第捌節『分類』 Der achte Abschnitt : “Einordnung”
天環暦2109年01月20日。
六箇所の慣例を直した氷の式は、四度目にして受理された。書記は表紙を取り、本紙を取り、裏紙を取り、添付を数え、そして表紙に戻った。所要、十数秒…前と同じである。だが今度は、判を押した。
「受理致しました」
「……ありがとうございます」
「其のようなことは、仰らずとも」
「言います」
「……」
「ところで、お名前を伺っても宜しいですか」
書記の手が、また止まった。この男は、こちらが予期せぬことを言うと、必ず手が止まる。るいは少し面白くなった。
「……ヴィルフリート“Wilfried”、と申します」
「ヴィルフリート殿。改めて、御礼を」
「殿は、お止めください」
「では、ヴィルフリート」
「……はい」
背後の列から、また誰かが息を呑む音がした。
*
受理の判が押された時、るいは正直なところ、事は半ば片付いたと考えていた。書式さえ判れば、残る三十六件は同じ要領で書けばよい。紙の目処も立った。期限まで二月半ある。実に甘い見通しであった。二件目に選んだのは、骨格の位置決めに使った『念動』の改良式である。効果範囲を極端に絞り、精度を上げたもの。基となった紋は牽系の『念動』であり、効果も物を動かすことである。分類欄には迷わず「牽系」と書けた。これも、受理された。
三件目、『切断』の改良式。刃の厚みに相当する部分を極限まで薄くしたもの。断系…受理。四件目、潜行の精度向上。潜系…受理…五件目で、止まった。骨の移植接合に用いた式である。潜行で骨片を隣接亜空間に落とし、数センチ横に送って戻し、其処で『素材処理』を掛けて接合面を整え、更に『念動』で圧を掛けて固定する。三系統の複合である。分類欄は一つしかない。
『……どれを書く』
主たる紋は潜系である。だが効果の本体は接合であり、其れは『素材処理』が担う。『素材処理』は断系に分類されている。そして最終的に固定するのは『念動』であり、牽系である。試みに「潜系」と書いて出した。撥ねられた。理由は書かれていない。「断系」と書いて出した。撥ねられた。「牽系」と書いて出した。撥ねられた。上物の紙が、三枚消えた。
*
窓口が閉まった後の事務室で、るいは撥ねられた三枚を卓に並べた。ヴィルフリートは、その三枚を順に見た。
「……分類欄にございます」
「判っています。其処しか変えていませんので」
「はい」
「三つとも違うのなら、正解は何処にあるのですか」
書記は、答えなかった。答えないのではなく、答えられないのだ、とるいは気付いた。この男は不備の箇所を教えることを禁じられている。前回教えてくれたのは、其れが書式の一般的な慣例であって、個別の書類の不備ではなかったからである。
「……では、一般論として伺います」
るいは言い方を変えた。
「複数の系統にまたがる式は、分類欄に何と書くのが慣例ですか」
ヴィルフリートは、少し考えてから、答えた。
「……主たる系統を書きます」
「主たる、とは」
「其の式が属する系統にございます」
「其れを決めるのは」
「……審査にございます。第二座の下で、式學の方々が判定なさいます」
「私が書いた分類が、審査の判定と異なれば」
「不備となります」
るいは、卓の上で指を組んだ。
「……つまり、正解は審査が知っていて、私は知らない」
「はい」
「そして審査の判定は、私には教えられない」
「……はい」
「では、私はどうやって当てるのですか」
書記は、しばらく黙っていた。それから、ひどく言いにくそうに、口を開いた。
「……普通の方は、」
「はい」
「其もそも、複数の系統にまたがる式を、お作りになりません」
*
その夜、るいは屋敷に帰らず、咒紋學院の書庫に籠った。過去二百年分の届け出書の受理例を、片端から読んだ。結果は、明白であった。複合式の届け出は、二百年で四十一件しかない。しかもその四十一件は、いずれも同一系統内での複合である。牽系の紋二つを組み合わせたもの、熾系の紋三つを重ねたもの。系統をまたいだ複合式の届け出は、二百年で、零件であった。
『……そういうことか』
るいは、書庫の冷たい床に座り込んだまま、天井を仰いだ。分類欄が存在しないのではない。分類欄に書けない式が、|これまで存在しなかった《・・・・・・・・・・・》のである。千年、誰も系統をまたがなかった。癒系の者は癒系を極め、断系の者は断系を極めた。九つの系統は、便宜上の区分などではなく、実際には九つの別々の職業であり、九つの別々の學問であり、九つの別々の世界であったのだ。書式は、その世界を正確に写している。役所の書式とは常にそういうものである。其れは制度の設計図ではなく、制度がこれまでに出会ったものの目録なのだ。出会ったことのないものを書く欄は、無い。
『……そして、あの老人は』
ゲーアハルトは、この構造を知っている。知っていて、届け出よと言ったのだ。届け出よ、と命じておきながら、届け出られぬことを知っている。三十七件のうち、単系統で書けるものは幾つあるか。試算するまでもない。半分にも満たぬ。残りは分類欄で必ず止まる。期限が来れば、未届け出のまま処分が下る。そして老人は、何一つ嘘を吐いていない。処分を下したのでもない。ただ「届け出よ」と言い、規程通りに三月の猶予を与えただけである。実に、綺麗な手であった。
『……感心してる場合か』
るいは立ち上がり、埃を払った。残り、二月と少し。
*
三日、るいは自室から出なかった。卓の上に三十七件の下書きを全て広げ、床にも並べ、壁にも貼り、それを咒眼で視続けた。抜け道を探していた。分類欄に「複合」と書く。──前例が無いので撥ねられる。分類欄を空欄にする。──不備である。一件を複数件に分けて届け出る。──分けた時点で、それぞれは効果を持たぬ紋の断片になる。届け出書の効果欄が書けぬ。分類欄の外に注記を添える。──書式に注記欄が無い。全て潰れた。四日目の朝、るいは諦めた。抜け道は無い。書式を通すには、書式が受け付ける形に、こちらを合わせるしかない。
『……分解するか』
*
骨の移植接合の式を、るいは卓の上で分解し始めた。三系統の複合である。ならば、三つの単系統の式として書き直せばよい。一、潜系。骨片を隣接亜空間に落とし、指定した座標に復帰させる式。二、断系。復帰させた骨片の接合面を、微細に整える式。三、牽系。整えた面を密着させ、圧を掛けて保持する式。この三つを、順に発動させれば、元の複合式と同じ結果が得られる。得られるが──遅い。複合式は、全体が同時に成立する。三つに分ければ、三度組まねばならぬ。速度は三分の一以下に落ち、その間、骨片は宙に浮いたままになる。
実用には耐えぬ。だが、届け出はできる。
『……そして、これを届け出るということは』
るいは、筆を止めた。この三つの式は、誰でも使える。複合式であれば、組めるのは彼女だけであった。系統をまたぐという発想を持たぬ者には、そもそも組めぬ。だが単系統に分解してしまえば、潜系の咒紋司が一を、断系の咒紋司が二を、牽系の咒紋司が三を、それぞれ組める。三人がかりであれば、同じことができる。いや。──三人がかりでさえあれば、同じことができるのだ。骨を切らずに治すことが。
『……』
るいは、しばらく筆を持ったまま動かなかった。これを出せば、技法は咒紋府のものになる。紋帖に収録され、免許保持者に公開される。るいが組んだ式を、この帝國の千人の咒紋司が使えるようになる。氷の式も…電気パルスの式も。骨格再構成の手順も。技を、全部渡すことになる。
*
その日の午後、るいは庭に出て、型を演じた。考え事をする時、体を動かすのは塁の頃からの癖である。十七年、彼は論文を書いてきた。論文とは何か。自分の見つけたことを、他人が再現できる形で書き記し、公開する行為である。実験の手順を、材料を、条件を、失敗も含めて全て書く。読んだ者が同じことをやれるように書く。そうしなければ、其れは学問にならない。囲えば秘術である。公開すれば技術である。そして技術は、秘術より遥かに速く育つ。何故なら、公開した瞬間から、世界中の頭脳がそれを改良し始めるからだ。
塁の書いた論文は、彼の手を離れた後、彼の想像もしなかった形で使われた。時には腹の立つ使われ方もした。だが総体として、彼の分野は前に進んだ。そして──其のことを、この世界の誰一人として知らない。この世界において、咒紋術とは秘術である。家ごとに紋帖があり、他家には見せぬ。師から弟子に、親から子に、口伝で伝えられる。咒紋府の紋帖に収録されても、それを読むのは千人足らずであり、その千人も自分の系統以外は読まぬ。千年、そうやってきた。だから発展しなかったのだ。るいは、型の途中で足を止めた。
『……渡そう』
理由は三つ…一。渡さねば免許を失う。免許を失えば、この先何もできぬ。二。渡したところで、自分にはまだ書いていない技が幾らでもある。十七年分の科学と、十年近い咒紋術が、頭の中にある。三十七件など、その入口に過ぎぬ。そして、三。
『……広まった方が、後で使いやすい』
この帝國の咒紋司が、系統をまたぐことを覚えたら、どうなるか。誰かが真似をする…誰かが改良する。誰かがるいの思いつかなかった組み合わせを見つける。──そして、その全てが咒紋府の紋帖に収録され、るいが読める形で積み上がってゆく。千人の頭脳が、彼女の代わりに考え始める。これほど安い投資は、無い。
『……論文と同じだ』
るいは、また型を演じ始めた。この判断が正しいかどうかは判らぬ。塁の世界の常識が、この世界で同じように働く保証は無い。だが、賭ける価値はある。何より──これ以外に手が無い。
*
それからの一月半は、ひたすら書いた。三十七件を、全て単系統の式に分解した。分解の結果、届け出件数は八十九件に膨れ上がった。紙が足りぬ。エルメンガルトが泣きそうな顔で帳簿を睨み、ユリアーネが厨房の予算を削り、アンネゲルトが自分の年金を出すと言い出してるいが慌てて断った。ヴィルフリートは、窓口が閉まった後の事務室で、受理例集を開き続けた。彼は一言も助言をしなかった。規程がある。ただ、るいが読むべき頁を、|開いたまま卓に置いておく《・・・・・・・・・・・・》ようになった。毎回、違う頁が開いていた。
*
八十九件目の受理の判が押されたのは、期限の四日前であった。ヴィルフリートは、最後の一枚に判を押し、それを他の書類の束の上に重ねた。そして、いつもと同じ声で言った。
「受理致しました」
るいは、深く頭を下げた。顔を上げると、書記が立ち上がっていた。高い机の向こうで、灰色の袖の男が、るいに向かって一礼していた。
「……ヴィルフリート」
「……差し出がましいことにございます。お忘れください」
「忘れません」
「……」
「二十二年、此処に座っておられるそうですね」
「はい」
「其の間に受理した書類の中で、」
るいは、束を指した。
「これは、何番目に面白かったですか」
ヴィルフリートは、初めて声を立てて听った。
「……一番でございます」
*
八十九件の届け出書は、審査を経て、第二座の机に回された。式學統括、咒紋司の免許を統べる座である。当代の第二座は、六十を越えた律儀な男であった。彼は八十九件を三日かけて読み、そして不快になった。紋の組み方が、作法に反している。式學には正統な手順がある。基となる紋を定め、補助の紋を添え、収束の紋で閉じる。この八十九件は、その手順を守っていない。守っていないのに、成立している。彼は、これを「乱れた式」と呼んだ。同じ書類が、第三座に回った。
紋學統括、紋そのものを扱う座である。当代の第三座は、四十を少し越えた女であった。彼女は八十九件を一晩で読み、そして眠れなくなった。紋の並びが、見たことのない形をしている。彼女は二十年、紋を見てきた。この帝國に現存する紋の九割は、彼女の頭の中にある。だがこの八十九件に描かれた配列は、既存の紋を使っていながら、配列の文法が違うのだ。まるで、同じ文字で、|別の言語を書いたように《・・・・・・・・・》。そして、同じ書類が第六座に回った。
癒系統括、治療術師協会との窓口である。当代の第六座は、まだ三十路に届かぬ若い男であった。彼は八十九件のうち、骨格再構成に関わる二十三件を読み、そして書類を取り落とした。癒系の紋が、一つも使われていない。一つも使われていないのに、癒系が数年を要する処置を、一日で終えている。彼は、その日のうちに第一座への面会を求めた。
*
書類で埋まった狭い執務室で、ゲーアハルトは八十九件の届け出書を読んでいた。全て読み終えるのに、五日かかった。最後の一枚を置いた時、老人はしばらく蝋燭の炎を見ていた。それから、机の抽斗を開けた。中には、古い紙が一枚だけ入っている。上物の紙で、しかし黄ばんで、端が擦り切れている。二百年は経っているであろう紙であった。老人はそれを取り出し、蝋燭の前に置いた。そして、八十九件の届け出書の中から一枚を選び、その古い紙の隣に並べた。二つの紙に描かれた紋の配列を、老人は交互に見た。長い間、そうしていた。やがて老人は、古い紙を抽斗に戻し、鍵を掛けた。
「……ふむ」
それだけ言って、次の書類の山に手を伸ばした。




