↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
るい's Journey!  作者: コリドラスA
第一章『咒紋府』
8/22

第漆節『書式』 Der siebte Abschnitt : “Formular”

天環暦2108年12月12日。


 屋敷に戻って最初にやったのは、費用の計算である。るい(・・)は自室の机に懐の白紙を広げ、注記を端から端まで読んだ。届け出書は一件につき三枚。表題と分類と術者を記す表紙、効果と適用範囲を記す本紙、そして紋の配列を記す裏紙。加えて、添付として紋(もん)の写しを求める旨の注記がある。紋の写しは、一件につき最低一枚。複合式であれば、構成する紋の数だけ要る。

『……三十七件』

 筆を執って計算する。表紙・本紙・裏紙で百十一枚。紋の写しは、単純な式で一枚、複合式で三枚から五枚。平均を三枚と見れば百十一枚。合計、二百二十二枚。書き損じを見込めば、二百五十枚は要る。るい(・・)は、しばらく数字を見つめていた。届け出書は上物の紙でなければ受理されない。書式の注記に、そう書いてある。咒紋府(じゅもんふ)の紋帖に収録される以上、百年保つ紙でなければならぬ、という理屈である。上物の紙は、一枚が卵十個。二百五十枚で、卵二千五百個。屋敷の使用人五人が、二月ほど食える額であった。

『……なるほど』

 るい(・・)は、椅子の背に体を預けた。

『これは、兵糧攻(ひょうろうぜ)めも兼ねているのか』

 あの老人が、そこまで計算していたかどうかは判らない。あるいは、計算するまでもなく当たり前のことなのかもしれぬ。上物の紙を二百五十枚買うことなど、真の帝國伯であれば何ということもないのだ。称号伯にとってのみ、これは重い。制度は誰も差別していない。ただ、同じ額が同じ重さではない、というだけである。

『……久しぶりだな、この感じ』

 塁であった頃、研究費の申請書を書くのに、コピー代と製本代が自腹だったことを思い出した。教授の部屋には潤沢な事務予算があり、彼の申請書は事務員が製本してくれた。塁の申請書は、深夜のコンビニで彼自身が刷った。制度は誰も差別していなかった。


          *


「エルメンガルト」

「はい、帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)」

「今年の紙の残りは、どれほどある」

 几帳面な女中頭は、即座に答えた。

「上物が十四枚、中物が六十枚ほど。下物は充分にございます」

「……十四枚か」

「はい。年始に仕入れました分の残りにございます。……何かお使いになりますか」

「二百五十枚要る。上物で」

 エルメンガルトの表情が、静かに凍った。

「……失礼ながら、帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)。もう一度仰(おっしゃ)って頂けますか」

「二百五十枚。上物。三月以内に」

「……」

 女中頭は眼鏡の位置を直し、それから深く息を吸った。

「不可能にございます」

「言うと思った」

「今年の家計から捻出できる紙代は、多く見積もっても上物三十枚分。其(そ)れも、他の一切を切り詰めた上での話にございます。冬の薪を減らし、ユリアーネの厨房の予算を削り、庭師を解いて、漸(ようや)く三十枚。……二百五十枚など、どこを叩いても出てまいりません」

「うむ」

「其(そ)れは、何にお使いになるものですか」

「咒紋府への届け出だ。三十七件。出さねば免許を失う」

 エルメンガルトの顔から、血の気が引いた。

「……免許を」

「失えば俸禄も失う。俸禄を失えば、この屋敷は保たぬ。お前達の給金も出ぬ」

「……」

「だから、出す。二百五十枚要る」

 女中頭は、しばらく黙っていた。それから、深く一礼した。

「……承知致しました。帳簿を持ってまいります」


          *


 その夜、るい(・・)とエルメンガルトは、卓の上に家の帳簿を全て広げた。三十年分ある。シュタインエック家の帳簿は、るい(・・)の父が始めたものである。父はこれを几帳面に付け、そして娘に読み方を教えた。ルイーゼは十二の年から家計の一部を任され、去年の申告書は彼女が組み立てた。そして今、その頭脳には、研究者として十七年間、別世界で帳簿や申請書に向き合ってきた記憶が重なっている。

「エルメンガルト。宮廷咒紋司への支給費目を出せ」

「此処(ここ)に。俸禄、住居手当、咒晶石(ツァウバシュタイン)の維持費、それに紋帖(ムスターブーフ)の購入補助にございます」

「紋帖の購入補助。……これは、紙代ではないのか」

「紋帖(ムスターブーフ)をお買い求めになる際の補助にございます。書物を買う費目でして、紙そのものには……」

「規程を持ってこい」

 規程の綴りが運ばれてくる。るい(・・)はそれを開き、該当の条を指で追った。

 宮廷咒紋司には、職務上必要なる紋帖(ムスターブーフ)の

 調製に要する費用を支給す。

「……調製、と書いてある」

「はい」

「購入とは書いていない」

「……はい」

「紋帖(ムスターブーフ)とは、紋の図録だ。私が届け出る三十七件は、承認されれば咒紋府の紋帖に収録される」

 るい(・・)は、指で条文を叩いた。

「すなわち、これは紋帖の調製(・・・・・・・・)である(・・・)」

 エルメンガルトが、目を見開いた。

「……それは、」

「無理があるか」

「……大いに、ございます」

「うむ」

 るい(・・)は、あっさり頷いた。

「だが、条文に反してはいない。反していないなら、通るまで出す。撥ねられたら理由を訊いて、書き直してまた出す。三度目で通らなければ、別の費目を探す」

 女中頭は、しばらく主人の顔を見ていた。それから、恐る恐る訊いた。

「……帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)は、どこで其(そ)のようなことを覚えられたのですか」

 るい(・・)は、笑った。

「お前の知らぬところでな」


          *


 結果を先に言えば、紋帖調製費の申請は通った。二度撥ねられ、三度目で通った。一度目は「紋帖の調製実績を証する書面が無い」という理由で、二度目は「調製の主体が咒紋府であって申請者ではない」という理由であった。三度目、るい(・・)はこう書いた。

 届け出書に添付する紋(もん)の写しは、

 承認後に紋帖に収録される図版そのものである。

 従って本申請は、収録図版の調製に要する費用の請求である。

 通った。支給額は、上物の紙百二十枚分。要る枚数の半分に満たぬが、家計から出す分と合わせれば、何とか届く。残りは、書き損じを減らすことで賄う。るい(・・)は下物の紙を大量に買い込み、まず下書きを全て下物で作ることにした。下物は障子や提灯に使う粗い紙で、値は上物の十分の一である。滲むし、筆は引っ掛かるし、紋の細かい線は潰れる。だが、下書きなら足りる。

『……ミスコピーの裏紙で計算してた頃と同じだな』

 懐かしい、とは思わなかった。あの頃も惨めであったし、今も惨めである。ただ、惨めさには慣れている。


          *


 そして、一度目の提出である。咒紋府の一階、西の端に、届け出窓口がある。高い机の向こうに書記が座り、書類を受け取っては書式を検め、判を押すか、突き返すかする。るい(・・)が行った時、前には三人の咒紋司が並んでいた。一人目は、通った。二人目は、突き返された。三人目も、突き返された。二人とも、口の中で何か罵りながら去っていった。るい(・・)の番になった。書記は顔を上げない。四十前後の男である。痩せて、背が高く、指が長い。灰色の袖には墨が染みており、洗っても落ちぬ色になっている。

「……お出しください」

 るい(・・)は、まず一件分だけ出した。氷の式である。最も単純で、最も自信のある一件を選んだ。書記は表紙を取り、本紙を取り、裏紙を取り、添付を数え、そして表紙に戻った。所要、十数秒。

「不備がございます」

 書類が押し戻された。

「……何処でしょうか」

「規程により、不備の箇所は申し上げられません」

「……」

「次の方、どうぞ」


          *


 二度目は、三日後であった。るい(・・)は、書式の注記を三十回は読み返した。欄の順序、書き出しの位置、日付の表記、術者名の記し方。思い当たる不備は全て直した。押し戻された。

「不備がございます」

「……」

「次の方、どうぞ」

 三度目は、更に五日後である。今度は、咒紋學院(アカデミア)の書庫まで足を運び、過去の届け出書の受理例を七十件ばかり読んだ。文字の大きさ、余白の取り方、紋の写しの縮尺。それらを全て真似た。押し戻された。

「不備がございます」

「……」

 るい(・・)は、押し戻された書類を見下ろした。下書きに費やした下物の紙が、既に百枚を超えている。上物は三枚、無駄になった。三枚で卵三十個である。背後に、次の咒紋司が並んでいる。窓の外は、もう暗い。書記は、既に次の書類に手を伸ばしかけている。

『……よし』

 るい(・・)は、書類を胸に抱えたまま、その場を動かなかった。そして、高い机の向こうにいる書記に向かって、頭を下げた。深く。帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)が、書記に対して。

「……どこが違うのか、教えて頂けませんか」


          *


 窓口の周りが、静まり返った。書記の手が、止まった。背後に並んでいた咒紋司たちが、何事かとこちらを見ている。誰かが小さく息を呑む音がした。書記は、ゆっくりと顔を上げた。初めて、まともにるい(・・)の顔を見た。その表情は、驚愕でも、狼狽でもなかった。ただ、途方(とほう)に暮れているように見えた。何十年もこの席に座り、何万枚の書類を捌いてきた男が、初めて出会った事態を前にして、対処の仕方を知らずにいる。そういう顔であった。

「……お顔を、お上げください」

「教えて頂けるまで、上げません」

「帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)」

「私は三度出して、三度撥ねられました。四度目も同じ結果になるでしょう。何処が違うのか判らぬ限り、私は永遠に同じ間違いを繰り返します。……紙が保ちません」

 書記は、しばらく黙っていた。それから、背後の列を見た。次の咒紋司が、目を逸らした。

「……規程により、不備の箇所を窓口で申し上げることはできません」

「……」

「ですが、」

 書記は、押し戻した書類の表紙を、指先で少しだけこちらに寄せた。そして、その表紙の左上を、爪の先で、一度だけ叩(たた)いた。

「……本日の受付は、終(しま)いにございます。皆樣、明日お越しください」


          *


 人が引けた窓口で、書記は帳面を閉じ、蝋燭を一本、机の上に立てた。そして、るい(・・)の書類の表紙を手に取った。

「……こちらに」

 高い机を回り込んで、書記のいる側に入る。奥は狭い事務室になっており、書類の棚が壁を埋め尽くしていた。木の椅子が二脚あり、片方には書類が積んである。

「……お床に置いてください。順は崩さぬように」

 どこかで聞いた台詞であった。るい(・・)が腰を下ろすと、書記は表紙を蝋燭の前に置いた。

「表題欄にございます」

「表題……」

「帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)は、ここに『氷結の式』とお書きになりました」

「はい。効果を端的に表したつもりですが」

「表題は、効果ではなく(・・・・・・)、紋の構成(・・・・)で書くのが慣例にございます」

 るい(・・)は、目を瞬(しばた)いた。

「……慣例」

「はい」

「規程には、そう書いていないと思いますが」

「書いてございません」

 書記は、僅かに首を傾げた。

「ですが、慣例にございます」

 るい(・・)は、その一言をしばらく噛み砕いた。そして、腹の底から理解した。

『……ああ、これだ(・・・)』

 これは、この世界に固有の何かではない。これは、|あらゆる役所にあるもの《・・・・・・・・・・・》である。規程には書いていない。しかし慣例で決まっている。慣例を知る者だけが通り、知らぬ者は永遠に撥ね返される。そして誰も教えてくれぬのは、意地悪だからではなく、其(そ)れが慣例であることを、当人たちが意識していないからだ。彼らにとって、其(そ)れは空気と同じである。

「……他にもありますか」

「六箇所ほど」

「六箇所」

「はい」

 書記は、本紙を蝋燭の前に置いた。

「効果欄の書き出しは、動詞で始めるのが慣例にございます。帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)は名詞でお始めになりました」

「……はい」

「日付は、天環暦のみ。學院暦の併記は、二十年前に廃されております。書式の注記が改められておりませんので、今も併記なさる方が多くいらっしゃいます」

「……注記が、古いままだと」

「はい。改める手続きが、十九年前から止まっております」

 るい(・・)は、天井を仰ぎたくなった。

『……止まっている理由も、大方判るぞ』

 誰かが改正案を出し、誰かの机の上で止まり、その誰かが異動になり、後任が経緯を知らず、そのまま十九年。──よくある話である。実によくある話である。

「続けてください」

「はい」

 書記は、六箇所を全て教えた。途中から、るい(・・)は下物の紙を出して書き取り始めた。書記はそれを見て、僅かに間を置いてから、話す速さを落とした。書き取りやすいように。


          *


 全てを聞き終えた時、蝋燭は半ばまで減っていた。

「……助かりました。ありがとうございます」

 るい(・・)は頭を下げた。書記は、また困ったような顔をした。

「……お止めください」

「何故です」

「其(そ)のようなことをなさるお方は、いらっしゃいませんので」

「私はします」

「……」

「教えて頂いたのですから、礼を言うのが筋でしょう」

 書記は、蝋燭の芯を摘(つま)んで、少し切った。手元が明るくなる。

「……帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)」

「はい」

「差し出がましいことを申し上げます」

「どうぞ」

 書記は、るい(・・)の書類の、裏紙を手に取った。紋の配列を記す紙である。

「こちらの紋の並びは、私には読めません。読めませんが、其(そ)れが綺麗である(・・・・・)ことは判ります。二十二年、この席で紋の写しを見てまいりましたので」

「……」

「其(そ)れだけ綺麗な紋をお組みになる方が、書式の些細なところで三度も撥ねられて、それでも四度目をお持ちになった。……申し上げますが、そういう方は稀にございます。大抵は、二度目で怒鳴られます。三度目で、私の頭を越えて上に苦情が参ります」

 書記は、裏紙を丁寧に揃えて、るい(・・)の方に戻した。

「……最後まで、お出しになってください」

「はい」

「三十七件と伺っております」

 るい(・・)は、顔を上げた。

「……ご存知でしたか」

「私共は、書類を回す者にございますので」

 書記は、初めて、僅かに笑った。

「……お手伝いは、できません。規程がございますので。ですが、」

 彼は、机の下から古びた綴りを一冊取り出した。表紙に、こう書いてある。

 届け出書 受理例集  第四座台帳係 編

「……こちらは、貸出ができません。持ち出しも禁じられております」

「……」

「ですが、此処(ここ)でお読みになる分には、規程に触れません。窓口の閉まった後であれば、私が(・・)此処《ここ》に居ります(・・・・)」


          *


 屋敷に帰ったのは、真夜中であった。門で待っていたエルメンガルトが、ひどく怒った顔をしていたが、るい(・・)の手にある書き取りの束を見て、何も言わなかった。自室に入り、蝋燭を灯し、るい(・・)は書き取りを読み返した。六箇所の慣例、二十年前に廃された暦の併記、十九年止まっている書式の改正。そして、受理例集という綴りの存在。

『……名前を、訊き忘れたな』

 ふと気付いた。二刻も向かい合って教えを受けておきながら、るい(・・)はあの書記の名を訊いていなかった。あちらもまた、名乗らなかった。この帝國において、書記は名乗らぬものなのである。貴族が書記の名を訊くこともない。

『……次に行った時に、訊こう』

 るい(・・)は、下書きの紙を広げた。三十七件。表紙、本紙、裏紙、そして紋の写し。窓の外が白み始めるまで、筆の音が続いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。