第百十三話「印が、示していたもの」
着任四百五十六日目、朝。
ロイドが、昨夜見つけた名前を机に置いた。
「確認できました」
「誰ですか」
ライルが尋ねた。
「ヴェルナー、とあります」
ロイドが答えた。
「当時の地方文書保全監督官です。ライル様の辞令が発せられた時期、この職にあったのは、この人物一人だけです」
ライルは、しばらくその名を見た。
「他の記録にも、出てきますか」
「出てきます」
ロイドが答えた。
「別の地域の辞令にも、同じ時期、同じ職掌として署名が残っています」
「今回、私の辞令だけを、特別に扱ったわけではない」
「はい」
ロイドは頷いた。
「通常の職務として、複数の辞令に同じ印を押していたようです」
「では」
ライルが言った。
「本人に、確かめられますか」
「そこが」
ロイドが、初めて言葉を濁した。
「難しいところです」
午後、監査室から返答が届いた。
ロイドが読み上げる。
——ヴェルナーは五年前に退官。
——現在の所在は、本局の記録では確認できず。
——退官後の連絡先は登録されておらず、追跡の対象ともなっていない。
「五年前」
ライルが繰り返した。
「私の着任より、前ですね」
「はい」
ロイドが答えた。
「本人が語る形での確認は、今のところ、できません」
部屋が、静かになった。
「監査室は、これで終わりにしますか」
ロイドが尋ねた。
「終わりにはしません」
ライルが答えた。
「本人に確かめられなくても、記録から言えることは、まだ残っています」
「たとえば」
「なぜ、この印が押されたか、です」
ライルは言った。
「押した理由がわかれば、押した人がいなくても、答えに近づけます」
「人がいなくても」
ミラが、受付の合間に顔を出し、そう呟いた。
「答えに、近づけるんですね」
「近づけます」
ライルは答えた。
「人を追うことと、理由を追うことは、別の道です」
「うちも、そうでしたね」
ロイドが言った。
「タイスさんの時も、あの方の時も」
「はい」
ライルは頷いた。
「人が見つからなくても、理由の輪郭までは、記録から追えることがあります」
「退官の理由は」
ライルが尋ねた。
「記録にありません」
ロイドが答えた。
「年齢によるものか、他に理由があったのかは、わかりません」
「深く追いますか」
「追いません」
ライルは、迷わず答えた。
「本人の引退の理由は、今回の問いとは別のことです」
「では」
ライルが言った。
「本人以外の記録から、できる限りのことを確かめます」
「はい」
ロイドが頷いた。
二人で、旧い官制の記録をもう一度並べた。
辞令、任免簿、地域ごとの報告書。
「ここに、気になる一文があります」
ロイドが、古い一覧表を指した。
「地方文書保全に関する留意地域一覧、とあります」
「留意地域」
「はい」
ロイドが読み上げる。
——ガルダ。要保全継続。旧調整官事案、未解決。
「あの方の、事案です」
ライルが、静かに言った。
「はい」
ロイドが答えた。
「あの方が姿を消した後、この地域は『留意地域』として記録され続けていたようです」
「いつまで」
「解除の記載が、ありません」
ロイドが答えた。
「解除されないまま、今日まで続いていた可能性があります」
「解除の手続きは」
ライルが尋ねた。
「誰かが、明確に決めるものですか」
「本来は」
ロイドが答えた。
「事案の解決を確認した上で、担当部署が解除を記録するはずです」
「あの方の事案は」
「解決していません」
ロイドは、はっきり言った。
「今も、解決していません」
「では、留意地域のままだった」
「はい」
「誰かが忘れていたから、ではなく」
ライルが言った。
「解除できる状態に、一度もならなかったから」
「その可能性が、高いです」
ロイドが頷いた。
ライルは、しばらく紙を見た。
ロイドが、同じ簿冊に挟まれていた旧い運用要領を開いた。
「辞令に押す場合の扱いも、残っています」
——留意地域へ新任者を置く場合、辞令書余白に保全照合印を付す。
——当該印は人事選定を示すものではなく、その地域の旧記録を本局控え・別置写しとの照合対象として扱うことを示す。
ライルは、その二行をもう一度読んだ。
「これで、印の用途まで言えます」
「はい」
ロイドが答えた。
「旧資料にあった、原本を残すこと、比較写しを分けること、別経路でも確認すること。その運用と、辞令上の印が、ここで具体的につながります」
「ただし」
「印そのものを、あらゆる文書で共通の『保存印』とは呼びません」
ライルは頷いた。
「今回確かめられたのは、辞令書に押された場合の用途です」
「では、私の辞令に印がついたのは」
「私が、選ばれたからではなく」
ロイドが、先に言葉を継いだ。
「ガルダという場所が、まだ『留意地域』のままだったからです」
「新しい調整官が来るたび、同じ印がつく」
「その可能性が高いです」
ロイドが答えた。
「ヴェルナー本人が、意図してライル様を選んだ、という記録は、どこにもありません」
「留意地域だから、機械的に処理された」
ライルは、繰り返した。
「それだけ、ということですか」
「今、記録から言えるのは、そこまでです」
ロイドが答えた。
ライルは、しばらく黙っていた。
それから、静かに息を吐いた。
「選ばれし者では、なかった」
「はい」
「がっかり、しますか」
ロイドが尋ねた。
「いいえ」
ライルは、迷わず答えた。
「それでも、私がここへ来た理由は、変わりません」
「はい」
「私が来たのは、印があったからでも、誰かに選ばれたからでもありません」
ライルは、はっきり言った。
「私自身が、来ると決めたからです」
ロイドは、それ以上何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
しばらくして、ライルが続けた。
「印がなくても、私は来ていました」
「はい」
「印があったから、特別な使命を背負わされていた、とも思いません」
「はい」
ロイドが答えた。
「記録の上でも、そう読めます」
「記録が、そう言ってくれるなら」
ライルは、少しだけ笑った。
「それで、十分です」
「ヴェルナーという人については」
ライルが尋ねた。
「これ以上、追いますか」
「本人の消息を追う照会は、出しません」
ライルは答えた。
「留意地域一覧を書いたのが誰かも、今は、追いません」
「なぜですか」
「あの方の事案そのものが、まだ解けていないからです」
ライルは言った。
「留意地域の由来を追うことは、あの方の謎を追うことと、同じ入り口に立つことになります」
「それは」
「今日の話とは、別にします」
ライルは、はっきり線を引いた。
「印の用途は、今日で、わかる範囲までわかりました」
ロイドが、二欄整理の紙を広げた。
左欄に、新しい一行を加える。
——辞令書余白印:旧運用要領に基づく保全照合印。留意地域へ新任者を置く際、その地域の旧記録を本局控え・別置写しとの照合対象として扱うことを示す。当時の押印権者は地方文書保全監督官ヴェルナー。ライル個人の選定を示す印ではない。本人による直接確認は、退官・所在不明のため不可。
右欄からは、その一行が消える。
「これで」
ロイドが尋ねた。
「一つ、閉じますね」
「はい」
ライルは答えた。
「一つ、閉じます」
夕方、ミラが受付を終えて戻ってきた。
「印の話、進みましたか」
「進みました」
ライルは答えた。
「私に向けられた印ではなかった、ということが、わかりました」
「では、誰に」
「ガルダという場所に、です」
ミラは、少し考えた。
「場所に印がつくことも、あるんですね」
「あるようです」
ライルは頷いた。
「人だけが、印をつけられるわけではありません」
夕刻、ヴェクが官倉の点検記録を届けに来た。
「変わりありません」
「ありがとうございます」
ロイドが受け取り、日付を入れる。
印の主に名前がついた日にも、官倉の記録は一行で終わる。
夜、ライルは手帳を開いた。
——辞令書余白印を押していた職掌「地方文書保全監督官」の在任者名がヴェルナーと判明。同時期、他地域の辞令にも同一人物の署名が確認され、ライルの辞令だけが特別に扱われたわけではないことが明確になった。
——旧「留意地域一覧」に、ガルダが「要保全継続、旧調整官事案、未解決」として記載され、解除記録なし。旧運用要領により、留意地域への新任辞令には保全照合印を付すことを確認。ライルの辞令の余白印は、本人の選定ではなく、ガルダの旧記録を別系統で照合対象とするための規定上の処理だったと判断する。
——ヴェルナー本人は五年前に退官、所在不明。直接確認には至らない。追跡照会は行わない。
最後に、もう一行。
——選ばれし者ではなかった。それでも、来ると決めたのは、自分だった。
手帳を閉じた。
窓の外、水路の音が、いつもと同じ速さで流れていた。
印の主に、名前がついた。
だが、その名前は、もう、どこにもいなかった。
名前を追って辿り着いた先にいたのは、一人の人間ではなく、解除されないまま残った「留意」という言葉だった。
誰か一人の意図ではなく、未解決である限り解除されない手続きが、七、八年をかけてここまで残っていた。
それもまた、記録の力の、もう一つの形だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




