第漆節『書式』 Der siebte Abschnitt : “Formular”
天環暦2108年12月12日。
屋敷に戻って最初にやったのは、費用の計算である。るいは自室の机に懐の白紙を広げ、注記を端から端まで読んだ。届け出書は一件につき三枚。表題と分類と術者を記す表紙、効果と適用範囲を記す本紙、そして紋の配列を記す裏紙。加えて、添付として紋の写しを求める旨の注記がある。紋の写しは、一件につき最低一枚。複合式であれば、構成する紋の数だけ要る。
『……三十七件』
筆を執って計算する。表紙・本紙・裏紙で百十一枚。紋の写しは、単純な式で一枚、複合式で三枚から五枚。平均を三枚と見れば百十一枚。合計、二百二十二枚。書き損じを見込めば、二百五十枚は要る。るいは、しばらく数字を見つめていた。届け出書は上物の紙でなければ受理されない。書式の注記に、そう書いてある。咒紋府の紋帖に収録される以上、百年保つ紙でなければならぬ、という理屈である。上物の紙は、一枚が卵十個。二百五十枚で、卵二千五百個。屋敷の使用人五人が、二月ほど食える額であった。
『……なるほど』
るいは、椅子の背に体を預けた。
『これは、兵糧攻めも兼ねているのか』
あの老人が、そこまで計算していたかどうかは判らない。あるいは、計算するまでもなく当たり前のことなのかもしれぬ。上物の紙を二百五十枚買うことなど、真の帝國伯であれば何ということもないのだ。称号伯にとってのみ、これは重い。制度は誰も差別していない。ただ、同じ額が同じ重さではない、というだけである。
『……久しぶりだな、この感じ』
塁であった頃、研究費の申請書を書くのに、コピー代と製本代が自腹だったことを思い出した。教授の部屋には潤沢な事務予算があり、彼の申請書は事務員が製本してくれた。塁の申請書は、深夜のコンビニで彼自身が刷った。制度は誰も差別していなかった。
*
「エルメンガルト」
「はい、帝國伯令嬢」
「今年の紙の残りは、どれほどある」
几帳面な女中頭は、即座に答えた。
「上物が十四枚、中物が六十枚ほど。下物は充分にございます」
「……十四枚か」
「はい。年始に仕入れました分の残りにございます。……何かお使いになりますか」
「二百五十枚要る。上物で」
エルメンガルトの表情が、静かに凍った。
「……失礼ながら、帝國伯令嬢。もう一度仰って頂けますか」
「二百五十枚。上物。三月以内に」
「……」
女中頭は眼鏡の位置を直し、それから深く息を吸った。
「不可能にございます」
「言うと思った」
「今年の家計から捻出できる紙代は、多く見積もっても上物三十枚分。其れも、他の一切を切り詰めた上での話にございます。冬の薪を減らし、ユリアーネの厨房の予算を削り、庭師を解いて、漸く三十枚。……二百五十枚など、どこを叩いても出てまいりません」
「うむ」
「其れは、何にお使いになるものですか」
「咒紋府への届け出だ。三十七件。出さねば免許を失う」
エルメンガルトの顔から、血の気が引いた。
「……免許を」
「失えば俸禄も失う。俸禄を失えば、この屋敷は保たぬ。お前達の給金も出ぬ」
「……」
「だから、出す。二百五十枚要る」
女中頭は、しばらく黙っていた。それから、深く一礼した。
「……承知致しました。帳簿を持ってまいります」
*
その夜、るいとエルメンガルトは、卓の上に家の帳簿を全て広げた。三十年分ある。シュタインエック家の帳簿は、るいの父が始めたものである。父はこれを几帳面に付け、そして娘に読み方を教えた。ルイーゼは十二の年から家計の一部を任され、去年の申告書は彼女が組み立てた。そして今、その頭脳には、研究者として十七年間、別世界で帳簿や申請書に向き合ってきた記憶が重なっている。
「エルメンガルト。宮廷咒紋司への支給費目を出せ」
「此処に。俸禄、住居手当、咒晶石の維持費、それに紋帖の購入補助にございます」
「紋帖の購入補助。……これは、紙代ではないのか」
「紋帖をお買い求めになる際の補助にございます。書物を買う費目でして、紙そのものには……」
「規程を持ってこい」
規程の綴りが運ばれてくる。るいはそれを開き、該当の条を指で追った。
宮廷咒紋司には、職務上必要なる紋帖の
調製に要する費用を支給す。
「……調製、と書いてある」
「はい」
「購入とは書いていない」
「……はい」
「紋帖とは、紋の図録だ。私が届け出る三十七件は、承認されれば咒紋府の紋帖に収録される」
るいは、指で条文を叩いた。
「すなわち、これは紋帖の調製である」
エルメンガルトが、目を見開いた。
「……それは、」
「無理があるか」
「……大いに、ございます」
「うむ」
るいは、あっさり頷いた。
「だが、条文に反してはいない。反していないなら、通るまで出す。撥ねられたら理由を訊いて、書き直してまた出す。三度目で通らなければ、別の費目を探す」
女中頭は、しばらく主人の顔を見ていた。それから、恐る恐る訊いた。
「……帝國伯令嬢は、どこで其のようなことを覚えられたのですか」
るいは、笑った。
「お前の知らぬところでな」
*
結果を先に言えば、紋帖調製費の申請は通った。二度撥ねられ、三度目で通った。一度目は「紋帖の調製実績を証する書面が無い」という理由で、二度目は「調製の主体が咒紋府であって申請者ではない」という理由であった。三度目、るいはこう書いた。
届け出書に添付する紋の写しは、
承認後に紋帖に収録される図版そのものである。
従って本申請は、収録図版の調製に要する費用の請求である。
通った。支給額は、上物の紙百二十枚分。要る枚数の半分に満たぬが、家計から出す分と合わせれば、何とか届く。残りは、書き損じを減らすことで賄う。るいは下物の紙を大量に買い込み、まず下書きを全て下物で作ることにした。下物は障子や提灯に使う粗い紙で、値は上物の十分の一である。滲むし、筆は引っ掛かるし、紋の細かい線は潰れる。だが、下書きなら足りる。
『……ミスコピーの裏紙で計算してた頃と同じだな』
懐かしい、とは思わなかった。あの頃も惨めであったし、今も惨めである。ただ、惨めさには慣れている。
*
そして、一度目の提出である。咒紋府の一階、西の端に、届け出窓口がある。高い机の向こうに書記が座り、書類を受け取っては書式を検め、判を押すか、突き返すかする。るいが行った時、前には三人の咒紋司が並んでいた。一人目は、通った。二人目は、突き返された。三人目も、突き返された。二人とも、口の中で何か罵りながら去っていった。るいの番になった。書記は顔を上げない。四十前後の男である。痩せて、背が高く、指が長い。灰色の袖には墨が染みており、洗っても落ちぬ色になっている。
「……お出しください」
るいは、まず一件分だけ出した。氷の式である。最も単純で、最も自信のある一件を選んだ。書記は表紙を取り、本紙を取り、裏紙を取り、添付を数え、そして表紙に戻った。所要、十数秒。
「不備がございます」
書類が押し戻された。
「……何処でしょうか」
「規程により、不備の箇所は申し上げられません」
「……」
「次の方、どうぞ」
*
二度目は、三日後であった。るいは、書式の注記を三十回は読み返した。欄の順序、書き出しの位置、日付の表記、術者名の記し方。思い当たる不備は全て直した。押し戻された。
「不備がございます」
「……」
「次の方、どうぞ」
三度目は、更に五日後である。今度は、咒紋學院の書庫まで足を運び、過去の届け出書の受理例を七十件ばかり読んだ。文字の大きさ、余白の取り方、紋の写しの縮尺。それらを全て真似た。押し戻された。
「不備がございます」
「……」
るいは、押し戻された書類を見下ろした。下書きに費やした下物の紙が、既に百枚を超えている。上物は三枚、無駄になった。三枚で卵三十個である。背後に、次の咒紋司が並んでいる。窓の外は、もう暗い。書記は、既に次の書類に手を伸ばしかけている。
『……よし』
るいは、書類を胸に抱えたまま、その場を動かなかった。そして、高い机の向こうにいる書記に向かって、頭を下げた。深く。帝國伯令嬢が、書記に対して。
「……どこが違うのか、教えて頂けませんか」
*
窓口の周りが、静まり返った。書記の手が、止まった。背後に並んでいた咒紋司たちが、何事かとこちらを見ている。誰かが小さく息を呑む音がした。書記は、ゆっくりと顔を上げた。初めて、まともにるいの顔を見た。その表情は、驚愕でも、狼狽でもなかった。ただ、途方に暮れているように見えた。何十年もこの席に座り、何万枚の書類を捌いてきた男が、初めて出会った事態を前にして、対処の仕方を知らずにいる。そういう顔であった。
「……お顔を、お上げください」
「教えて頂けるまで、上げません」
「帝國伯令嬢」
「私は三度出して、三度撥ねられました。四度目も同じ結果になるでしょう。何処が違うのか判らぬ限り、私は永遠に同じ間違いを繰り返します。……紙が保ちません」
書記は、しばらく黙っていた。それから、背後の列を見た。次の咒紋司が、目を逸らした。
「……規程により、不備の箇所を窓口で申し上げることはできません」
「……」
「ですが、」
書記は、押し戻した書類の表紙を、指先で少しだけこちらに寄せた。そして、その表紙の左上を、爪の先で、一度だけ叩いた。
「……本日の受付は、終いにございます。皆樣、明日お越しください」
*
人が引けた窓口で、書記は帳面を閉じ、蝋燭を一本、机の上に立てた。そして、るいの書類の表紙を手に取った。
「……こちらに」
高い机を回り込んで、書記のいる側に入る。奥は狭い事務室になっており、書類の棚が壁を埋め尽くしていた。木の椅子が二脚あり、片方には書類が積んである。
「……お床に置いてください。順は崩さぬように」
どこかで聞いた台詞であった。るいが腰を下ろすと、書記は表紙を蝋燭の前に置いた。
「表題欄にございます」
「表題……」
「帝國伯令嬢は、ここに『氷結の式』とお書きになりました」
「はい。効果を端的に表したつもりですが」
「表題は、効果ではなく、紋の構成で書くのが慣例にございます」
るいは、目を瞬いた。
「……慣例」
「はい」
「規程には、そう書いていないと思いますが」
「書いてございません」
書記は、僅かに首を傾げた。
「ですが、慣例にございます」
るいは、その一言をしばらく噛み砕いた。そして、腹の底から理解した。
『……ああ、これだ』
これは、この世界に固有の何かではない。これは、|あらゆる役所にあるもの《・・・・・・・・・・・》である。規程には書いていない。しかし慣例で決まっている。慣例を知る者だけが通り、知らぬ者は永遠に撥ね返される。そして誰も教えてくれぬのは、意地悪だからではなく、其れが慣例であることを、当人たちが意識していないからだ。彼らにとって、其れは空気と同じである。
「……他にもありますか」
「六箇所ほど」
「六箇所」
「はい」
書記は、本紙を蝋燭の前に置いた。
「効果欄の書き出しは、動詞で始めるのが慣例にございます。帝國伯令嬢は名詞でお始めになりました」
「……はい」
「日付は、天環暦のみ。學院暦の併記は、二十年前に廃されております。書式の注記が改められておりませんので、今も併記なさる方が多くいらっしゃいます」
「……注記が、古いままだと」
「はい。改める手続きが、十九年前から止まっております」
るいは、天井を仰ぎたくなった。
『……止まっている理由も、大方判るぞ』
誰かが改正案を出し、誰かの机の上で止まり、その誰かが異動になり、後任が経緯を知らず、そのまま十九年。──よくある話である。実によくある話である。
「続けてください」
「はい」
書記は、六箇所を全て教えた。途中から、るいは下物の紙を出して書き取り始めた。書記はそれを見て、僅かに間を置いてから、話す速さを落とした。書き取りやすいように。
*
全てを聞き終えた時、蝋燭は半ばまで減っていた。
「……助かりました。ありがとうございます」
るいは頭を下げた。書記は、また困ったような顔をした。
「……お止めください」
「何故です」
「其のようなことをなさるお方は、いらっしゃいませんので」
「私はします」
「……」
「教えて頂いたのですから、礼を言うのが筋でしょう」
書記は、蝋燭の芯を摘んで、少し切った。手元が明るくなる。
「……帝國伯令嬢」
「はい」
「差し出がましいことを申し上げます」
「どうぞ」
書記は、るいの書類の、裏紙を手に取った。紋の配列を記す紙である。
「こちらの紋の並びは、私には読めません。読めませんが、其れが綺麗であることは判ります。二十二年、この席で紋の写しを見てまいりましたので」
「……」
「其れだけ綺麗な紋をお組みになる方が、書式の些細なところで三度も撥ねられて、それでも四度目をお持ちになった。……申し上げますが、そういう方は稀にございます。大抵は、二度目で怒鳴られます。三度目で、私の頭を越えて上に苦情が参ります」
書記は、裏紙を丁寧に揃えて、るいの方に戻した。
「……最後まで、お出しになってください」
「はい」
「三十七件と伺っております」
るいは、顔を上げた。
「……ご存知でしたか」
「私共は、書類を回す者にございますので」
書記は、初めて、僅かに笑った。
「……お手伝いは、できません。規程がございますので。ですが、」
彼は、机の下から古びた綴りを一冊取り出した。表紙に、こう書いてある。
届け出書 受理例集 第四座台帳係 編
「……こちらは、貸出ができません。持ち出しも禁じられております」
「……」
「ですが、此処でお読みになる分には、規程に触れません。窓口の閉まった後であれば、私が此処に居ります」
*
屋敷に帰ったのは、真夜中であった。門で待っていたエルメンガルトが、ひどく怒った顔をしていたが、るいの手にある書き取りの束を見て、何も言わなかった。自室に入り、蝋燭を灯し、るいは書き取りを読み返した。六箇所の慣例、二十年前に廃された暦の併記、十九年止まっている書式の改正。そして、受理例集という綴りの存在。
『……名前を、訊き忘れたな』
ふと気付いた。二刻も向かい合って教えを受けておきながら、るいはあの書記の名を訊いていなかった。あちらもまた、名乗らなかった。この帝國において、書記は名乗らぬものなのである。貴族が書記の名を訊くこともない。
『……次に行った時に、訊こう』
るいは、下書きの紙を広げた。三十七件。表紙、本紙、裏紙、そして紋の写し。窓の外が白み始めるまで、筆の音が続いた。




