10 這い寄る影
夜会からしばらく経った、ある日の午後。
柔らかい太陽の光が差し込む中、私は畑仕事に勤しんでいた。
ふと、カァッ!、とカラスが威嚇するように鳴く。いつの間にか、クロードが私を守るように隣に並んでいた。
「何者だ!」
二人の男女が塀をよじ登って、私たちを見下ろしている。
「ああ、愛しい我が娘ラプンツェル!
私たちはあなたの実の両親よ。こんな恐ろしい魔女の館に囚われて、どんなに辛かったことか……!」
そう言って、いとも簡単に庭に侵入してきた。
「実の両親……?」
「そうよ。あなたが生まれてすぐ、あの忌々しい魔女が『ラプンツェル』と名付けて、あなたを攫ったの」
彼らは大袈裟に涙を流して両手を広げた。
「お前はあの魔女に騙されているのだ。さあ、早く安全な実家に戻ろう」
突然現れた人物に、そのようなことを言われても、全然理解が追いつかない。
目の前で手を差し出す彼らに対して、ただ嫌悪感しか募らなかった。
「お姉様が帰ったら聞いてみるので……お帰りください」
私は彼らの手を拒絶し、一歩後ろへ下がった。
隣には、まだ微動だにせず控えるクロードの気配がある。
彼らは私の拒絶に一瞬だけ顔をひきつらせたが、すぐに忌々しげにお屋敷の方向を睨みつけた。
「ふん、あの魔女め、娘をここまで洗脳するとは……今日は引き下がるが、私たちは諦めないからな。
お前のために、王宮との素晴らしい縁談も用意してあるのだから」
「あの、素敵なジュリアン王太子殿下があなたを求めていらっしゃるのよ。
次はお屋敷の表から入れてちょうだいね」
そう捨て台詞を残し、彼らは去っていった。
私は呆然とその場に立ちつくす。
「……クロード。ジュリアン王太子殿下ってもしかして、あの塔で会った……」
クロードが苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。
ーー童話『ラプンツェル』の物語が、今、動こうとしている。
『ラプンツェル』の涙で王子様の目は治る。そして、王子様と結婚して、お城で幸せに暮らすハッピーエンドだから。
……いやだ。それは、決して『私』ではない。
私が、一緒にいたいのは。いつだって私の心臓をうるさく乱すのは……
けれど、少し気持ちが落ち着くと、次第に激しい嫌悪感は薄れ、代わりに底知れない不安が胸を支配していった。
私が実家に戻らなければ、モルガナやクロードにまた迷惑がかかってしまうーーそう気づいた瞬間、恐ろしさで身がすくむ思いだった。
結局、帰宅したモルガナに、日中の出来事を切り出すことができなかった。
コンコン、と静かなノックの音が響いたのは、深夜のことだった。
「お嬢様、温かいハーブティーをお持ちいたしました。……お入りしても、よろしいでしょうか」
クロードの声だった。私が小さく「どうぞ」と答えると、彼は扉を開け、トレイを手に室内へと入ってきた。
月明かりだけが照らす部屋の中で、彼はハーブティーをサイドテーブルに置いた。
そのとき、彼の執事服の袖口から、うっすらと覗く煤けた皮膚が見えた。
ーーあの日、私の前で王子の魔法の短剣を受け止めた、左腕の傷だ。
私が思わずその手首に触れると、クロードはびくりと肩を揺らし、それから酷く困ったように、同時に愛おしそうに目を細めた。
「……お気になさらないでください、お嬢様。これは、私があなたをお守りできたという、生涯の誇りなのですから」
そして、ベッドの脇にそっと膝をついた。いつもの完璧な執事の仮面の下で、その瞳は酷く痛ましそうに、自分の膝を抱えこんだ私を見つめている。
「……クロード、私、どうしたらいいか分からないの……私が戻れば、お姉様もあなたも、これ以上、巻き込まれずに済むのかもしれない」
涙が溢れ、声が震える。そんな私の無力な手を、クロードは少し躊躇った後、意を決したように、下からそっと両手で包み込んだ。
驚いて見上げると、彼の大きな手のひらは、驚くほど熱く、そして固く、騎士時代と変わらない力強さで私を支えていた。
「お嬢様」
彼は、かつてダンスレッスンの夜に触れたときのように、真っ直ぐに私を見つめた。その真面目な顔が、少しだけ切なげに歪む。
「……申し訳ありません。改めて申し上げますが、私は……あの日、騎士の身分を失ったことなど、一度も後悔したことはないのです」
クロードの低い声が、静かな部屋に深く響く。
「ただ一つ、心残りだったのは、あなたをあの塔に一人残してきてしまったこと。……私はただ、もう一度あなたの側にいたかった。
お嬢様がどう判断されても、私はあなたの味方です。
……お嬢様が私を必要としてくださるなら、私はこの命が尽きるまで、あなたのためにこの剣を振るいます」
彼の手が、ぎゅっと私の手を握りしめる。
彼の温もりと、あまりに一途で深い情愛に、私の胸の奥の凍りついていた不安が、音を立てて溶けていくのが分かった。
「……クロード。必要なら、だなんて、言わないで」
私は涙を拭い、彼の熱い手を握り返した。
「私はもう、ただ守られて泣いているだけのお人形じゃないわ。あなたに追いつけるように、あなたの隣に立っても恥ずかしくないくらい、強い魔法使いになったんだもの。だから……私のこと、ちゃんと隣で見ていてね」
私の言葉に、クロードは目を見開いた。驚きの後、彼の切れ長の瞳に、愛おしさを堪えきれないような、熱く激しい光が宿る。
彼は深く頭を下げ、私の手の甲に、そっと誓いのキスを落とした。
月光に照らされた部屋の中で、私たちは静かに、誰にも引き裂けない確かな絆を結び合ったのだった。
◇
「お姉様、お話があるの」
翌日の朝食の席。私は真剣な眼差しで、真っ直ぐにお姉様を見つめた。
「お姉様が生まれたばかりの私を、両親のもとから攫ったって本当?」
「本当だよ。恐ろしくなったか、この私が」
モルガナが妖しく笑う。
ただ美しいだけではない。その佇まいだけで『この人を敵に回してはいけない』と確信させるほどの圧倒的な美貌と威厳。そのプレッシャーに、喉がひりついて言葉が消えそうになる。
私は膝の上で拳を強く握りしめた。
「……どうして、私を攫ったの?」
「ただの気まぐれだよ」
「嘘よ。セレン様が言ってた、私の魂に一目惚れしたんだって。ねぇ、本当の理由を教えて?」
モルガナはハーブティーのカップを指先で弄びながら、深く、憂いを帯びたため息をついた。
「……お前の実の両親が、私の庭のラプンツェルを何度も盗んだんだ。身重の妻がそれしか受け付けず、死にそうだから、と言い訳をしてね。
だが、神聖な魔女の庭を荒らすなど万死に値する大罪だ。相応の罰を与えなくてはならない。だから私は、産まれてくる子を差し出すなら、好きなだけ摘んでいいと取引を持ちかけたのだよ」
モルガナはどこか遠い目をし、愛おしそうに目を細める。
「そうして、生まれた赤ん坊は、それはそれは魂の美しい子だった。この手で育て、自分だけのものにしたいと、歪んだ欲を抱くほどにね。だから、お前の両親の罪と、私の独占欲の象徴として、その名を授けたのだ。『ラプンツェル』と……」
初めて知った自分の出自に、頭が真っ白になる。それでも、胸の奥から溢れそうになる一番の問いを、私は震える声で紡ぎ出した。
「お姉様は、私のことを育てていて、辛くなかったの……?」
モルガナは一瞬、弾かれたように目を見開いた。そして、張り詰めていた仮面が剥がれ落ち、諦めたように小さく笑う。
「そんなわけがあるかい。
幼い頃にここで暮らしたときだって、お前を塔に幽閉したときだって、再び魔法を教えることになったときだって……!
いつだって、私はお前が幸せでいてくれるように、それだけを願って、守りたかったのに……!」
視界が涙で滲んでいく。私は溢れる涙を拭いもせず、モルガナに向かって叫んでいた。
「そんなの、幸せに決まってるじゃない……!
私は、お姉様といたい。両親のもとにも、王子様のところにも行きたくない!
……これからも、ずっと『お姉様』って、呼んでいい……?」
モルガナは呆然とした後、目元を片手で覆い、今度は心底愛おしそうに声を震わせた。
「……本当に、物好きな子だね」
私は奥歯を食いしばり、涙を堪えて、最後まで言葉を紡ぐために前を向いた。
「今日、両親に会いに行くわ。実家には戻らないこと、そしてーー王子様との結婚は断ると伝えてくる」
「……私も付いて行こうか?」
おぞましい魔女の気配をすっかり消し、モルガナが心配そうに私を見つめる。それは、世界で一番私を安心させてくれる、温かい瞳だった。
「ううん、自分で決着つけてくる。
……だからね、お姉様。私が帰ってきたら、最高の笑顔で『おかえり』って言ってね」
頬を伝う涙をそのままに、私は精一杯の笑顔を浮かべた。
モルガナは一瞬だけ寂しそうにした後、静かに首を縦に振った。
「わかった。……クロード、頼んだよ」
「御意」
背後に控えたクロードが、絶対の忠誠を誓うように深く頭を垂れた。




