07 すれ違い
コンコン、とノック音がして扉が開く。
「お嬢様、ご昼食のお時間でございます」
いつも通り完璧なお辞儀で、クロードが入ってきた。
けれど、私は両手を広げてクローゼットに張り付き、動くことができなかった。
不自然に思われてないかしら、と冷や汗が流れる。
なかなか動こうとしない私に、クロードが眉をひそめた。
「……お嬢様、そこで何をされているのですか?」
「な、なんでもないわ。ちょっとクローゼットの建付けが悪くて、私が体で突っ張って直してあげてたの!」
「左様でございますか。……では、そのクローゼットの奥から聞こえる『ピィー』という音は何でしょうか」
「こ、これは私のお腹の虫よ! 最近のお腹の虫は、鳥の鳴き真似が流行っているの!」
クロードは、深く、重いため息をついた。そして、「失礼します」と私を優しく横にのけると、いとも簡単にクローゼットを開けてしまった。
「ああっ……!」
そこには、箱の中に私のショールに包まれた、弱った小鳥がいた。
「ダメ、怒らないで! お庭で震えていて、可哀想だったの。お姉様に見つかったら反対されちゃうかもしれないから、元気になるまで私がここでこっそり育てることにしたの!」
クロードはまたため息をつくと、一度廊下に戻り、湯たんぽやスポーツドリンクを差し出した。
「……怒りなどいたしません。お嬢様がコソコソとお庭の植え込みを覗き込んでいる時から、すべて把握しております。モルガナ様には私から上手く話を通しておきますので、ご安心を」
「えっ……! クロード、最初から知ってたの!?」
「当然です。私の目は、常にお嬢様だけを追っておりますから。さあ、湯たんぽが冷める前にタオルの下に敷いてあげましょう。そして、薄めたスポーツドリンクを飲ませてあげましょう」
クロードに言われたとおり、箱の底に湯たんぽを置き、タオルを敷いた。そこにそっと小鳥を寝かす。それから、薄めたスポーツドリンクをスポイトを使って一滴ずつ小鳥にあげる。
細くて長いクチバシに、少しずつ水滴が吸い込まれていく様子を見て、ほっと一安心する。
「今回は見逃しますが……お嬢様は隠し事が本当に下手ですね。それに、私に黙って、一人で勝手に行動しようとする。その『悪い癖』、いつかたっぷりお仕置きが必要かもしれませんね」
「お、お仕置きって何……!?」
そう尋ねても、クロードは不敵に微笑むだけで、答えてくれない。私は、どうせ大袈裟に言っているだけだろうと、笑って流しておいた。
お昼ご飯を後回しにして、その後も看病を続け、数時間後には、小鳥が箱の中でバタバタと羽ばたき、しっかり立てるようになってきた。
そっと箱ごと外に連れていく。
すると、ピィ!と鳴きながら、小鳥が自力で飛び立っていった。
「元気でねー!」
私はその姿が空に吸い込まれ、見えなくなるまで大きく手を振った。
◇
「クロード、これから部屋にこもって、この本を読み込みたいと思っているの。だから、私が出てくるまで、絶対に入ってこないでね!」
私は、彼に向かって『魔法技術便覧』と書かれた分厚い本を掲げてみせた。
「それと……この前作ってくれたビーフシチューがすごくおいしかったから、お昼に食べたいな……なんて」
怪しまれないよう細心の注意を払いながら、上目遣いで、かつ全力の期待を込めておねだりを繰り出す。
「いいですけれど、これから作るとなると、ご昼食が少し遅くなってしまうかもしれません」
見事に誘導されて困り顔を浮かべる彼に、私は内心でガッツポーズした。
「それは全然大丈夫!じゃあ、楽しみにしてるね!」
私は足早に部屋に戻り、鍵を閉めて一息つく。
よし、これで二時間は稼げた!
カーテンをしっかり閉め、リュックの紐をぎゅっと握り直して、私は慎重に窓から外へと這い出した。
クロードはまだキッチンにいるはずだ。私の部屋は、キッチンから一番離れているから、音さえ立てなければ見つかるはずがない。
庭を横切り、お屋敷の門を無事にすり抜けたところで、張り詰めていた緊張が一気に緩んだ。
「よし、第一段階はクリア!」
今日の目標は、クロードに内緒で裏の森まで行き、今が旬のサルナシの実を収穫してくること!
先日、弱った小鳥のお世話を彼が根気強く手伝ってくれた。そのお礼として、どうしてもサプライズでプレゼントをしたかったのだ。
本当は街へ行って素敵な贈り物を選びたかったけれど、私が一人で出歩けば、今度はモルガナにどれほど怒られるか分かったものではない。
どうしたものかと頭を悩ませていたとき、以前クロードが「好きな食べ物は、旬の果実です」と、少し照れくさそうに教えてくれたのを思い出した。
この前、お姉様にお酒をプレゼントしたときみたいに、クロードもびっくりして、それから、あの綺麗な顔を綻ばせて喜んでくれるといいな……
そんな期待に胸を膨らませながら、私は足取りも軽く、緑深い森に向かって歩いていった。
「あれ……?実が全然ない。もしかして、誰かすでに採っていっちゃったのかな……」
サルナシを求めて森の奥へと進むうち、木々の隙間から遠くの街並みが見え始めていた。
さすがにこれ以上進むのは危ない。そろそろ引き返そうと後ろを振り返った、その時だった。
「おいおい、お嬢ちゃん。一人でこんなところを歩いて、迷子か?」
「上等な服着てさ。俺たちがいいところに案内してやろうか?」
茂みをかき分けて現れたのは、見るからにガラの悪い二人組の男だった。
男が手に下げた袋からは、たくさんの小ぶりな緑色の実ーーサルナシが覗いている。
下卑た笑みを浮かべた二人が、じりじりと距離を詰めてきた。
「や、やめて……来ないでっ!」
後ずさりした背中が、固い木の幹に当たった。もう逃げられない。男の汚れた手が、私の肩に伸びるーー恐怖でぎゅっと目を瞑った、その瞬間だった。
「ーーその手を退けろ」
地を這うような、聞いたこともないほど冷酷な低音が森の空気を凍らせた。
恐る恐る目を開けると、そこには、激しく肩で息をするクロードが立っていた。
いつも寸分の乱れもない黒髪は額に張り付き、ネクタイは歪んでいる。
何より、基本的に無表情なその端正な顔には、見たこともないような剥き出しの怒りが張り付いていた。
「あ? なんだお前は?」
「すっこんでろ!」
男が罵り声を上げ、クロードに殴りかかろうとした。
しかし、次の瞬間、男の巨体が地面に叩きつけられていた。何が起きたのか分からなかった。
クロードが男の腕を掴んだかと思った瞬間には、すでに勝負が決していた。
「ぐああああっ!? 手、手が折れる……っ!」
「私の主に、気安く触れようとしたその手だ。ここでへし折って差し上げても良いのですが?」
クロードはもう一人の男を冷徹な一瞥で硬直させると、凍りつくような声で告げた。
「今すぐ消えろ。さもなくば、二度と日の光を拝めぬ体に仕立て上げてやる」
本物の殺気にあてられた男たちは、サルナシの袋を放り出し、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
そして、静寂が戻る。クロードは深く一つため息をつくと、歪んだネクタイを直すこともせず、私の方を振り返った。
「クロード、私……」
駆け寄ろうとした私を見て、クロードの端正な顔が、怒りと、それ以上の安堵で歪む。
「お嬢様……っ!」
クロードは大股で詰め寄ると、私の肩を両手で強く掴んだ。服越しでも伝わるその指先が、微かに震えている。
「……どれほど、探したとお思いですか。あなたに何かあれば、私は……!」
いつも寡黙な彼が、初めて声を荒らげた。しかし、彼はすぐにハッと我に返ったように唇を噛む。
クロードは乱れた髪を完璧に整え、ネクタイも寸分の狂いなく結び直した。そして、いつもの冷徹で、無表情な完璧な執事に戻っている。
「……失礼いたしました。お怪我がなくて何よりです。さあ、屋敷へ戻りましょう。……歩きながら、たっぷりとお話を伺いますから」
けれど、差し出された彼の大きな手は、いつもよりずっと熱く、そしてまだ小さく震えていた。
私は地面に転がった緑色の実を一瞬だけ見つめ、その手を握って歩き出した。
二人の間に満ちた空気は、凍りつくように冷たかった。クロードは遠くの方をじっと見つめたまま、一言も発しようとしない。
耐えかねた私は、片方の手でぎゅっと拳を握り、蚊の鳴くような声で切り出した。
「あの……クロード。助けてくれて、ありがとう」
クロードはゆっくりと首を巡らせ、私を見た。その瞳は、いつもお行儀よく私を映すそれとは違い、光を失ったガラス玉のように冷ややかだった。
「お嬢様」
いつもより一段低い声が、耳元に響く。
「……ご自分が、どれほど愚かで無謀なことをされたか、お分かりですか」
「う、……っ」
『愚か』なんて言葉、今までのクロードなら絶対に口にしなかった。
あまりの冷徹さに胸がズキリと痛む。でも、私も怖かった反動と、せっかくのサプライズを台無しにされた悲しさで、つい言葉が尖ってしまった。
「そこまで言わなくてもいいじゃない! 裏の森はもともと一人で行っていいってーー」
「お言葉ですが、お嬢様」
クロードは私の言葉を冷たく遮った。
「私があの場へ駆けつけた時、あの男の手があなたの肩に触れようとしていました。肝心なときに杖も出していなかったではありませんか。もし、私の到着があと一分遅れていたら……あそこであなたが服を剥ぎ取られ、泣き叫ぶことになっていたと、考えもしないのですか」
生々しく、容赦のない言葉だった。
『服を剥ぎ取られ』という直接的な表現に、私はカッと顔が熱くなると同時に、背筋が寒くなった。
「そんな……、そんなこと普通はしないでしょ!それに、無事だったんだからいいじゃない! クロードの分からず屋!」
「無事なら、何をしても良いと?」
クロードが重いため息を吐き出し、繋いでいた手を躊躇いなく離した。
驚いて声をあげる暇もなく、彼がじりじりと距離を詰めてくる。
「っ、……クロード?」
身を引いたときには、すでに遅かった。
背後の木の幹に両手を突かれ、私は彼の体躯のなかに完全に閉じ込められる。
見上げる視線の先で、彼がじっと私を見下ろしていた。
かなりの至近距離に端正な顔があり、真面目な彼がいつもまとっている、微かな石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。
「……今回は、運が良かっただけです」
彼の声音から、完全に温度が消えていた。
「次にこのような『お転婆』をされたなら……。たとえお嬢様の御命令であっても、私はあなたを二度と部屋から出さないよう、この手で監禁することになるかもしれません。……私を、これ以上怒らせないでください」
「あ……」
彼の瞳の奥にある歪んだ執着を見たような気がして、恐怖のような戸惑いが全身を走る。
クロードは私の返事を待たずにすっと体を離すと、何事もなかったかのように隣に戻り、「失礼いたしました」と、いつものお辞儀をした。
離れてしまった手はもう繋がらず、交わす言葉もないまま、私たちは静かに屋敷へと向かって歩いた。




