第百二話「書いた人と、決めた人」
着任四百二十二日目、朝。
官倉裏では、レオが補修した石組みを、ヴェクがもう一度確かめていた。
「浮きはありません」
「水を流した後も」
「今のところは」
ヴェクは、点検表に日付を書いた。
直した日だけではなく、直した後も記録する。
その作業は、もう誰かに言われなくても続いていた。
昼前。
執務所の奥の小部屋に、ライル、ロイド、ミラ、ダグラスが集まった。
机の中央には、人事綴りが置かれている。
昨日まで何度も見てきた頁だった。
——病没。
確認者署名なし。
医療記録なし。
埋葬記録なし。
それでも、その一行だけは、何年もの間、公式の記録として残っていた。
「今日は、この一行そのものを見ます」
ライルが言った。
「何が書いてあるか、ではなく」
「誰が書いたか、ですね」
ロイドが答えた。
「はい」
ライルは頷いた。
「ただし、最初に分けておきます」
ミラが筆を取った。
「書いた人と、病没だと決めた人は、同じとは限らない」
「その通りです」
ロイドが、同じ時期の人事綴りを何冊か並べた。
異動。
休職。
復職。
退任。
それぞれの欄には、同じ筆跡が繰り返し現れている。
「この時期、人事綴りへの転記を担当していたのは、当時の書記役です」
「名前は」
ミラが尋ねた。
ロイドは、給金支払い記録を開いた。
在任最終月まで、同じ名が続いている。
——書記役 タイス。
「タイス」
ダグラスが、その名を静かに繰り返した。
「覚えていますか」
ライルが尋ねた。
「名前は」
ダグラスは頷いた。
「ただ、今まで、なるべく名前を口にしないようにしていました」
「なぜですか」
「自分の記憶で、今ある記録を先に決めたくなかったからです」
ライルは、それ以上を聞かなかった。
「では、筆跡を見ます」
ロイドが言った。
給金記録の受領署名。
月末の帳簿締め確認。
来訪記録の訂正欄。
タイス自身の署名が残っている箇所を、まず三つ選ぶ。
そこから、人事綴りの「病没」の一行と比べた。
文字の傾き。
「病」の内側を小さく収める癖。
「没」の最後の払いを短く止める形。
一つずつ、別紙へ写していく。
「同じ筆跡と見て、矛盾しません」
ロイドが言った。
「断定は」
「複数の署名済み記録との比較です。私は、同一筆者である可能性は高いと記録します」
ライルが頷いた。
「それで構いません」
ミラが、二欄整理の新版を作る。
左欄。
——人事綴り「病没」の記入者は、当時の書記役タイスである可能性が高い。
右欄。
——タイスが何を根拠に「病没」と記入したか。
——誰が「病没」とする判断を伝えたか。
「一つ、気になります」
ロイドが言った。
他の人事異動記録を指した。
「通常は、転記の横に、根拠となった書類の番号があります」
退任なら退任届。
異動なら辞令。
死亡なら死亡確認に用いた記録。
番号そのものが、原本の所在へつながる仕組みだった。
「この一行には」
ミラが目を細めた。
「ありません」
「はい」
病没。
その二文字の横だけが、空いていた。
「確認者署名がないだけではなかった」
ダグラスが言った。
「根拠番号も、ない」
「そうです」
ライルは答えた。
「今わかったのは、二つです」
指を一本立てる。
「この一行を書いたのは、タイスである可能性が高い」
もう一本。
「そして、通常なら残るはずの根拠番号がない」
「タイスが、勝手に書いた可能性は」
ミラが尋ねた。
「あります」
ライルは答えた。
「誰かに言われて書いた可能性もあります。別の紙を見たが、その紙が残っていない可能性もある」
「今は、どれも同じ」
「はい」
ライルは頷いた。
「書いた人がわかったからといって、決めた人まで同じにしません」
ダグラスが、人事綴りの頁を見つめていた。
「タイスは、あの方の下で、一番近くで記録を扱っていました」
「それも、事実ですか」
ライルが尋ねた。
「私が見ていた範囲では、です」
「では、証言として残します」
「はい」
ダグラスは頷いた。
「ただ」
少し間を置く。
「この一行を見て、タイスがあの方を消した側だった、と考えるのは、まだ早いと思います」
ライルが顔を上げた。
「理由は」
「以前、木箱から出てきた写しです」
部屋が静かになった。
あの方が残そうとした記録。
原本とは別に作られていた比較用の写し。
誰が作ったのかは、これまで確定していなかった。
ダグラスが言った。
「今なら、筆跡を比べられるのではありませんか」
ロイドが、ゆっくり息を吐いた。
「できます」
「今日、やりますか」
ミラが尋ねた。
ライルは首を振った。
「今日は、ここまでです」
「なぜですか」
「一つわかった直後に、次の答えまで欲しくなるからです」
ライルは言った。
「タイスが病没を書いた。だから、木箱の写しもタイスに違いない。そういう順番にはしません」
ロイドが、人事綴りを閉じた。
「明日、別の比較としてやります」
「はい」
ライルは頷いた。
夕方。
レオが井戸の相談から戻り、受付に短い報告だけを残していった。
「二軒とも、すぐ掘り直す必要はありません。まず、水位を三日見ます」
「三日」
ミラが言った。
「一日だけでは、たまたまかもしれませんから」
「わかりました」
レオは頭を下げ、帰っていった。
一日で決めない。
昔の人事綴りを見ている日にも、同じ考え方が、別の場所で使われていた。
夜、ライルは手帳を開いた。
——人事綴り「あの方・病没」の記入筆跡を、当時書記役タイスの署名済み記録三点と比較。同一筆者である可能性は高い。
——ただし、記入者と判断者は分ける。病没欄には、同時期の他の人事異動記録に存在する根拠書類番号がない。確認者署名もない。タイスが何を根拠に記入したかは未確認。
最後に、もう一行を書き足した。
——明日、木箱に残された比較写しの筆跡を、タイスの記録と別途照合する。今日の結論を、明日の前提にはしない。
手帳を閉じる。
病没と書いた手には、名前がついた。
だが、その手に何を渡したのが誰だったのかは、まだわからない。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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