第百十話「役目の、名前」
着任四百四十八日目、朝。
執務所には、三人しかいなかった。
ライル、ロイド、ダグラス。
ミラは受付に、ヴェクは官倉に、それぞれいつも通りの持ち場についている。
ロイドが、頁の見出しを読み上げた。
「ダグラス氏証言・自発的申告(続)」
「はい」
ダグラスは、椅子に座ったまま、まっすぐ前を見ていた。
「始めてください」
ライルが言った。
「急ぎません。ゆっくりで、構いません」
ダグラスは、一度、目を閉じた。
それから、静かに話し始めた。
「前調整官の、そのまた前の頃です」
「あの方の時代ですね」
ロイドが確認する。
「はい」
「私は、あの人たちに、見張り役を頼まれました。誰が、いつ、何を確認しに来たか。それを伝えるだけの、簡単な役目でした」
「以前、証言された通りですね」
「はい」
ダグラスは頷いた。
「今日、話すのは、その先です」
部屋が、少し静かになった。
「頼まれた時、断れなかったんですか」
ロイドが尋ねた。
「断れなくは、なかったと思います」
ダグラスは、正直に答えた。
「断らなかった、が正しいです。当時の私には、断る理由より、続ける理由の方が、多く見えました」
「理由とは」
「小さな金と、小さな立場です」
ダグラスは、感情を込めずに言った。
「立派な理由ではありません。だから、今まで、口にしませんでした」
「今日は、口にします」
「はい」
ダグラスは、ライルを見た。
「立派でない理由を、立派でないまま、記録してください」
ライルは頷いた。
「そのまま、記録します」
「私の役目には、呼び名がありました」
「呼び名」
ライルが、言葉を確かめるように繰り返した。
「はい」
「その呼び名は」
ダグラスは、しばらく黙っていた。
それから、はっきりと言った。
「鍵、です」
誰も、すぐには何も言わなかった。
ロイドが先に口を開いた。
「確認します」
「はい」
「その『鍵』という呼び名は、施錠棚の物理鍵を持つ者、という意味だったんですか」
「そこまでは、知りません」
ダグラスは首を振った。
「私は、そう呼ばれていました。ですが、なぜその言葉だったのかを、説明されたことはありません」
ライルが頷いた。
「では、由来は決めません」
「はい」
「物理鍵を扱えたことと、呼称『鍵』だったことは、別に残します」
「お願いします」
ダグラスは、少しだけ息を吐いた。
「私が頼まれていたのは、誰が来たかを見ることでした。誰が、いつ、何を確かめたか。必要なら、どの記録に触れたか。それを伝える」
「以前の証言にある、見張り役ですね」
「はい」
「それだけですか」
「いいえ」
ダグラスは答えた。
「時には、紙を動かすようにも頼まれました」
「古い書類を下げてほしい、と言われたことがある」
「はい」
「報告の写しや、台帳の一部を移した」
「はい」
ダグラスの声は、震えていなかった。
「私にとっては、それも『鍵』として頼まれた仕事でした」
「『鍵』という呼び名の意味そのものが、紙を動かす者だった、と言えますか」
ライルが尋ねた。
「そこまでは言えません」
ダグラスは答えた。
「私がそう呼ばれ、そういう仕事も頼まれていた。それだけです」
「わかりました」
ライルは頷いた。
「呼び名の意味と、あなたが実際にしたことを分けます」
ロイドが証言記録へ書き込む。
——ダグラス氏、自身が当時「鍵」と呼ばれていたと証言。
——役目として、来訪者・確認行為の報告、および一部記録の移動を依頼された経験あり。
——呼称「鍵」の由来・一般的な職務範囲は本人も知らず。
「『鍵は、もう三年目だ』——あの言葉は」
ライルが尋ねた。
ダグラスは、今度は迷わなかった。
「私を指して言われた言葉です」
「『三年目』が何を数えていたかは」
「私には、その役目についてからの年数だと思えました」
「思えた」
「はい」
ダグラスは頷いた。
「そう理解していました。ただ、相手に確かめたわけではありません」
「なら」
ロイドが言った。
「直接聞いた言葉と、当時の理解を分けます」
「お願いします」
古い記録も机に置かれた。
——「鍵、二年目。交代未了」。
「この旧資料の『鍵』も、ダグラスさんと同じ役目だと言えますか」
ロイドが尋ねた。
「言えません」
ライルが答えた。
「今日確定したのは、ガルダでダグラスさんが『鍵』と呼ばれていたことです」
「旧資料の二年目と、私の三年目は」
ダグラスが言った。
「似ています」
「はい」
「ですが、同じ仕組みだったかは」
「まだ、わかりません」
ライルは答えた。
ダグラスは頷いた。
「それで構いません」
しばらく沈黙があった。
ライルが尋ねた。
「もう一つ、確認します。あの方は、『鍵』でしたか」
「私が知る限り、違います」
ダグラスは答えた。
「あの方は、私たちが見ていた側です」
「タイスは」
「わかりません」
ダグラスは首を振った。
「タイスが『鍵』と呼ばれていたところを、私は聞いたことがありません」
「では」
ライルが言った。
「『あの方は鍵ではない』とも、『タイスは鍵ではない』とも、事実としては確定させません」
ダグラスが顔を上げた。
「私の証言では、あの方は見られる側だった。タイスについては知らない。そこまでですね」
「はい」
「お願いします」
ロイドが、新しい二欄整理を作った。
左欄。
——ガルダにおける呼称「鍵」:少なくとも当時、ダグラス本人を指して使用されたことを本人証言により確認。
——ダグラスが「鍵」と呼ばれていた期間、来訪者・確認行為の報告、一部記録の移動を依頼された経験あり。
右欄。
——呼称「鍵」の由来。
——「鍵」が一般に何を意味する役目だったか。
——旧資料「鍵、二年目。交代未了」とガルダ用例の関係。
——タイスと呼称「鍵」の関係。
「一つは、閉じました」
ロイドが言った。
「『三年目』が誰を指したのか」
「はい」
ライルが答えた。
「ただし、『鍵』という言葉そのものは、まだ全部は閉じていません」
「それでいいです」
ダグラスが言った。
「今日、私が話せるのは、ここまでです」
ライルは頷いた。
「十分です」
ダグラスが、ゆっくりと立ち上がった。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「今日の記録を、以前の証言と、離さずに置いてください。都合よく、後から埋もれさせたくありません」
「わかりました」
ロイドが答えた。
「同じ綴りに、続きとして残します」
「ありがとうございます」
ロイドが、静かにダグラスを見た。
「随分、昔から、あなたを見てきました」
「はい」
「あの頃のあなたと、今のあなたが、同じ人だとは、まだ、少し驚きます」
「私もです」
ダグラスは、小さく笑った。
「一番驚いているのは、私自身かもしれません」
ダグラスは、深く一礼した。
それから、いつもの顔に戻り、窓の外へ目をやった。
「水路を、見てきます」
「はい」
ライルは、それだけ答えた。
引き止めなかった。
ダグラスは、静かに扉を出ていった。
その背中は、急いでいなかった。
逃げる足取りでも、崩れる足取りでもなかった。
長く持っていた荷物を、また一つ下ろした人間の、いつもの歩き方だった。
夜、ライルは手帳を開いた。
——ダグラスが正式証言として、自身が当時「鍵」と呼ばれていたことを開示。「鍵は、もう三年目だ」は自分を指した言葉だと証言。ただし「三年目」が何を数えた表現かは本人の当時理解にとどまり、呼称「鍵」の由来・一般的な役目の範囲は本人も知らない。
——物理鍵の取扱者と呼称「鍵」は別項目のまま維持。あの方についてはダグラスの認識上「見られる側」。タイスが「鍵」と呼ばれていた事実をダグラスは知らない。いずれも、無関係とまでは確定しない。
——ダグラス本人の希望により、本証言は以前の証言と同一の綴りに続けて保管する。
もう一行、書き足す。
——立派でない理由で始まった役目が、長い年月の後、記録の上で名前を持った。良し悪しの評価は加えない。事実だけを残す。
最後に、もう一行。
——ガルダで「三年目」と呼ばれた「鍵」がダグラス本人だったことは閉じた。残るのは、呼称の由来・一般的意味と、旧資料の用例との関係。
手帳を閉じた。
窓の外、水路の音が、いつもと同じ速さで流れていた。
その音の中に、ダグラスの足音が混じっているような気がしたが、確かめには行かなかった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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