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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第十一章:引き継がれた、もの

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第百九話「まだ、閉じていない三つ」

 着任四百四十七日目、朝。


 ロイドが、新しい帳面を机に広げた。


 古い二欄整理から、まだ答えの出ていない三つだけを、そのまま書き写す。


 ——あの方の実際の生死・失踪理由。


 ——「鍵」の具体的意味と、各用例の関係。


 ——辞令書余白印の具体的用途。


「閉じた項目は、もう写しません」


 ロイドが言った。


「閉じていない項目だけを、新しい表紙に」


「はい」


 ライルは頷いた。


「一つの区切りが終わったら、次の帳面へ移す。いつもの通りです」


 第八十七話の年度締めから、この作法は変わっていない。


 増えた帳面も、閉じた帳面も、すべて同じ棚に、同じ形で並んでいる。


 ミラが、閉じた三項目(第五十六話襲撃事件、北西貴族家本家、旧書記役タイス)の旧帳面に紙帯をかけた。


「これは、もう動かしませんか」


「新しい事実が出るまでは」


 ライルが答えた。


「動かしません」


「動かさないことも、記録の形の一つですね」


 ミラが言った。


「はい」


 ロイドが頷いた。


「消すことと、動かさないことは、別です」


 旧帳面は、施錠棚の一番奥へ収められた。


 木箱の隣だった。


 どちらも、もう謎の中心ではない。


 だが、どちらも、なかったことにはされていない。


 午前、監査室からの正式便が届いた。


 ロイドが受領記録を残し、封を切る。


 ——エルン・ハルデの件、正式審理への移送手続き完了。


 ——本件に関連し、広域照合で確認された記載不備への制度上の対応について、内政調整局内で検討が進められている。詳細は追って通知する。


 それだけだった。


「詳細は追って、ですか」


 ミラが言った。


「はい」


 ロイドが答えた。


「今は、それ以上、書かれていません」


「大きな話になりそうですか」


「わかりません」


 ライルが言った。


「わかるまでは、大きいとも小さいとも書きません」


 いつもの姿勢だった。


「エルンの件は、これで、こちらの手を離れましたね」


 ロイドが言った。


「はい」


 ライルは答えた。


「離れた後のことは、離れた後のこととして、監査室が進めます」


「気にはなりますか」


「気にはなります」


 ライルは、少し前にも同じ言葉を使ったことを思い出しながら答えた。


「ですが、気になることと、手を出すことは、別です」


 ロイドが、静かにその一行を記録した。


 昼前、ライルが三つの項目を机に並べた。


「順番を、決めます」


「あの方から、ではないんですか」


 ミラが尋ねた。


「あの方は、外部照会が絡みます。監査室の返答を、また待つことになります」


 ライルが答えた。


「辞令書の印も、旧資料との照合はアルノ様の手元にあります」


「『鍵』は」


「ガルダの中だけで、確かめられる部分が残っています」


 ライルは言った。


「待たなくていい方から、片づけます」


「あの方の生死は、後回しになりますね」


 ミラが確認した。


「後回しというより」


 ライルは、言葉を選んだ。


「今、確かめられないものを、無理に先へ進めない、という順番です」


「辞令書の印は」


「アルノ様の手元にある旧資料との照合が終わってからです。急いで催促しません」


「では、『鍵』が最初なのは」


「答えが近いからではなく」


 ライルは言った。


「答えを、外に頼らずに、ここで出せるからです」


 ロイドが頷いた。


「合理的です」


「合理的、というだけでもありません」


 ライルは、少し間を置いた。


「一番、確かめられる材料を持っている人が、ここにいるからです」


 部屋の空気が、静かに変わった。


 ダグラスが、机の端に立ったまま、しばらく動かなかった。


 やがて、口を開いた。


「今度は、私から言います」


「はい」


 ライルが答えた。


「ガルダの中だけで、確かめられることがあります」


 ダグラスは、まっすぐライルを見た。


「私が、まだ記録にしていない話です」


「今、話しますか」


「明日にします」


 ダグラスは首を振った。


「今日のうちに、順番を、自分の中で並べておきたいので」


「わかりました」


 ライルは頷いた。


「無理に急ぎません」


「急がせないでいただけると、助かります」


 ミラが、そっとロイドの方を見た。


 ロイドは何も言わず、筆を置いていた。


「一つ、聞いてもいいですか」


 ライルが尋ねた。


「今日、言おうと決めたのは、何かきっかけがありますか」


 ダグラスは、しばらく考えた。


「エルンという人の話を聞いて」


「はい」


「一つの確認不足が、公式記録になって、その記録を守ろうとする次の行為が生まれる——あなたが、そう仰いました」


「言いました」


「私の話も、似た形をしているかもしれません」


 ダグラスは、静かに言った。


「一つ、確かめずにきたことがあります。確かめれば、今の自分の立場が、また少し変わるかもしれません。それでも、確かめないままにする理由が、今日はもう、見つかりませんでした」


「わかりました」


 ライルは、それ以上尋ねなかった。


 ダグラスは、それだけ言って一礼し、いつもの仕事へ戻った。


 午後、ヴェクが官倉の点検記録を届けに来た。


「変わりはありません」


「変わりがないことも、記録です」


 ライルはそう答え、受領の印を押した。


 昼過ぎ、カイが水路の見回りついでに顔を出した。


「監査室の件、片づいたんですか」


「片づいた部分と、片づいていない部分があります」


 ライルは答えた。


「片づいていない部分は」


「ここからは、ガルダの中の話です」


「俺には、関係ない話ですか」


「あなたに直接害が及ぶ話ではありません」


 ライルは、はっきり言った。


「ですが、この執務所の話ではあります」


 カイは、それ以上尋ねず、頷いた。


「わかりました」


 水路の方へ戻っていった。


 入れ違いに、ゲオルグが顔を出した。


「北側の水路、今年も持ちそうです」


「補修の跡は」


「今のところ、問題ありません」


「ありがとうございます」


 ロイドが受領記録に書き添えた。


「古い謎を三つ抱えている日も、水路は今年も、同じように流れていますね」


 ゲオルグが、少し笑って言った。


「そういう日の方が、多いです」


 ライルは答えた。


「謎の日の方が、少ないくらいです」


 ゲオルグが帰った後、ミラが二欄整理の新しい帳面を見つめていた。


「この二欄整理を、ずっと見てきました」


 ミラが言った。


「答えが出ることと、答えが出ないことの、両方を」


「今日は、どちらですか」


 ロイドが尋ねた。


「まだ、どちらでもありません」


 ミラは、少し笑った。


「でも、明日には、どちらかになりますね」


「はい」


 ロイドは頷いた。


「明日には、どちらかになります」


 夕方、ロイドが証言記録の新しい頁を用意した。


「明日、正式な証言として、記録しますか」


「はい」


 ライルは答えた。


「ダグラスさんが、自分の言葉で話せる形で」


「立ち会いは」


「私と、あなたです」


 ライルは言った。


「今回は、それで十分だと思います」


「ミラは」


「呼びません」


 ライルは、少し考えてから答えた。


「人数の多さが、話しやすさを削ることもあります」


「ミラには、そう伝えておきます」


 ロイドは頷き、頁の見出しに「ダグラス氏証言・自発的申告(続)」とだけ書いた。


 以前、同じ見出しで残した頁が、第七十三話の証言だった。


 あの日から、百六十日以上が経っている。


 ロイドは、その事実を、口には出さなかった。


 夜、ダグラスは水路沿いを一人で歩いた。


 誰にも、声をかけなかった。


 声をかけられもしなかった。


 水の音だけが、いつも通り続いていた。


 立ち止まり、しばらく水面を見た。


 三年目、という言葉を、口の中だけで繰り返した。


 明日、その言葉が誰を指していたのかを、自分の言葉で残す。


 今度は、曖昧なままにしない。


 怖くはなかった。


 ただ、長い間、そうしないでいたことの重さだけが、まだ肩にあった。


 執務所へ戻り、いつも通り施錠棚の確認を済ませ、帰っていった。


 夜、ライルは一人、執務所に残った。


 制度対応、という言葉を、もう一度見た。


 前世でも、似た言葉を、何度も見た。


 一つの不備が見つかった時、個人を罰して終わらせるか、仕組みそのものを見直すかで、その後の十年が変わる。


 今回、監査室がどちらを選ぶかは、まだわからない。


 わからないことは、わからないと書く。


 それだけを、今日も守る。


 ライルは手帳を開いた。


 ——監査室より、エルン・ハルデの正式審理移送完了の報告。広域照合の記載不備への制度対応は検討中とのみ通知される。


 ——残る三項目(あの方の生死、「鍵」の意味、辞令書余白印)のうち、「鍵」から着手する方針を決定。外部照会に依存しない範囲であるため。


 ——ダグラスが自ら、「鍵」について自分自身に関わる証言をする意志を示す。明日、正式な証言として記録する。


 最後に、もう一行。


 ——急がせない。急ぐ理由が、こちらにはない。


 手帳を閉じた。


 窓の外、水路の音が、いつもと同じ速さで流れていた。


 閉じた項目は、静かに帳面の底へ収まった。


 残った三つは、まだ、開いたままだった。


 そのうちの一つに、明日、初めて具体的な指す先が入る。


 ダグラスは知っている。


 まだ、記録だけが知らない。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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