06 初めてのお出掛け
鏡の前に立つ私は、普段よりも少しだけ華やかな桃色のドレスに身を包んでいた。
いつもなら薄紫色のシンプルなものを選ぶのに、今日に限ってこの色を選んだのは、初めてクロードを連れて外出する日だからだ。クローゼットの前で悩みに悩んだ時間が思い出され、少し気恥ずかしくなる。
緊張で肩を硬くしている私の背後から、控えていたクロードが静かに歩み寄ってきた。
「お嬢様、お仕度はよろしいですか? 馬車の準備が整っております」
振り返ると、そこにはいつも通り完璧に執事服を着こなしたクロードが立っていた。けれど、私の姿を捉えた瞬間、彼の深緑の瞳がわずかに見開かれる。ほんの一瞬の動揺を、私は見逃さなかった。
「……クロード? どう?変ではない?」
「ーーいえ、滅相もない。あまりに美しくて、一瞬、声を失ってしまいました」
彼はどこまでも大真面目な表情のまま、流れるようにそんな賛辞を紡ぐ。
二人きりの空間に響く直球な言葉に、今度は私のほうが、耳の裏まで一気に熱くなっていくのを感じていた。
彼はそっと片肘を差し出し、私をエスコートする姿勢をとった。
差し出された腕にそっと触れる。
上質な上着の生地越しにも伝わる、しっかりとした体温と硬い筋肉。男の人ならではの逞しさに、緊張が心地よい安心感へと変わっていく。
屋敷の玄関を出ると、眩しいほどの青空が私たちを迎えてくれた。クロードに手を取られて馬車へと乗り込む。揺れ始めた車内で、私はついに、新しい世界への第一歩を踏み出したのだと感じた。
対面に腰掛けたクロードが、穏やかな声で旅程を告げる。
「今日はお嬢様のご希望どおり、街の市場と大通りの噴水広場をご案内いたします」
「ええ。それからね、リカーショップにも立ち寄って、お姉様にプレゼントするお酒を買いたいの」
「モルガナ様に、ですか。どのような銘柄か、すでにお決まりなのですか?」
「ええと、たまにお姉様がハーブティーに入れて召し上がっている、林檎の形をしたかわいい瓶のものよ」
クロードはふっと目元を和らげ、小さく頷いた。
「なるほど。その説明であれば、お目当てのものが無事に見つかりそうですね」
「ねぇ、そういえば、お酒って高価よね……?お金、これくらいで足りるかしら?」
小さな巾着袋を手のひらに載せ、私は不安げにクロードを見上げた。
畑を管理しているご褒美にと、モルガナから貰っていた大切なお駄賃。それをコツコツと貯め込んだものだった。
「大丈夫だと思いますよ。ーーお買い物の際、私は極力、口を出しませんから、どうぞ頑張ってくださいね。お嬢様」
悪戯っぽく細められた深緑の瞳。助けてくれないの?、と私が拗ねるよりも早く、馬車が静かに停車した。
扉が開かれた瞬間、押し寄せるような人々の喧騒や、焼き立てのパンや果物の甘い香りに五感が包まれる。
目の前に広がった眩しいほどに賑やかな世界に、私は緊張も忘れて目を輝かせた。
「わあ……!」
馬車を降りると、そこは見たこともない熱気に満ちていた。
色鮮やかな野菜や果物が山積みにされた露店、威勢の良い商人たちの呼び声。私は興奮のあまり、無意識のうちに足早になっていた。
「お嬢様、あまり離れてはーー」
背後からクロードの制する声が聞こえたけれど、すれ違う大きな荷物を抱えた男の人を避けようとした瞬間、人と人との波に押し流されてしまう。
「あっ……!」
振り返っても、見慣れた完璧な執事姿は人混みに遮られて見えない。急に周囲の話し声が大きくなったような気がして、心細さが胸を締め付けた。その時ーー
「ーー危ないですから」
低く落ち着いた声が鼓膜を震わせると同時に、ぐい、と強い力で腕を引かれた。
勢い余って、私は彼の胸元に飛び込むようにして抱きとめられる。
衣服越しに伝わる、あの温かくて逞しい胸板。見上げると、いつもは冷静なクロードの深緑の瞳が、少しだけ険しく揺れていた。
「……ご、ごめんなさい、クロード」
彼の胸に飛び込んでしまった恥ずかしさで、私は慌てて身を引こうとした。けれど、私の腰を支える彼の大きな手は、すぐには離してくれなかった。
「……クロード?」
「これほど人が多いとは、私の見通しが甘うございました。お怪我はありませんか、お嬢様」
低く、少しだけ硬い声。私の身体に異常がないかを確かめるように深緑の瞳が私をじっと見つめ、それから周囲の喧騒へと冷ややかな視線を向けた。
クロードは私を庇うように一歩前に出ると、左腕を私の前に差し出す。
「今度は迷子にならないよう、しっかりと腕をお組みください。……今度は、離しませんから」
「ーーっ」
『離しません』という言葉の響きに、胸がどきりと跳ねる。
逆らうことなんてできなくて、私は彼の腕にしがみつくようにしてしっかりと腕を組んだ。
クロードは満足したように小さく頷くと、私を優しく促しながら、人混みを割るようにして歩き始めた。
そうして腕を組んだまま、私たちは目的のリカーショップまでやって来た。
ゆるりと腕の力が解け、クロードの体温が離れていく。私は意を決して、お店の木製のドアを押し開けた。
カランカラン、と柔らかなベルの音が響き、人の良さそうな店員が「いらっしゃいませ」と愛想よく声を掛けてくれる。
私はカウンターへ進み出ると、少し緊張しながら切り出した。
「林檎の瓶のお酒ください!」
「林檎の瓶……ああ、『毒リンゴ』のことでしょうか?」
店員が一瞬考えた後、棚から見覚えのある可愛らしい瓶を取り出し、カウンターの上に置いた。
「ど、毒!?えっ……あっ、そう、それです!」
物騒な名前に驚きつつも頷くと、店員はにこりと微笑んで、もう一瓶、よく似た林檎の瓶を隣に並べた。
「実は今だけ、別の品種の林檎で作った限定商品があるのですが、どちらにいたしましょうか?」
完全に想定外の質問に、私は助けを求めて背後のクロードを振り返った。けれど、彼はすました顔で素知らぬふうに佇んでいるだけだった。
「……ど、どう違うのですか?」
「限定品の方が酸味が引き締まっていますね。試飲されますか?香りをお試しいただくだけでも大歓迎ですよ」
試飲、という言葉に、再び後ろのクロードへ視線を送る。彼は私と視線が合うと、絶対に駄目というように、明確に首を横に振った。
「で、では香りだけ……お願いします」
差し出された二つのグラスに恐る恐る鼻を近づけてみる。
ぶわっと広がったブランデーの芳醇な香りに、それだけで頭がクラクラしてしまいそうだ。お酒の味も香りも知らない私には、どれだけ交互に嗅いでみても、明確な違いなんてさっぱり分からなかった。
「……いつもの、通常の瓶の方にします。それと、ラッピングをお願いします!」
「かしこまりました」
無事に支払いを済ませ、綺麗に包まれた商品を受け取る。
お店を出た瞬間、私は嬉しさのあまり、誇らしげにショッピングバッグを掲げてみせた。
「見て、クロード!私、一人でちゃんとお買い物ができたわ!」
「お見事でございます、お嬢様」
クロードはパチパチと、どこか嬉しそうに拍手をしてみせる。彼のその笑顔が見られただけで、頑張った甲斐があったと思えてしまう。
「でも……なんだか、さっきのお酒の香りのせいかしら。急に頬が熱くなってきた気がする……」
「それだけで酔うことはないとは思いますが、念のため、少し休んでから帰りましょう」
そうして私たちは、予定していた噴水広場へと向かった。
クロードが二人分の冷たい飲み物を買ってきてくれたので、ベンチに並んで腰掛ける。
最初は、「護衛が隣に並ぶのは……」と渋られたが、今日だけは私の我儘を聞き入れて、彼は隣に座ってくれた。
いつもよりずっと近い彼の肩や体温を感じて、お酒のせいだと言い聞かせていた頬が、さらに熱くなっていくのが分かる。
「……本当に、お酒の香りにあてられただけですか?」
隣から降ってきた低い声にびくりと肩を揺らすと、視界の端から冷たいものが差し出された。
ひんやりとした心地よさが、私の頬にそっと押し当てられる。
「ひゃっ……!」
驚いて声をあげると、クロードは悪戯が成功した子どものように、ふっと目元を和らげた。彼が買ってきてくれた、冷たいジュースのボトルだった。
「少しは冷めましたか、お嬢様?」
「も、もう、驚かさないでよ、クロード……っ」
頬に当てられたボトル越しに、それを握る彼の大きな手のひらがすぐ近くに見える。
揶揄うような深緑の瞳に見つめられて、冷やされたはずの頬は、さっきよりもずっと熱くなってしまった。
私はクロードから視線を外して、冷たいジュースを飲み続けた。
「……お姉様、驚くかな。喜んでくれるといいなぁ。ねえクロード、お買い物って、こんなに楽しいものなのね」
「お嬢様がそう仰ってくださるのが、何よりでございます」
クロードの優しい声に嬉しくなりながら、私はふと、彼が持っているボトルに目を留めた。
「ねえ、そっちのジュースも美味しそう。少しちょうだい?」
「は、はい……っ!?こ、これは、流石に駄目です。すでに私が口にしたものでーー」
困惑するクロードの手から、するりとボトルを受け取り、私はその飲み口に唇を寄せた。
すっきりとした柑橘の味が広がって、思わず笑みが溢れる。
「あ、こっちは爽やかで美味しい!
ねえ、クロードは私の要る?少し甘いけれど、とっても美味しいよ?」
自分のボトルを差し出し、顔を見上げて微笑んだ。
その瞬間、クロードの動きが完全に固まった。いつもは深い森のような静けさを湛えている瞳が、見たこともないほど激しく揺れ、泳いでいる。
「お、お嬢様は……っ、やはり酔っておいでです!これ以上の外出は体に障ります、早急にお屋敷へ帰りましょう!」
「ええっ!?ちょっと、クロード、まだお散歩したかったのに……」
クロードが、限界だとばかりに私の手からボトルを回収した。
動揺を隠すように、いつもより強引になったクロードに、なかば引っ張られるような形で、私の初めての外出は幕を閉じたのだった。




