08 仲直りとお仕置き
お屋敷の食堂で夕食をとっていた私は、モルガナからスープスプーンを向けられ、突拍子もないことを告げられた。
「近々、私の知り合いの夜会へ行くわよ!
自立した淑女になるには、最低限のステップくらいは踏めないとね」
「えっ……?夜会?でも私、ダンスなんて一度も……」
ずっと塔に引きこもっていた私に、社交界の華やかなダンスなんて踊れるはずがない。
青ざめる私を見て、モルガナはニヤリと意味深に笑うと、背後に控えていた燕尾服の彼に視線を送った。
「だったら、彼に教えてもらいなさい。元近衛騎士だし、一通りの宮廷ダンスは叩き込まれているはずよ。ーー頼んだわよ、クロード」
「御意」
クロードはいつもの真面目な顔で、深く一礼した。
◇
その日の深夜。静まり返った図書室には、窓から冷たい月明かりだけが差し込んでいた。
机や椅子を端に寄せ、即席のダンスフロアとなった空間の真ん中で、クロードはいつもと変わらない洗練された執事服のまま、大真面目な顔で私を待っていた。
一人で裏の森に出掛けたあの日、お屋敷に戻った後のクロードの態度はいつもと変わらなかった。けれど、私は罪悪感から彼の顔をまともに見られずにいる。
私は意を決して切り出した。
「……あの、クロード。この前は……助けに来てくれたのに、強く言い過ぎちゃって、ごめんなさい……。本当は、まだ、怒ってる……?」
クロードは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにその顔を和ませた。
「反省されていらっしゃるようなので、もう怒っていませんよ」
恐る恐る顔を上げると、久しぶりに深緑の瞳と真っ直ぐに見つめ合った。
「この前、弱った小鳥のお世話を手伝ってくれたでしょう?そのお礼にサプライズをしたくて。一人で街へ行ったらお姉様に怒られちゃうから……。そしたら前にクロードが、好きな食べ物は旬の果実って言っていたのを思い出したの。お姉様にお酒をあげたときみたいに、クロードにも喜んでほしくて……っ」
クロードがゆっくり距離を詰めて、私の目の前までやってきた。
「私も少し感情的な伝え方になってしまい、配慮が足りませんでした。心配のあまりとはいえ、お嬢様が何の理由もなく無謀なことをなさるはずがないのに、深く反省しております。
……サプライズをしたいという、そのお気持ちだけで十分に嬉しいですよ。本当にありがとうございます」
見慣れないクロードの柔らかい笑顔に、心臓が跳ねる。
「ではお嬢様、早速ダンスの練習を始めましょう。……失礼いたします」
彼が一歩、足を踏み出す。そっと私の腰に大きな手が添えられ、もう片方の手が優しく包み込まれた。
「ーーっ!?」
その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
近い……!近すぎる!
彼の優しい体温が、握り合う手のひらから直に伝わってくる。執事服の生地越しでも分かる、騎士らしいがっしりとした胸板。見上げれば、整った顔立ちと、男らしい喉仏がすぐそこにあった。
「……お嬢様。まずは基本のボックスステップです。私の動きに合わせて、右足から後ろに引いて」
「は、はい……!」
クロードの声が、いつもよりわずかに低く、そして少しだけ震えていることに気づく。
そして、彼の白いシャツから覗く耳の裏が、月光の下でも分かるほど真っ赤に染まっている。
彼はほとんど視線も合わず、己を律するように私の頭の少し上の壁を、恐ろしいほどの目力で凝視していた。
ガチガチに緊張したまま、ぎこちないステップが始まる。
けれど、意識すればするほど、足元がおろそかになるのは当然のことで。
「あーー」
ステップを踏んだ瞬間、私は自分の靴で、彼の革靴を思いきり踏みつけてしまった。
「ご、ごめんなさい……っ!」
焦って足を引こうとした私は、ドレスの裾に足を取られ、派手にバランスを崩した。重力に引かれ、後ろへ倒れそうになったその瞬間、グイッ、と強い力で腕を引かれた。
クロード持ち前の、騎士並みの恐るべき反射神経で、彼は私の身体を自分の胸元へと力強く抱き寄せた。
「っ……!」
ドン、と鈍い音を立てて、私の身体が彼の胸に完全に密着する。
静まり返った図書室に、二人の重なる、荒い吐息だけが響いた。
クロードの胸の奥から、トクトクと速い鼓動が私の鼓膜に伝わってくる。
「……っ、ご、ごめんなさい。痛かった、よね……?」
顔が破裂しそうなほど熱くて、私は消え入るような声で謝りながら、彼の顔を見上げた。
いつもなら「滅相もございません」などとすぐに身を引き、完璧な礼をとる彼だった。
けれど、クロードは私を抱きしめた腕に、ほんの一瞬だけ、ギュッと力を込めた。
ーーほんの数秒間。彼は私を離さず、愛おしさを堪えきれないような、切なげな瞳で私を見つめ返したのだ。
ハッと我に返ったクロードは、慌てて私を解放すると、一歩下がって深く頭を下げた。
「……いいえ。昔、あの塔であなたを助けたときよりも、ずっと……魅力的な女性になられたのだと、実感いたしました」
大真面目な顔のまま、爆弾のような本音を落とす。私の心臓は今度こそ限界を迎え、その夜のダンスレッスンは、強制終了せざるを得なくなったのだった。
◇
強制終了を余儀なくされた、あの初日のダンスレッスン。それから今日まで細々と練習を積み重ね、なんとかボックスステップは形にしてみせた。
だが、正直に言ってクロードが相手だと心臓がうるさいほど高鳴って、これ以上は無理だと半ば悟りの境地に至っている。
そしてついに、夜会当日がやってきた。
自室で慌ただしく身支度を整えている時のこと。
「あ、あれ……? うそ、引っ張っても動かない……っ」
モルガナから夜会用にと譲り受けた、夜空を溶かしたような深い紫色のドレス。その背中のファスナーが生地を噛んで、完全にロックされてしまった。
私はパニックになり、思わず部屋のドアに向かって声を張り上げた。
「クロード!ちょっと入って、手伝ってくれる?」
「失礼いたします、お嬢様。……っ!?」
部屋に入ってきた彼は、私の露わになった背中を見た瞬間、いつも崩さないポーカーフェイスを劇的にこわばらせた。
真面目な彼は、即座に回れ右をして背を向ける。
「お、お嬢様……! 着替えの最中に部屋に呼びつけるなど、はしたないにも程があります。私はモルガナ様を呼んでまいりますので……」
「待って、今すぐなんとかしたいの!
それに、お姉様に言ったら、何してるんだってまた怒られちゃう。少しなら見られても平気だよ!だから、お願い!」
「……平気、ですか」
彼の低い声が、静かな部屋に重く響いた。
ゆっくりと振り返った彼の瞳は、いつもお行儀よく私を見守るものとは、明らかに違っていた。暗く、奥底で怪しい光が灯っているような気がした。
彼は躊躇うことなく私に近づくと、大きな手で私の剥き出しの背中に触れた。
「わっ!? く、くすぐったい……」
「動かないでください、お嬢様。直せなくなります」
冷徹に感じるほどに真面目な声色で話す。
けれど、ファスナーに触れる彼の指先は、わざと私のうなじや背筋をなぞるように甘く這っている気がする。あまりの刺激に背筋がゾクゾクして、逃げようと一歩踏み出した。
しかし、それより早く、彼の長い腕が私の腰を後ろからガッシリと抱きすくめた。
「っ、……え、クロード……?」
「逃がしませんよ。あなたが私を『平気』だなどと、男として見ていない不届きな発言をした『お仕置き』です」
耳元に熱い吐息がかかる。いつも寡黙な彼が、私の肩口に深く顔を近づけ、独占欲を隠そうともせずに低く囁いた。
「私が、普段どれほど理性という化けの皮を被って、あなたに触れたい衝動を抑えてきたか……。そんなに無防備なら、今ここで、一人の男としてお嬢様を美味しく頂いてしまっても、文句は言えませんよね?」
「え、あ……っ」
た……食べられちゃうってどういうこと!?
背中から伝わる彼の体温は熱く、腰をホールドする腕は驚くほどに逞しい。真面目で、機械みたいに完璧だった彼の面影はどこにもなかった。
ぎゅっと目を瞑り、心臓が爆発しそうなほどの緊張感に身をすくめたーーその、直後。
ふ、と腰の力が綺麗に抜けた。
「……ふっ。冗談ですよ、お嬢様」
「え……?」
恐る恐る目を開けると、彼はすでに私からすっと二歩ほど距離を取り、いつものように美しく一礼していた。その口元には、見たこともないような、意地悪で、少しだけ愉しそうな笑みが浮かんでいる。
「ファスナーは今の一瞬で直しておきました。これに懲りたら、次からはもう少し危機感を持って気をつけてくださいね」
「も、もう……っ! 私を揶揄ったの!?」
真っ赤になって怒る私に、彼は何食わぬ顔で「まさか。真面目な忠告でございます」と言ってのける。
そして、いつもの完璧に真面目な表情に戻り、静かに告げた。
「では、モルガナ様がお待ちです。行きましょう」
静かな廊下を進む。
一歩一歩、歩きながら、後ろのクロードのことが気になって仕方ない。
本当に冗談……?
でも、あの時の目、絶対に冗談なんかじゃなかった……!
今もうるさい心臓の音が耳の奥で鳴り響いている。これから、どんな顔で夜会に向かえばいいのかわからない。
私は、彼に完全にペースを握られてしまっていた。




