。
「ライル様の、着任時の人事記録です」
「印の話ではなく」
ライルが確認した。
「はい」
ロイドが答えた。
「こちらは、辞令を出した側の記録です」
中の紙を読み上げる。
——着任四百五十八日前、前任調整官の任期満了に伴い、ガルダ担当調整官の後任選定が開始。
——通常の欠員補充手続きにより、希望申告者の名簿から選定。
——希望申告者のうち、ガルダを含む辺境農村地域への赴任希望を明示していたのはライル・フォン・ヴァルディス一名。
部屋が、静かになった。
「辺境農村地域を明示して希望したのは、ライル様だけだった」
ミラが言った。
「特別な選考ではなかった、ということですか」
「はい」
ロイドが答えた。
「希望する者が一人しかいなければ、選考そのものが、形だけのものになります」
「私の申告が、そのまま記録に残っている」
ライルが、確認するように言った。
「はい」
ロイドが答えた。
「その申告記録も、同じ便に含まれています」
もう一枚の紙を置く。
——申告者ライル・フォン・ヴァルディス。希望任地:辺境農村地域。理由欄:現地での実務経験を積みたいため。
「理由欄は、それだけですか」
ミラが尋ねた。
「それだけです」
ロイドが答えた。
「特別な事情も、指名も、書かれていません」
ライルは、しばらくその一文を見た。
「私の認識どおり、通常の手続きで決まったんですね」
「はい」
ロイドが答えた。
「上位機関からの指名も、特定の人物からの推薦も、記録には一切ありません」
「では」
ライルが言った。
「誰がガルダへの人事を決めたのか、という問いは」
「これで、閉じられます」
ロイドが答えた。
「通常の手続きの中で、通常通りに決まった。それだけです」
「辞令書の印は」
ミラが尋ねた。
「これと、関係しますか」
「しません」
ライルは、はっきり言った。
「印は、ガルダという場所に、以前からついていたものです。人事を決めた手続きとは、別の経路です」
「二つの問いが」
ロイドが言った。
「最後まで、別々のままでしたね」
「はい」
ライルは頷いた。
「誰が印を付けたか。誰が人事を決めたか。この二つを、一つにはしません」
「以前から、そう仰っていましたね」
ミラが言った。
「同じ問いに見えて、別の問いだと」
「はい」
ライルは頷いた。
「今日、その通りだったと、記録の上でも確かめられました」
「一つにまとめた方が、話としては、わかりやすいかもしれません」
ロイドが言った。
「わかりやすさより」
ライルが答えた。
「本当にそうだったかどうかの方が、大事です」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「拍子抜け、しませんか」
ミラが、少し遠慮がちに尋ねた。
「拍子抜け」
「もっと、大きな理由があるのかと」
ライルは、少し考えた。
「拍子抜けは、しません」
「そうですか」
「大きな理由がなかったことが、今日、確かめられました」
ライルは言った。
「それは、拍子抜けではなく、確認です」
「派手な答えより」
ロイドが言った。
「地味な答えの方が、確かめるのに時間がかかることもあります」
「今回は」
ミラが尋ねた。
「早かった方ですか」
「早かったです」
ロイドが答えた。
「探すものが、最初から一枚の紙で足りたので」
ライルは、小さく頷いた。
「複雑な答えを、無理に探さなくてよかった、ということですね」
ロイドが、静かに紙を重ねた。
「では、この記録は」
「そのまま、綴じてください」
ライルは答えた。
「大きな意味を、後から付け足しません」
昼過ぎ、カイが水路の見回り記録を届けに来た。
「印の話、終わったんですか」
「終わりました」
ライルは答えた。
「私がここへ来た理由も、一緒にです」
「何かわかったんですか」
「わかりました」
ライルは言った。
「普通の手続きで、決まっていただけでした」
「普通、ですか」
カイは、少し意外そうな顔をした。
「もっと、裏があるのかと思っていました」
「私も、裏があると考えたことは、なかったわけではありません」
ライルは答えた。
「ですが、記録にないものを、あることにはしません」
「それで、いいんですか」
「いいです」
ライルは、はっきり言った。
「普通だったとわかることも、一つの答えです」
カイは、少し考えてから頷いた。
「そういうものですね、ここは」
水路の方へ戻っていった。
午後、ライルは一人、手帳の古い頁を読み返した。
着任初日、帳簿を開いた日のことが書いてある。
あの日から、四百五十八日。
多くのことが起きた。
だが、ここへ来た理由そのものは、今日確かめた紙一枚と、変わっていなかった。
辺境の実務を、自分の目で見たかった。
それだけだった。
その理由の奥に、もっと別のものがあることを、ライル自身は知っている。
だが、それは、今日の記録には書かない。
記録に書けるのは、確かめられたことだけだ。
確かめられないことを、確かめられたことの隣に並べれば、両方の重さが、わからなくなる。
だから、今日は、ここまでにする。
今日、記録に残せるのは、申告書に書かれた一文だけだ。
誰かに計算されて送られたのではない。
自分の計算で、ここへ来た。
その事実だけを、静かに確かめた。
夕方、ダグラスが官倉の在庫記録を届けに来た。
「印の件、片づいたと聞きました」
「片づきました」
ライルは答えた。
「私がここへ来た理由も、含めてです」
「大きな話でしたか」
「いいえ」
ライルは、少し笑った。
「小さな話でした。ですが、小さいことが、今日わかったこと自体は、悪くありません」
ダグラスは、頷いた。
「小さい話の方が、信じられることもあります」
「はい」
ライルは答えた。
夕方、ヴェクが官倉の点検記録を届けに来た。
「変わりありません」
「ありがとうございます」
ロイドが受け取り、日付を入れる。
長く残っていた問いが一つ閉じた日にも、官倉の記録は一行で終わる。
夜、ロイドが二欄整理の紙を広げた。
左欄に、新しい一行を加える。
——ライルのガルダ赴任の人事上の経緯:通常の欠員補充手続きにより決定。希望申告者はライル一名のみ。特別な指名・推薦は記録上確認されず。辞令書余白印とは別経路の決定であることを確認。
右欄からは、その問いが消える。
「これで」
ミラが言った。
「二つ、閉じましたね」
「はい」
ライルは答えた。
ロイドが、残った項目を確認した。
——あの方の実際の生死・失踪理由。
それだけが、残っていた。
「残るのは」
ロイドが言った。
「一つだけです」
「はい」
ライルは、その一行を、しばらく見つめた。
「一つだけ、残りました」
夜、ライルは手帳を開いた。
——監査室より、着任時の人事記録が届く。通常の欠員補充手続きにより、希望申告者の中からライル一名が選定されたことが確認された。特別な指名・推薦を示す記録はなし。
——辞令書余白印(ヴェルナーが留意地域ガルダに対して押印)と、人事上の決定(通常の欠員補充手続き)は、別々の経路で進んだことが最終的に確認された。二つを一つの「計算」として統合しない。
——帝都では左遷とも見られたガルダ赴任について、人事上の特別な指名・誘導は確認されなかった。志願したという自分の選択と、辞令余白印の保全実務は別の経路だった。
最後に、もう一行。
——核心の問いのうち、残るのは一つだけになった。あの方が、どこで、どうなったのか。それだけが、まだ、答えを持たない。
手帳を閉じた。
窓の外、水路の音が、いつもと同じ速さで流れていた。
二つの計算は、最後まで、別々のものだった。
一つは、誰かの手続きの積み重ね。
もう一つは、自分の意志だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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