05 昼間は完璧な主従、夜は二人だけの秘密
奇跡のような再会を果たした、その日の夜。
クロードが私の護衛になったことが、まるで夢のようで、胸の高ぶりがどうしても収まらず、私はベッドの中で寝返りを打っていた。
静寂に満ちた部屋に、控えめなノックの音が響く。ゆっくりと開いたドアの隙間から滑り込んできたのは、見紛うはずもない彼の姿だった。
「……クロード」
「まだ、起きてらしたのですか」
そう言いながら、彼は手早く部屋の施錠を確認していく。
「……あなたと塔で別れてから、ずっとあなたのことが気になっていたの。ーーどうしていたか、教えてくれる……?」
クロードはゆっくりとベッドサイドに近づくと、従者が主君に跪くように脇に膝をついた。そして、夜の静寂に溶け込むような低い声で話し出す。
「あの日、高い塔から落ちたのにもかかわらず、不思議なことに、それによる傷は何一つついていませんでした。その後、殿下を連れて城に帰還したのですが……私は騎士を辞めることになりました」
わずかに伏せられた深緑の瞳が、切なげに揺れる。
「私も……あなたのことが頭から離れなかったのです。
お嬢様と共にいるはずの大魔女モルガナ様の行方を探しながら旅をし、その間は単発の護衛や捜索の仕事をしていました」
「そう、だったの……」
過酷だったであろう彼の旅路を想い、胸が締め付けられる。同時に、伏せられたその瞳がこちらを向けばいいのになと願ってしまう。
「私も、あなたに会いに行きたいと思っていたの」
紡いだ私の本音に、彼が微かに息を呑む。そして、ゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「でしたら……私の方が、少しだけ、早かったですね」
ほんの少しだけ、交わった視線。でも、それだけで私の心は温かく満たされるのだった。
「おやすみなさい、お嬢様」
一礼して離れようとする彼の気配に、胸がすうっと冷たくなる。
「待って……!」
考えるより先に手が動き、私はベッドから身を乗り出して彼の袖口をきゅっと握りしめていた。
「あなたのような優秀な人が、私の護衛をするなんて、少しおかしいような気がするわ。
ねぇ、よかったら……今日のように毎晩、お話ししましょう。その時は、護衛のように接しなくていいから」
「ですが……」
一線を引こうとする彼に、私は少しだけ声を潜めてみせる。
「お姉様には言わないわ。二人だけの秘密にしましょう?」
私が悪戯っぽく、誘うように微笑むと、クロードははっと息を呑んだ。
深緑の瞳に揺るぎない忠誠と、それ以上の熱い葛藤が走り、彼はついに観念したように短く息を吐き出す。
「……お嬢様のご命令であれば」
諦めたような彼の声音には、微かな甘さが混ざっている気がした。
姿を消した彼の足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。私はそれを耳を澄ませてじっと聴いていた。
完全に気配が消えたあと、私はシーツを胸元まで引き上げ、深く枕に沈み込む。
興奮で冴え渡っていたはずの頭が、不思議なほど心地よい気怠さに包まれていく。
あの日から、彼が生き延びて、こうして私の側にいてくれる。その圧倒的な安心感が、焦がれるような緊張を優しく解きほぐしてくれた。
瞼の裏に浮かぶのは、最後に交わした彼の深緑の瞳。明日になれば、またあの瞳に会える。
私は小さく微笑みながら、深く心地よい眠りの海へと落ちていった。
◇
昼は完璧な主従関係、けれど夜になれば二人で対等に言葉を交わす。
そんな日々が続いていた。
夜であってもクロードが敬語を崩すことはなかったが、好きな食べ物や幼い頃の思い出、私の知らない遠い異国の景色など、多くの話を聞かせてくれた。
その日は、酷い嵐だった。
夜が更けても激しい雨風は一向に収まらず、すぐ近くで雷鳴が轟いている。
――嵐の夜が、これほど心細いものだとは思わなかった。
塔にいた頃は、こんな荒れた天候を体験したことがなかったのだ。
私は、見回りにやってくる彼の足音を今か今かと待ちわびた。
やがて、静かにドアが開く音がする。
待ち焦がれたその人が、ようやく姿を現した。
「クロード……!きゃっ!!」
叫び声をかき消すように、凄まじい雷鳴が轟いた。
私が思わず両手で耳を塞いだ瞬間、クロードが大きな歩幅で目の前へと詰め寄ってくる。
その気配に導かれるように、私は彼の服の裾を夢中で掴んでいた。
「雷が、怖くて……お願い、今夜だけはここにいて……」
「……護衛がお嬢様の寝所に寄り添うなど、あってはならないことです」
突き放すような彼の声音に、胸がちくりと痛む。私は逃げるように布団へと潜り込んだ。
厚い衾のなかに閉じこもると、外の嵐の音がいっそう不気味に響く。
昼間の彼ならともかく、夜の対等な時間でさえ拒絶されてしまった寂しさが、じわじわと胸に広がっていった。
クロードにとって、私はただのお嬢様でしかないのかな……
冷え切った布団のなかで身を縮めていると、シーツに涙が滲んでいくような気がした。
そのとき、静かに木製の椅子を引く音が聞こえた。
驚いて顔を覗かせると、クロードは椅子を窓際に置き、静かに腰を下ろすところだった。
「たしかに、今夜は何年に一度とも言われる大嵐。……致し方ありませんね。私は朝まで、ここで見守っておりますから」
不意に、窓際に立つクロードの背後が、昼間のように白くひるがえった。
一瞬の静寂の後、鼓膜を突き破るような大音響が部屋中に轟く。
「ひゃっ!……クロード、クロード……!」
あまりの恐怖に、私は彼の名前を呼びながら、頭まで布団に潜り込んだ。
カチカチと歯が震えるのを必死に堪え、膝を抱えて丸くなる。
大丈夫……クロードがそこにいる。彼が見守ってくれているから、私は絶対に大丈夫……!
おまじないのように心の中で繰り返していた、その時だった。
ベッドに、予想もしなかった重みがかかる。
ぎしり、とシーツが沈む気配がすぐ耳元の位置で触れた。
「た、助けてっ!…………え?」
息を呑み、恐る恐る布団の隙間から顔を出すと、さっきまで窓際にいたはずのクロードが、ベッドの端に腰掛けていた。
大きな手が私の頭を包み込むようにして、ゆっくりと、優しく撫でる。
私の心臓は、さっきの雷への恐怖とはまったく違う意味で、慌ただしく騒ぎ始めた。
「朝になったら、今のことはすべて忘れてください」
低い声が、耳元で甘く響く。
「……でないと私は二度と、あなたの『真面目な護衛』には戻れなくなりますから」
彼の手のひらから伝わる安らかな温もりと、切なげに私を見つめる深い瞳に捉えられる。
ドク、ドク、と胸の奥で爆発しそうなほど高鳴る鼓動の音のせいで、もう外の激しい雨も、吹き荒れる風も、轟く雷も、何一つ聞こえなくなっていた。
『忘れてください』という彼の願いを拒みたくはないけれど、この愛おしい手のひらの熱を忘れてしまうことなんて、きっと私にはできない。
私は、彼の言葉に何も返すことができなかった。
言葉を失った私たちの間に、濃密な沈黙が流れる。
けれど、それはさっきまでの孤独な静寂とは違っていた。
クロードはただ優しく、何度も私の髪を撫で続けてくれた。大きな手から伝わる心地いい体温が、凍えていた私の心と身体をじんわりと溶かしていく。
胸の奥でうるさいほどに鳴り響いていた鼓動は、彼の規則正しい手の動きに合わせるように、次第に穏やかなリズムへと変わっていった。
気がつけば、あれほど恐ろしかった嵐の音は完全に遠のいている。
「……クロード」
消え入りそうな声でその名を呼ぶと、彼はただ、ふっと目元を和らげて私を見つめ返した。その深緑の瞳の優しさに包まれながら、私は心地良い安心感の中へと、ゆっくりと意識を沈めていった。
◇
眩しい朝の光に目を細めながら、私はベッドの中で上体を起こした。
昨夜の激しい嵐が嘘のように、窓の外には穏やかな朝の景色が広がっている。
……夢、じゃなかったよね。
自分の頭をそっと撫でてみる。昨夜、確かにクロードが優しく撫でてくれた、あの温もりがまだ残っている気がした。
けれど、その淡い期待は、部屋に入ってきた彼の姿によって静かに打ち砕かれる。
「お嬢様、お目覚めですか。朝食の準備が整っております」
一礼するクロードの仕草は、どこからどう見ても、昼間の『完璧な護衛兼執事』そのものだった。
声のトーンも、背筋の伸び方も、私を見つめる真っ直ぐな瞳も、いつもと何一つ変わらない。
昨夜、ベッドの端に腰掛けて私を愛おしそうに見つめていたあの人は、まるで幻だったかのように。
本当に忘れてしまったのだろうか。それとも、忘れた振りをしているだけなのか。
私は確かめるように、彼の顔をじっと見つめた。
「……クロード。昨夜は、その、ありがとう」
私の言葉に、クロードは視線を落としたまま、水差しに水を注ぐ手を一瞬だけ止めた。
ほんの数秒の沈黙の後、彼はいつもよりわずかに低い声で毅然と言った。
「何のことでしょうか。私は一晩中、窓際の椅子で嵐が過ぎ去るのを見守っていただけにございます、お嬢様」
視線を上げた彼の瞳が、一瞬だけ、昨夜のあの切なげな光を帯びて私を捉えた。
……やっぱり、夢じゃない……!
彼が必死に『護衛』の仮面を守ろうとしているのが分かって、私の心臓は、またしても慌ただしく暴れ始めてしまうのだった。




