第百九話「まだ、閉じていない三つ」
着任四百四十七日目、朝。
ロイドが、新しい帳面を机に広げた。
古い二欄整理から、まだ答えの出ていない三つだけを、そのまま書き写す。
——あの方の実際の生死・失踪理由。
——「鍵」の具体的意味と、各用例の関係。
——辞令書余白印の具体的用途。
「閉じた項目は、もう写しません」
ロイドが言った。
「閉じていない項目だけを、新しい表紙に」
「はい」
ライルは頷いた。
「一つの区切りが終わったら、次の帳面へ移す。いつもの通りです」
第八十七話の年度締めから、この作法は変わっていない。
増えた帳面も、閉じた帳面も、すべて同じ棚に、同じ形で並んでいる。
ミラが、閉じた三項目(第五十六話襲撃事件、北西貴族家本家、旧書記役タイス)の旧帳面に紙帯をかけた。
「これは、もう動かしませんか」
「新しい事実が出るまでは」
ライルが答えた。
「動かしません」
「動かさないことも、記録の形の一つですね」
ミラが言った。
「はい」
ロイドが頷いた。
「消すことと、動かさないことは、別です」
旧帳面は、施錠棚の一番奥へ収められた。
木箱の隣だった。
どちらも、もう謎の中心ではない。
だが、どちらも、なかったことにはされていない。
午前、監査室からの正式便が届いた。
ロイドが受領記録を残し、封を切る。
——エルン・ハルデの件、正式審理への移送手続き完了。
——本件に関連し、広域照合で確認された記載不備への制度上の対応について、内政調整局内で検討が進められている。詳細は追って通知する。
それだけだった。
「詳細は追って、ですか」
ミラが言った。
「はい」
ロイドが答えた。
「今は、それ以上、書かれていません」
「大きな話になりそうですか」
「わかりません」
ライルが言った。
「わかるまでは、大きいとも小さいとも書きません」
いつもの姿勢だった。
「エルンの件は、これで、こちらの手を離れましたね」
ロイドが言った。
「はい」
ライルは答えた。
「離れた後のことは、離れた後のこととして、監査室が進めます」
「気にはなりますか」
「気にはなります」
ライルは、少し前にも同じ言葉を使ったことを思い出しながら答えた。
「ですが、気になることと、手を出すことは、別です」
ロイドが、静かにその一行を記録した。
昼前、ライルが三つの項目を机に並べた。
「順番を、決めます」
「あの方から、ではないんですか」
ミラが尋ねた。
「あの方は、外部照会が絡みます。監査室の返答を、また待つことになります」
ライルが答えた。
「辞令書の印も、旧資料との照合はアルノ様の手元にあります」
「『鍵』は」
「ガルダの中だけで、確かめられる部分が残っています」
ライルは言った。
「待たなくていい方から、片づけます」
「あの方の生死は、後回しになりますね」
ミラが確認した。
「後回しというより」
ライルは、言葉を選んだ。
「今、確かめられないものを、無理に先へ進めない、という順番です」
「辞令書の印は」
「アルノ様の手元にある旧資料との照合が終わってからです。急いで催促しません」
「では、『鍵』が最初なのは」
「答えが近いからではなく」
ライルは言った。
「答えを、外に頼らずに、ここで出せるからです」
ロイドが頷いた。
「合理的です」
「合理的、というだけでもありません」
ライルは、少し間を置いた。
「一番、確かめられる材料を持っている人が、ここにいるからです」
部屋の空気が、静かに変わった。
ダグラスが、机の端に立ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、口を開いた。
「今度は、私から言います」
「はい」
ライルが答えた。
「ガルダの中だけで、確かめられることがあります」
ダグラスは、まっすぐライルを見た。
「私が、まだ記録にしていない話です」
「今、話しますか」
「明日にします」
ダグラスは首を振った。
「今日のうちに、順番を、自分の中で並べておきたいので」
「わかりました」
ライルは頷いた。
「無理に急ぎません」
「急がせないでいただけると、助かります」
ミラが、そっとロイドの方を見た。
ロイドは何も言わず、筆を置いていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
ライルが尋ねた。
「今日、言おうと決めたのは、何かきっかけがありますか」
ダグラスは、しばらく考えた。
「エルンという人の話を聞いて」
「はい」
「一つの確認不足が、公式記録になって、その記録を守ろうとする次の行為が生まれる——あなたが、そう仰いました」
「言いました」
「私の話も、似た形をしているかもしれません」
ダグラスは、静かに言った。
「一つ、確かめずにきたことがあります。確かめれば、今の自分の立場が、また少し変わるかもしれません。それでも、確かめないままにする理由が、今日はもう、見つかりませんでした」
「わかりました」
ライルは、それ以上尋ねなかった。
ダグラスは、それだけ言って一礼し、いつもの仕事へ戻った。
午後、ヴェクが官倉の点検記録を届けに来た。
「変わりはありません」
「変わりがないことも、記録です」
ライルはそう答え、受領の印を押した。
昼過ぎ、カイが水路の見回りついでに顔を出した。
「監査室の件、片づいたんですか」
「片づいた部分と、片づいていない部分があります」
ライルは答えた。
「片づいていない部分は」
「ここからは、ガルダの中の話です」
「俺には、関係ない話ですか」
「あなたに直接害が及ぶ話ではありません」
ライルは、はっきり言った。
「ですが、この執務所の話ではあります」
カイは、それ以上尋ねず、頷いた。
「わかりました」
水路の方へ戻っていった。
入れ違いに、ゲオルグが顔を出した。
「北側の水路、今年も持ちそうです」
「補修の跡は」
「今のところ、問題ありません」
「ありがとうございます」
ロイドが受領記録に書き添えた。
「古い謎を三つ抱えている日も、水路は今年も、同じように流れていますね」
ゲオルグが、少し笑って言った。
「そういう日の方が、多いです」
ライルは答えた。
「謎の日の方が、少ないくらいです」
ゲオルグが帰った後、ミラが二欄整理の新しい帳面を見つめていた。
「この二欄整理を、ずっと見てきました」
ミラが言った。
「答えが出ることと、答えが出ないことの、両方を」
「今日は、どちらですか」
ロイドが尋ねた。
「まだ、どちらでもありません」
ミラは、少し笑った。
「でも、明日には、どちらかになりますね」
「はい」
ロイドは頷いた。
「明日には、どちらかになります」
夕方、ロイドが証言記録の新しい頁を用意した。
「明日、正式な証言として、記録しますか」
「はい」
ライルは答えた。
「ダグラスさんが、自分の言葉で話せる形で」
「立ち会いは」
「私と、あなたです」
ライルは言った。
「今回は、それで十分だと思います」
「ミラは」
「呼びません」
ライルは、少し考えてから答えた。
「人数の多さが、話しやすさを削ることもあります」
「ミラには、そう伝えておきます」
ロイドは頷き、頁の見出しに「ダグラス氏証言・自発的申告(続)」とだけ書いた。
以前、同じ見出しで残した頁が、第七十三話の証言だった。
あの日から、百六十日以上が経っている。
ロイドは、その事実を、口には出さなかった。
夜、ダグラスは水路沿いを一人で歩いた。
誰にも、声をかけなかった。
声をかけられもしなかった。
水の音だけが、いつも通り続いていた。
立ち止まり、しばらく水面を見た。
三年目、という言葉を、口の中だけで繰り返した。
明日、その言葉が誰を指していたのかを、自分の言葉で残す。
今度は、曖昧なままにしない。
怖くはなかった。
ただ、長い間、そうしないでいたことの重さだけが、まだ肩にあった。
執務所へ戻り、いつも通り施錠棚の確認を済ませ、帰っていった。
夜、ライルは一人、執務所に残った。
制度対応、という言葉を、もう一度見た。
前世でも、似た言葉を、何度も見た。
一つの不備が見つかった時、個人を罰して終わらせるか、仕組みそのものを見直すかで、その後の十年が変わる。
今回、監査室がどちらを選ぶかは、まだわからない。
わからないことは、わからないと書く。
それだけを、今日も守る。
ライルは手帳を開いた。
——監査室より、エルン・ハルデの正式審理移送完了の報告。広域照合の記載不備への制度対応は検討中とのみ通知される。
——残る三項目(あの方の生死、「鍵」の意味、辞令書余白印)のうち、「鍵」から着手する方針を決定。外部照会に依存しない範囲であるため。
——ダグラスが自ら、「鍵」について自分自身に関わる証言をする意志を示す。明日、正式な証言として記録する。
最後に、もう一行。
——急がせない。急ぐ理由が、こちらにはない。
手帳を閉じた。
窓の外、水路の音が、いつもと同じ速さで流れていた。
閉じた項目は、静かに帳面の底へ収まった。
残った三つは、まだ、開いたままだった。
そのうちの一つに、明日、初めて具体的な指す先が入る。
ダグラスは知っている。
まだ、記録だけが知らない。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




