04 再会
モルガナのお屋敷へ移り、地獄のような魔法特訓に明け暮れてから、数年の月日が流れた。
ーー塔を出ることになったあの日、ただ怯えることしかできなかった私はもういない。
私の中の『異世界転生者』としての膨大な魔力と魔法の才能は、モルガナの容赦のない指導によって完全に開花し、今ではいくつかの攻撃魔法や防御魔法をも完全にコントロールできるようになっていた。
そのおかげで、お屋敷の裏にある森までは、一人で出ることが許された。
けれど、私の胸の奥には、いつも消えない鉛のような塊がある。
騎士様、あなたは今、どこで、何をしているの……?
本当は今すぐにでも、あなたに会いに行きたい……!
一度、モルガナに騎士の行方を調べてほしいと頼んだことがある。
カラスたちが運んできた確かな筋の情報によると、あの日の出来事が原因で騎士の身分を剥奪されたことはわかったが、その後の行方は不明だった。
生きているのか、それとも過酷な罰に処されたのか。
淡い初恋と罪悪感で揺れる彼への想いは月日が経っても、決して色褪せることがなかった。
◇
「ーーよし、今日の座学はここまで。裏の森へ行って『満月草の根』を採ってきなさい。明日の調薬で使うわ」
「はい、お姉様!」
早速、籠を手に持ち、お屋敷の裏に広がる深い森へと足を踏み入れた。
この森はモルガナの結界に守られており、安全だ。私は気晴らしも兼ねて、歌を歌いながら歩いていた。
しかし、その日に限って、不運は突然やってきた。
ザザッ、と草むらが不自然に揺れた。振り返ると、目の前にはもう巨大な影が立ちはだかっていた。
『ーーグルルゥ……!』
漆黒の魔獣が、荒い呼吸をし、鋭い牙から生臭い涎を垂らしていた。
結界の隙間を縫って迷い込んできたのかもしれない。
「つ、魔法を……っ!」
迎撃しようと杖を出した瞬間、魔獣が恐るべき速度で跳躍した。特訓したとはいえ、実戦経験のない私は、迫り来る圧倒的な質量に一瞬だけ身体を硬直させてしまう。
その刹那ーー。
――キィィィンッ!
鼓膜を震わせる鋭い金属音が響き、視界に鮮烈な銀の軌跡が走った。
凄まじい踏み込みと共に放たれた一閃が、魔獣の強靭な前足を正確に弾き飛ばす。巨体を地面に叩きつけられた魔獣は、短い悲鳴を上げてそのまま森の奥へと逃げ去っていった。
「……お怪我はありませんか、お嬢様」
呆然と立ち尽くす私の前に、その男は静かに着地した。彼の手には、一滴の血もついていない見事な剣が握られている。
流れるような身のこなし、無駄のない完璧な剣技。
私は、目を見開いたまま息を呑んだ。
男がゆっくりと振り返る。
西日に照らされたその横顔は、私の記憶の中にある姿よりも少し大人びていて、彫刻のように美しくーーそして、深緑の瞳は真っ直ぐな光を宿していた。
「騎士……様……?」
夢にまで見た彼が目の前にいる。震える唇から、言葉を絞り出した。
けれど、私の知る彼は、白銀の甲冑を身に纏った誇り高き騎士だった。
目の前にいる彼は少し違う。
身体のラインに寸分の狂いもなく仕立てられた、格式高い漆黒の燕尾服と、胸元を隙なく固めるベスト。それが、彼の厚い胸板や、引き締まった広い肩幅をこれ以上ないほど雄弁に強調している。雪のように白いシャツに、隙なく結ばれたネクタイ。
かつて彼が着ていた白銀の鎧は、彼の頑強な体躯を隠すためのものだったのだと、私は今になって知った。
騎士の鎧を脱ぎ捨て、『執事服』を纏った彼の姿は、洗練された大人の男の色気を放っていて、私の心臓を激しく跳ね上げさせた。
「……お久しぶりでございます、ラプンツェル様。申し遅れましたが、私はクロードと言います」
クロードは剣を素早く鞘に収めると、胸に右手を当て、流麗な動作で深く、深く頭を下げた。騎士の礼ではなく、完璧な執事の礼だった。
「なぜ、あなたがここに……?それに、その格好は……?」
「お話ししたいことは山ほどございますが、まずはモルガナ様の屋敷へ戻りましょう。
これより先、あなたの専属護衛兼執事として、お側でお仕えする許しをモルガナ様からいただきました」
クロードは真面目な顔で説明をするが、私は理解が全く追いつかない。
数年ぶりの再会の喜びと、近くで見る彼のあまりの格好良さに、赤くなった私の顔は一向に収まりそうになかった。
「お姉様、騎士様が裏の森にいらして、助けてくださったの……!」
「もう助けてもらったのかい。全く、何をしているんだか」
ハーブティーのカップを傾けていたお姉様が、呆れたように息を吐く。
「クロードから話を聞いただろう?
今日から彼はお前の専属護衛兼執事だ。
これから、少しずつ行動範囲を広げていくといい。
今までは裏の森までと制限していたが、クロードを連れていくなら、どこへ出掛けてもかまわないよ」
「お姉様、ありがとう……!」
私は嬉しくなってクロードに向き直り、その深緑の瞳をじっと見つめた。
「本当に?……本当に、また会えたのよね?クロード」
視線を交わした彼が、真っ直ぐに見つめ返してくれたのが嬉しくて、私は満面の笑みを浮かべた。その途端、クロードは弾かれたように目を逸らし、片手で顔を覆ってしまった。
「……真面目に見つめ返した挙句、勝手に照れる間抜けがどこにいるんだい」
モルガナが冷ややかでありながら、どこか楽しげな声を漏らした。
「クロード?」
「……お嬢様、髪をお切りになったのですね」
「ええ、塔を出るときに切ったの。あなたも髪が短くなったわね」
騎士時代は少し長めだった黒髪が、執事服を纏った今、清潔感のある短髪に整えられていた。額がすっきりと出たことで、彼の真面目そうな眉がよく見える。
それを見つめているうちに、視界が滲み、自覚もないまま一筋の涙が頬を伝った。
「あなたにずっとお礼を言いたかった。……そして、謝りたかったの。
あの日、私を助けてくれて、ありがとう。そして、本当に……本当にごめんなさい……っ」
クロードが白いハンカチを取り出し、そっと私の頬の涙を拭う。その手つきは驚くほど優しかった。
「顔を上げてください、お嬢様。私は、己の取った行動に一切の悔いもありません。あなたが生きて、無事でいてくださった。私にとっては、それだけで十分なのです」
まるで、ずっと深い愛おしさを湛えてきたような声で微笑まれて、胸の奥に仕舞い込んでいた感情が決壊した。
激しくしゃくりあげる私に、クロードは静かに肩を貸してくれる。私の涙が止まるまで、クロードもモルガナも、ただ寄り添うようにそっと見守ってくれていた。
私がようやく涙を拭い、鼻をすすり終えるのを見届けてから、モルガナはゆっくりとハーブティーのカップを机に置いた。
「よし、気が済んだかい? それじゃあ、いつまでも泣き虫のお姫様のままではいられないからね。これからの話をしよう」
モルガナの、揶揄うようでありながら温かい声に、私は少し顔を赤くしながらコクンと頷いた。
クロードは一歩下がり、すっと背筋を伸ばして完璧な一礼を捧げる。
「クロード、改めてこれからお前の仕事についてだ。基本的には外出時の護衛。それと、できれば簡単な身の回りの世話も手伝ってやってほしい。
護衛の格好だとこの辺りでは目立つからね、執事服を着てもらうことにしたよ。
彼女が新しい環境に慣れるまでは、文字通り常に影のようにつき従ってもらう。……まあ、お前なら言われずともそうするだろうがね」
「はっ。お嬢様の影となり、盾となり、あらゆる危険からお守りいたします」
クロードの迷いのない声が響く。
「それから可愛い子よ。さっきも言ったが、クロードが一緒ならどこへ出掛けても構わない。……自分のペースで、無理はしないでいい。気が向いた時に、珍しい薬草を探しにいくといいさ」
前世では引きこもりがちだったし、今の暮らしも十分に充実している。外の世界への強い憧れがあるわけではなかった。
それでも、目の前で頭を垂れる実直な護衛の姿を見ていると、少しだけ新しい一歩を踏み出してみたくなる。
「そうね……すぐには思いつかないけれど、クロードと一緒なら、どこか遠くまで出掛けてみたいわ」
そう言ってクロードを見上げると、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それからすぐに、困ったような、愛おしそうな眼差しを私に向けた。
「畏まりました、お嬢様。これからは私のすべてを賭して、あなたの行きたい場所、どこへでもお供いたします」
「ふん」
モルガナが呆れたように肩をすくめる。
その様子が可笑しくて、私とクロードの間に自然な笑みがこぼれた。
モルガナの部屋を辞し、自室へと続く静かな廊下に出た途端、それまで保たれていた心地よい緊張感がふっと解けた。
私の一歩後ろを、音もなくついてくるクロード。その気配が嬉しくて、私はわざと歩調を緩め、彼と並ぶようにして歩き出した。
「……お嬢様? 護衛の横を歩くのは、あまり感心いたしませんが」
「いいのよ。今は誰も見ていないわ」
悪戯っぽく微笑んで見上げると、クロードは困ったように眉を下げた。けれど、私の歩調に合わせて、その長い足を進める速度を落としてくれる。
「ねえ、クロード。さっき、お姉様の前で『すべてを賭してどこへでもお供する』って言ってくれたの、本当に嬉しかった」
じっと彼を見つめながら伝えると、クロードはふっと視線を彷徨わせ、それから観念したように小さく息を吐いた。
「モルガナ様の前では、少々格好をつけすぎました。ですが……」
クロードが足を止める。私もつられて足を止めると、彼は私に向き直り、そっと手を伸ばした。
大きくて、かつて剣を握っていた微かな硬さのある指先が、私の耳元の短い髪に触れる。そのまま、愛おしそうに優しく髪を梳いた。
「あの塔でお救いした日から、私の命も、心も、すべてあなたのものです。お嬢様……いえ、あなたにそう言って頂けるなら、私は何度だって、すべてを捨ててあなたの元へ馳せ参じます」
「クロード……」
向けられる眼差しがあまりに熱く、今度は私の方が赤くなって俯いてしまう。
すると、私の頭上から、クスクスと低く愉しげな笑い声が降ってきた。さっきモルガナの前で顔を覆って照れていた彼が、今は少し意地悪に微笑んでいる。
「今度は、お嬢様が照れる番ですね」
「もう……っ」
ぽん、と彼の胸を軽く叩くと、クロードは愛おしさが堪えきれないといった様子で、私の手をそっと両手で包み込んだ。そのまま、慈しむように手の甲に唇を落とす。
「お傍にいられるだけで、これほど幸せなことはありません。……さあ、お部屋へ戻りましょう。これからは毎日、私があなたをお守りします」




