第百三話「同じ手が、残したもの」
着任四百二十三日目、朝。
木箱は、監査室の許可を受けて開封した時と同じ場所に保管されていた。
封印記録。
開封記録。
再封印記録。
誰が触れたかも、いつ触れたかも、すべて別の紙に残っている。
「比較のための再確認です」
ロイドが言った。
「内容の再解釈ではありません」
「はい」
ライルが答えた。
「今日見るのは、誰が書いたか。それだけです」
ダグラスも、立会人として署名した。
木箱から取り出したのは、あの方の在任時に作られたとみられる比較写し。
原本の一部と照合できる箇所。
削除された頁の前後を写した箇所。
受領記録の番号だけを抜き出した箇所。
これまで、内容は何度も見てきた。
だが、書いた手を確かめる材料が足りなかった。
昨日、タイスの署名済み記録が揃った。
「三点では足りません」
ロイドが言った。
「今日は、五点で見ます」
給金受領署名。
月末締め確認。
来訪記録訂正。
物品受領欄。
旧人事綴りの通常転記。
書いた場面の違う五つを並べる。
その隣に、比較写しを置いた。
ミラが、同じ文字だけを拾って別紙へ写した。
「原」。
「受」。
「三」。
「確」。
そして、「書」。
「似ています」
ミラが言った。
「はい」
ロイドも頷いた。
「ただ、似ているだけでは足りません」
文字の大きさだけでなく、行間。
句読点を置く位置。
訂正する時に、元の文字を消さず、その横へ小さく正しい文字を書く癖。
比較写しには、その癖が何度も出ていた。
ロイドが一つずつ印をつける。
「同一筆者である可能性は、高いと思います」
「昨日より、強いですか」
ライルが尋ねた。
「強いです。筆文字だけではなく、訂正方法まで一致しています」
ライルは、少し考えてから答えた。
「では、そう記録してください」
——木箱内比較写しの作成者は、当時書記役タイスである可能性が高い。署名済み記録五点との筆跡・訂正方法の一致による。
ダグラスは、写しを見たまま動かなかった。
「タイスが、残した」
「可能性が高い、です」
ミラが言った。
「はい」
ダグラスは言い直した。
「可能性が、高い」
その言葉を、しばらく噛みしめるように黙った。
「一つ、見てもらえますか」
ロイドが言った。
比較写しの最終頁。
これまで内容だけを確認し、作成者不明としていた短い注記がある。
——原本との相違、未確認のまま保全。
——死亡確認資料、当方では確認できず。
長い文章ではなかった。
「この注記も」
ミラが、タイスの署名済み記録と見比べる。
「同じ手に見えます」
「私も、そう見ます」
ロイドが答えた。
部屋の空気が、少しだけ変わった。
「人事綴りには、病没と書いた」
ダグラスが言った。
「こちらには、死亡確認資料を確認できないと残した」
「両方とも、タイスが書いた可能性が高い」
ライルが答えた。
「矛盾していますね」
ミラが言った。
「行為としては、そう見えます」
ライルは頷いた。
「ですが、人として矛盾している、とまでは言いません」
「どういう意味ですか」
「公式の綴りには、病没と記入した」
ライルは言った。
「同時に、比較写しには、確認できていないことを残した」
「言われた通り書いたけれど、別に残した」
ミラが言った。
「その可能性はあります」
「自分で病没と判断して、それでも不安になって残した可能性も」
「あります」
ライルは答えた。
「今は、どちらにも決めません」
ダグラスが、ゆっくり息を吐いた。
「少なくとも」
言葉を選ぶ。
「タイスを、消した側だったとだけ考えるのは、難しくなりました」
「はい」
ライルは答えた。
「残した行為が、あります」
ロイドが、時系列表へ二つの項目を追加した。
——人事綴り「病没」記入:タイス筆跡の可能性高。
——木箱内比較写し・「死亡確認資料、当方では確認できず」注記:タイス筆跡の可能性高。
同じ人物の行為として、同じ紙に並ぶ。
ただし、二つの間に因果を示す線は引かなかった。
「タイスさんは、いつガルダを離れたんでしたか」
ミラが尋ねた。
「転出用通行許可証の発行は、翌月十二日です」
ロイドが答えた。
「商業中継地の旅人記録は、その後」
「本人である可能性は高い」
ライルが言った。
「ですが、ここでは別の論点です」
「はい」
ミラは頷いた。
「今日わかったのは、残した人の可能性だけ」
「その通りです」
午後。
ヴェクが官倉の記録を持ってきた。
「補修箇所、異常なしです」
「ありがとうございます」
ロイドが受け取る。
ヴェクは机の上の古い写しには目を向けなかった。
自分が知る必要のない記録には、近づかない。
それも、今の執務所では普通のことになっていた。
夕方、ライルが言った。
「次に確かめるべきことは、一つです」
「タイスが、何を根拠に病没と書いたか」
ロイドが答えた。
「はい」
「木箱の注記には、死亡確認資料を確認できない、とある」
「だからこそです」
ライルは言った。
「確認できていない人間が、なぜ公式綴りには病没と書いたのか」
ダグラスが、視線を落とした。
「誰かに、書けと言われたのか」
「可能性の一つです」
「では、それを探す」
「はい」
ライルは頷いた。
「ただし、『誰かに言われた』と決めて探さない。まず、当時の人事記録が、どの紙から転記される仕組みだったのかを確認します」
夜、ライルは手帳を開いた。
——木箱内比較写しを、タイス署名済み記録五点と照合。筆跡および訂正方法から、作成者がタイスである可能性は高い。
——比較写し末尾の「死亡確認資料、当方では確認できず」注記も同一筆者の可能性高。人事綴りの「病没」記入と併存する。
——タイスが病没を自ら判断したか、指示を受けて転記したかは未確認。次は当時の人事転記手順と根拠書類の流れを確認する。
最後に、もう一行。
——書いた人と、残した人が、同じだった可能性が高い。だからこそ、書いたという事実だけで、その人を決めない。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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