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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第十一章:引き継がれた、もの

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第百十話「役目の、名前」

 着任四百四十八日目、朝。


 執務所には、三人しかいなかった。


 ライル、ロイド、ダグラス。


 ミラは受付に、ヴェクは官倉に、それぞれいつも通りの持ち場についている。


 ロイドが、頁の見出しを読み上げた。


「ダグラス氏証言・自発的申告(続)」


「はい」


 ダグラスは、椅子に座ったまま、まっすぐ前を見ていた。


「始めてください」


 ライルが言った。


「急ぎません。ゆっくりで、構いません」


 ダグラスは、一度、目を閉じた。


 それから、静かに話し始めた。


「前調整官の、そのまた前の頃です」


「あの方の時代ですね」


 ロイドが確認する。


「はい」


「私は、あの人たちに、見張り役を頼まれました。誰が、いつ、何を確認しに来たか。それを伝えるだけの、簡単な役目でした」


「以前、証言された通りですね」


「はい」


 ダグラスは頷いた。


「今日、話すのは、その先です」


 部屋が、少し静かになった。


「頼まれた時、断れなかったんですか」


 ロイドが尋ねた。


「断れなくは、なかったと思います」


 ダグラスは、正直に答えた。


「断らなかった、が正しいです。当時の私には、断る理由より、続ける理由の方が、多く見えました」


「理由とは」


「小さな金と、小さな立場です」


 ダグラスは、感情を込めずに言った。


「立派な理由ではありません。だから、今まで、口にしませんでした」


「今日は、口にします」


「はい」


 ダグラスは、ライルを見た。


「立派でない理由を、立派でないまま、記録してください」


 ライルは頷いた。


「そのまま、記録します」


「私の役目には、呼び名がありました」


「呼び名」


 ライルが、言葉を確かめるように繰り返した。


「はい」


「その呼び名は」


 ダグラスは、しばらく黙っていた。


 それから、はっきりと言った。


「鍵、です」


 誰も、すぐには何も言わなかった。


 ロイドが先に口を開いた。


「確認します」


「はい」


「その『鍵』という呼び名は、施錠棚の物理鍵を持つ者、という意味だったんですか」


「そこまでは、知りません」


 ダグラスは首を振った。


「私は、そう呼ばれていました。ですが、なぜその言葉だったのかを、説明されたことはありません」


 ライルが頷いた。


「では、由来は決めません」


「はい」


「物理鍵を扱えたことと、呼称『鍵』だったことは、別に残します」


「お願いします」


 ダグラスは、少しだけ息を吐いた。


「私が頼まれていたのは、誰が来たかを見ることでした。誰が、いつ、何を確かめたか。必要なら、どの記録に触れたか。それを伝える」


「以前の証言にある、見張り役ですね」


「はい」


「それだけですか」


「いいえ」


 ダグラスは答えた。


「時には、紙を動かすようにも頼まれました」


「古い書類を下げてほしい、と言われたことがある」


「はい」


「報告の写しや、台帳の一部を移した」


「はい」


 ダグラスの声は、震えていなかった。


「私にとっては、それも『鍵』として頼まれた仕事でした」


「『鍵』という呼び名の意味そのものが、紙を動かす者だった、と言えますか」


 ライルが尋ねた。


「そこまでは言えません」


 ダグラスは答えた。


「私がそう呼ばれ、そういう仕事も頼まれていた。それだけです」


「わかりました」


 ライルは頷いた。


「呼び名の意味と、あなたが実際にしたことを分けます」


 ロイドが証言記録へ書き込む。


 ——ダグラス氏、自身が当時「鍵」と呼ばれていたと証言。


 ——役目として、来訪者・確認行為の報告、および一部記録の移動を依頼された経験あり。


 ——呼称「鍵」の由来・一般的な職務範囲は本人も知らず。


「『鍵は、もう三年目だ』——あの言葉は」


 ライルが尋ねた。


 ダグラスは、今度は迷わなかった。


「私を指して言われた言葉です」


「『三年目』が何を数えていたかは」


「私には、その役目についてからの年数だと思えました」


「思えた」


「はい」


 ダグラスは頷いた。


「そう理解していました。ただ、相手に確かめたわけではありません」


「なら」


 ロイドが言った。


「直接聞いた言葉と、当時の理解を分けます」


「お願いします」


 古い記録も机に置かれた。


 ——「鍵、二年目。交代未了」。


「この旧資料の『鍵』も、ダグラスさんと同じ役目だと言えますか」


 ロイドが尋ねた。


「言えません」


 ライルが答えた。


「今日確定したのは、ガルダでダグラスさんが『鍵』と呼ばれていたことです」


「旧資料の二年目と、私の三年目は」


 ダグラスが言った。


「似ています」


「はい」


「ですが、同じ仕組みだったかは」


「まだ、わかりません」


 ライルは答えた。


 ダグラスは頷いた。


「それで構いません」


 しばらく沈黙があった。


 ライルが尋ねた。


「もう一つ、確認します。あの方は、『鍵』でしたか」


「私が知る限り、違います」


 ダグラスは答えた。


「あの方は、私たちが見ていた側です」


「タイスは」


「わかりません」


 ダグラスは首を振った。


「タイスが『鍵』と呼ばれていたところを、私は聞いたことがありません」


「では」


 ライルが言った。


「『あの方は鍵ではない』とも、『タイスは鍵ではない』とも、事実としては確定させません」


 ダグラスが顔を上げた。


「私の証言では、あの方は見られる側だった。タイスについては知らない。そこまでですね」


「はい」


「お願いします」


 ロイドが、新しい二欄整理を作った。


 左欄。


 ——ガルダにおける呼称「鍵」:少なくとも当時、ダグラス本人を指して使用されたことを本人証言により確認。


 ——ダグラスが「鍵」と呼ばれていた期間、来訪者・確認行為の報告、一部記録の移動を依頼された経験あり。


 右欄。


 ——呼称「鍵」の由来。


 ——「鍵」が一般に何を意味する役目だったか。


 ——旧資料「鍵、二年目。交代未了」とガルダ用例の関係。


 ——タイスと呼称「鍵」の関係。


「一つは、閉じました」


 ロイドが言った。


「『三年目』が誰を指したのか」


「はい」


 ライルが答えた。


「ただし、『鍵』という言葉そのものは、まだ全部は閉じていません」


「それでいいです」


 ダグラスが言った。


「今日、私が話せるのは、ここまでです」


 ライルは頷いた。


「十分です」


 ダグラスが、ゆっくりと立ち上がった。


「一つ、お願いがあります」


「何でしょう」


「今日の記録を、以前の証言と、離さずに置いてください。都合よく、後から埋もれさせたくありません」


「わかりました」


 ロイドが答えた。


「同じ綴りに、続きとして残します」


「ありがとうございます」


 ロイドが、静かにダグラスを見た。


「随分、昔から、あなたを見てきました」


「はい」


「あの頃のあなたと、今のあなたが、同じ人だとは、まだ、少し驚きます」


「私もです」


 ダグラスは、小さく笑った。


「一番驚いているのは、私自身かもしれません」


 ダグラスは、深く一礼した。


 それから、いつもの顔に戻り、窓の外へ目をやった。


「水路を、見てきます」


「はい」


 ライルは、それだけ答えた。


 引き止めなかった。


 ダグラスは、静かに扉を出ていった。


 その背中は、急いでいなかった。


 逃げる足取りでも、崩れる足取りでもなかった。


 長く持っていた荷物を、また一つ下ろした人間の、いつもの歩き方だった。


 夜、ライルは手帳を開いた。


 ——ダグラスが正式証言として、自身が当時「鍵」と呼ばれていたことを開示。「鍵は、もう三年目だ」は自分を指した言葉だと証言。ただし「三年目」が何を数えた表現かは本人の当時理解にとどまり、呼称「鍵」の由来・一般的な役目の範囲は本人も知らない。


 ——物理鍵の取扱者と呼称「鍵」は別項目のまま維持。あの方についてはダグラスの認識上「見られる側」。タイスが「鍵」と呼ばれていた事実をダグラスは知らない。いずれも、無関係とまでは確定しない。


 ——ダグラス本人の希望により、本証言は以前の証言と同一の綴りに続けて保管する。


 もう一行、書き足す。


 ——立派でない理由で始まった役目が、長い年月の後、記録の上で名前を持った。良し悪しの評価は加えない。事実だけを残す。


 最後に、もう一行。


 ——ガルダで「三年目」と呼ばれた「鍵」がダグラス本人だったことは閉じた。残るのは、呼称の由来・一般的意味と、旧資料の用例との関係。


 手帳を閉じた。


 窓の外、水路の音が、いつもと同じ速さで流れていた。


 その音の中に、ダグラスの足音が混じっているような気がしたが、確かめには行かなかった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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