第百十二話「余白に、戻る」
着任四百五十五日目、朝。
内政調整局からの正式便が届いた。
アルノが担当した旧資料照合の結果が、監査室経由で送られてきた。
ロイドが受領記録を残し、封を切る。
「旧資料との照合結果、だそうです」
「詳しく」
ライルが言った。
ロイドが読み上げる。
——辞令書余白印と同系統の意匠を持つ辞令、複数確認。
——地域は少なくとも三か所。年代は同一ではなく、古いものは三十年以上前、新しいものは十数年前。
——いずれも、外縁の曲線・中央の空き・下部の短い折れという主要三特徴が一致。
部屋が静かになった。
「三十年以上」
ミラが言った。
「私が生まれるより前です」
「はい」
ロイドが答えた。
「ライル様の辞令だけの話では、なかったようです」
「三地域というのは」
ライルが尋ねた。
「離れた場所ですか」
「はい」
ロイドが答えた。
「隣り合った地域ではありません。帝国の中でも、離れた三か所です」
「離れた場所で、同じ印を、同じ形で押せる」
ミラが言った。
「一人の人間が、何度も出向いたわけでは、なさそうですね」
「それも、まだわかりません」
ライルが答えた。
「一人が異動しながら押し続けた可能性も、複数の人間が同じ権限を持っていた可能性も、両方残ります」
「決めつけないんですね」
ミラが言った。
「決めつけません」
ライルは答えた。
「今、決める理由がありません」
ライルは、しばらく紙を見た。
「では、あの印は」
「私一人に向けられたものではない、ということです」
ライルは、静かに言った。
「もっと前から、繰り返し使われてきた印です」
「安心しますか」
ロイドが尋ねた。
「安心、というより」
ライルは、少し考えた。
「軽くなります。少なくとも、誰かが私だけを選んで印をつけた、という話ではなくなりました」
正式便には、続きがあった。
——この印を押す権限を持っていた職掌についても、断片的だが記録が残っている。詳細は追って調べる。
「押せる人が、決まっていた」
ミラが言った。
「はい」
ライルが答えた。
「誰にでも押せる印なら、意味がありません」
「限られた人にしか押せないからこそ」
ロイドが続けた。
「押されたこと自体が、意味を持ちます」
「では、次は、その職掌を探します」
「どこから探しますか」
ミラが尋ねた。
「今の官制からは、出てきません」
ライルが答えた。
「印そのものが、旧いものだからです」
「昔の官制を、遡るということですね」
「はい」
ライルは頷いた。
「今の名前で探しても、見つからないものがあります」
午後、ロイドが古い官制の記録を書庫から運び出した。
「内政調整局の、旧い部署編成です」
「今の編成とは、違いますか」
「かなり、違います」
ロイドが答えた。
「名前が変わった部署も、なくなった部署もあります」
三人で、記録を追う。
文書の保全・別置・照合という言葉が出てくる部署を、一つずつ拾い上げていく。
「これです」
ロイドが、一つの記載を指した。
「『地方文書保全監督官』。旧い官制にだけ載っています」
「監督官」
ライルが繰り返した。
「係ではなく」
「はい」
ロイドが答えた。
「文書の保全運用そのものを監督する立場だったようです。今の編成には、この名前は残っていません」
「エルン・ハルデの、地方文書保全係と」
ミラが、少し声を落として言った。
「似ていますね」
部屋の空気が、一瞬だけ緊張した。
「似ています」
ライルは、はっきり答えた。
「ですが、時代が違います。監督官は旧い官制、係は現在の編成です」
「別の部署、ということですか」
「別の部署です」
ロイドが続けた。
「同じ『文書保全』という言葉を使っているだけで、組織としてのつながりを示す記録は、今のところ一つもありません」
「似ている名前が出てくるたび」
ミラが言った。
「つなげたくなります」
「はい」
ライルは頷いた。
「ですが、つなげません。似ている名前と、同じ組織であることは、別です」
ロイドが、二欄整理にその一行を書き添えた。
——「地方文書保全監督官」(旧官制)と「地方文書保全係」(現行)は、名称の類似のみ確認。組織的な連続性を示す記録なし。以後、両者は別項目として扱う。
「監督官という役職は、いつまで続いたんですか」
ミラが尋ねた。
「官制からは、消えています」
ロイドが答えた。
「いつ、なぜ廃止されたかまでは、この記録だけではわかりません」
「廃止された理由も」
「わかりません」
ライルが答えた。
「わからないことを、無理に埋めません」
「では」
ミラが尋ねた。
「次は、その監督官が、誰だったか」
「はい」
ライルは答えた。
「ライルの辞令が出された時期に、この職にあった人物を探します」
昼過ぎ、カイが水路の見回り記録を届けに来た。
「今度は、印の話ですか」
「はい」
ライルは答えた。
「あなたを囲んだ話とは、別のものです」
「別、ですか」
「はい」
ライルは、はっきり言った。
「今のところ、つながりを示すものは、何もありません」
「そういうものですか」
カイは、少し考えてから頷いた。
「一つずつ、別の話なんですね」
「そうです」
「わかりました」
水路の方へ戻っていった。
夕方、ヴェクが官倉の点検記録を届けに来た。
「変わりはありません」
「変わりがないことも、記録です」
ライルはそう答え、受領の印を押した。
旧い官制を追う日にも、官倉の俵は今日も同じ数だけ並んでいる。
午後遅く、ダグラスが顔を出した。
「印の方、進んでいますか」
「はい」
ライルが答えた。
「あなたが証言した『鍵』とは、別の道具立てです」
「別の道具立て」
ダグラスは、その言葉を繰り返した。
「同じ執務所で、似たような形の謎が、いくつも見つかりますね」
「似た形に見えても」
ライルが言った。
「今回は、まだ、あなたの話とはつながっていません」
「わかっています」
ダグラスは頷いた。
「つなげたくなる気持ちは、私にも覚えがあります。だからこそ、慎重になっているんでしょう」
「はい」
ライルは答えた。
ダグラスは、それ以上尋ねず、いつもの仕事へ戻っていった。
夜、ロイドが任免簿を持ち出し、蝋燭の下で頁をめくり続けた。
「見つかりますか」
ライルが尋ねた。
「時間はかかります」
ロイドは答えた。
「旧い官制の簿冊は、今の簿冊ほど整理されていません」
「急ぎません」
ライルは言った。
「見つかるまで、見つからないままにしておきます」
頁をめくる音だけが、しばらく続いた。
ミラが、蝋燭の芯を整えながら「手伝います」と申し出た。
「今日は、私一人で構いません」
ロイドが答えた。
「目が慣れた記録です。二人で見ると、かえって遅くなることがあります」
「わかりました」
ミラは頷き、先に休むことにした。
しばらくして、ロイドの手が止まった。
「名前らしきものが、一つ」
「誰ですか」
「まだ、確定ではありません」
ロイドは、慎重に答えた。
「明日、他の記録と照らし合わせてから、お伝えします」
ライルは頷いた。
「その方がいいです」
夜、ライルは手帳を開いた。
——内政調整局の正式便により、辞令書余白印と同系統の意匠を持つ辞令が、少なくとも三地域、三十年以上にわたって確認されたとの報告。この印は、ライル個人に向けられたものではなく、制度的に繰り返し使われてきた運用の一部である可能性が高い。
——この印を押す権限を持っていた職掌として、旧官制の「地方文書保全監督官」が浮上。現行の「地方文書保全係」(エルン・ハルデの所属先)とは、名称の類似のみで組織的な連続性は確認されず、別項目として扱う。
——監督官の在任者について、ロイドが任免簿から候補を一件発見。確定は明日以降。
もう一行、書き足す。
——「地方文書保全監督官」と「地方文書保全係」。似た言葉が、また一つ出てきた。だが、似ていることと、同じであることは、これまでも、これからも、別のことだ。
最後に、もう一行。
——似ている名前が出てくるたび、つなげたくなる。だからこそ、今日も、つなげなかった。
手帳を閉じた。
窓の外、水路の音が、いつも通り続いていた。
印の主は、まだ名前を持たない。
だが、輪郭は、少しずつ、形になり始めている。
「鍵」の時と、同じ順番だった。
まず、仕組みが見える。
名前は、その後についてくる。
それでいい、とライルは思った。
急いで名前を先に置けば、仕組みの方を見誤る。
順番を、間違えない。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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