第陸節『規程』 Der sechste Abschnitt : “Verordnung”
天環暦2108年12月08日。
差出人の欄にあるのは、ユリアーネの名であった。
『……ああ』
驚きは、無かった。あの朝のことは、はっきりと覚えている。厨房を取り仕切る薬師が、盆を置いてから其処を動かず、前掛けの端を握って言ったのだ。差し出がましいことを申し上げます、と。三十年治療術をやってきた。骨がどう並ぶか、どう継がれるか、其れくらいは存じております。歪んだ背骨は、幾ら手を尽くしても真っ直ぐにはなりません。噛み合わせを直すのに、幼子でも三年、四年は掛かります。其れが、一日で、傷一つ無く。何処にも異常が無いことが、私には恐ろしいのです、と。
目を赤くして、頭を下げて、協会に伺いを立ててもよろしいかと訊いた。お名前は伏せます、お屋敷のことも申しません、ただ後々お体に障りが出ぬものかどうか、其れだけを伺いたいのです、と。そして自分は、微笑んで答えたのだ。ああ、構わない…心配をかけたな、と。悪くない朝だと思った。冷めかけた薬湯が、妙に旨かったことまで覚えている。
『……あの判断は、間違っていない』
断る理由が無かった。断れば却って不自然であった。何よりあの心配は本物であり、三十年勤めた薬師が値の張る紙を一枚割いてまで案じてくれたものを、頭ごなしに退けるほど、常磐塁は対人関係が下手ではない。正しい判断であった。ただ、正しい判断が良い結果を招くとは限らぬ、というだけの話である。
「……これは、貴殿の屋敷の薬師が出したものだ」
「はい」
「よく仕えておられる」
老人の声には、皮肉も揶揄も無かった。ただ事実を述べる調子であった。
「……はい」
るいは、ユリアーネを咎める気には、微塵もなれなかった。あれは職務である。治療術師が説明のつかぬ症例を見て、上位の機関に問い合わせるのは、正しい行いである。醫者が異常な症例を黙っている方が、よほど質が悪い。そして協会の書記は、規程に従って咒紋府に回付した。これも全く以って正しい。既知の咒紋術にて説明つかざる事例は、之を咒紋府に報ずべし。協会の規程にそう書いてある。誰も間違えていない。
「……薬師は、職務を果たしたまでかと存じます」
「うむ」
ゲーアハルトは、二枚の紙を並べて置いた。右に咒晶石の読み取り記録。左に治療術師協会の照会。この二枚は、悪意なく、規程通りに、別々の経路を辿ってこの机まで来たのだ。片方は咒紋府の内部を、片方は協会から回付されて。誰も陰謀を企ててはいない。誰もるいを陥れようとはしていない。紙が、ただ、正しく流れただけである。
「規程に照らせば、」
老人は、静かに言った。
「貴殿は免許を剥奪されるべきだ」
*
咒紋府規程は、免許保持者に対して幾つかの禁止事項を定めている。一、人体への直接的な咒紋式の展開。ただし癒系を除く。二、未登録の新式の実用。新たに組んだ式は、咒紋府に届け出て承認を得ること。三、紋の原理の探究。四、咒晶石の売買・譲渡。相続を除く。五、遺跡への無許可の立入。平時には、これらは殆ど適用されない。誰も咎めぬし、咎める必要もない。村の産婆が『止血』を使うたびに届け出ていたら、咒紋府の紙が幾らあっても足りぬ。石工が『穿孔』を少し工夫したところで、誰も新式などとは言わぬ。
適用されるのは、誰かを追い落とす時だけである。
「一と二に、明白に抵触しておる」ゲーアハルトは、指を二本立てた。「癒系以外の紋を人体に展開した。しかも自分の身体に。そして、その式は一件も届け出られておらぬ」
「……はい」
「数えたところ、」
老人は、三枚目の紙を出した。こちらは咒紋府の内部書式である。細かい表になっており、日付と、式の種別と、深度が並んでいる。
「六百四十七件のうち、既存の紋の単純な写しと見做せるものを除き、新式と判定されるものが、三十七件」
るいは、その表を見た。精確であった。組んだ順に並んでおり、どれを新式と判定したかも明示されている。判定は妥当であった。るい自身が見ても、この三十七件は確かに新しい。
『……よく調べたな』
この表を作るのに、何人がかりで何日かかったのか。第四座の台帳係が、あの読み取り記録を一件ずつ解析したのだ。誰かの机の上で、蝋燭を燃やしながら、あの膨大な履歴を一件ずつ照合して、既存の紋と突き合わせて、判定を下したのである。なるほど、この役所は仕事をしている。
「三十七件。免許剥奪には、十分に過ぎる」
「……ご処分は、謹んでお受け致します」
るいは頭を下げた。言い訳をする気は無かった。事実は事実であり、規程は規程である。此処で泣き言を言えば、この老人は二度とこちらを人として扱うまい。十七年、そういう場面を幾つも見てきた。詫びるべきは詫び、争うべきは争う。順序を間違えれば、争う機会そのものが失われる。ところが。
「処分はせぬ」
老人は、あっさりと言った。
「……は?」
「せぬと言うておる」
るいは顔を上げた。ゲーアハルトは、机の上の書類の山の一つから、また別の紙を抜き出した。今度は白紙である。何も書かれていない、真新しい書式であった。
「条件がある」
「……何でございましょう」
老人は、その白紙をるいの前に滑らせた。
「届け出られよ」
「……」
「三十七件、全て。書式に従って、正確に」
*
白紙を見つめながら、るいの頭脳は猛烈な速度で回転していた。届け出書の書式である。表題欄、分類欄、術者欄、効果欄、紋の配列を記す欄、そして添付として紋の写しを求める旨の注記。これを埋めるということは、自分の組んだ式の全てを、咒紋府に開示するということである。そして咒紋府規程には、こうある。届け出られ、承認された新式は、咒紋府の紋帖に収録される。収録された紋は、免許保持者に対して公開される。つまり。
『……取られるのか』
三十七件の技法は、全て咒紋府のものになる。るいが組んだ式を、他の咒紋司が使えるようになる。氷の式も、電気パルスの式も、骨格再構成の手順も。断れば、免許剥奪。出せば、技を取られる。実に見事な二択であった。
『……いや』
るいは、白紙の分類欄を見た。九系統のいずれかを記す欄である。熾系、牽系、断系、守系、観系、報系、癒系、潜系、卜系。それだけである。欄は小さく、書ける文字は五つか六つ。
『……この欄に、何と書けばいい』
氷の式は、熾系の紋を反転させたものである。効果は冷却であって発熱ではない。熾系と書けば、効果欄と矛盾する。かと言って、他の八系統のどれでもない。骨格再構成は、牽系と断系と潜系の複合である。効果としては癒系に近いが、癒系の紋は一つも使っていない。電気パルスは、熾系の『電撃』を組み替えたものだが、効果は除痛と筋収縮である。
『……どれも、何系でもない』
そして、るいは理解した。この老人は、技を取ろうとしているのではない。届け出よと言いながら、届け出られぬことを知っているのだ。分類できぬ式は、受理されない。規程に無いからである。受理されぬまま期限が過ぎれば、それは未届け出のままであり、処分の理由は消えない。実に見事な三択であった。いや、三択ですらない。断っても出しても、結果は同じである。
しかも老人は、剥奪すると言ったのではなく、「されるべきだ」と言った。処分を下したのではなく、規程がそう定めている、と述べただけである。この老人は、何一つ自分では決めていない。決めているのは全て規程であり、書式であり、紙である。手は、一度も汚れていない。
『……なるほど』
るいは、白紙を丁寧に折り畳んで、懐に納めた。
「承知致しました」
「……ほう」
「期限は、何時までにございましょう」
「三月」
「承知致しました」
るいは立ち上がり、深く一礼した。ゲーアハルトは、今度は少しだけ訝しげな目でこちらを見た。老人は、何か言おうとして、やめた。そして、また書類に目を落とした。
「下がられよ」
「失礼致します」
退出しようと扉に手を掛けたところで、老人の声が背中に届いた。
「……シュタインエック伯令嬢」
「はい」
「貴殿の父君を、私は知っておる」
るいは振り返った。老人は書類を見たままであった。
「真面目な男であった。器用ではなかったが」
「……恐れ入ります」
「其れだけだ。下がられよ」
*
廊下に出て、扉を閉め、るいは数歩歩いたところで足を止めた。両側の扉の向こうから、相変わらず紙を捲る音がしている。誰も彼もが手元の書類しか見ていない。懐の白紙が、僅かに嵩張っている。
『……書式に従って、正確に、か』
るいは、天井を仰いだ。研究者として十七年、この種の戦いばかりやってきた。研究予算の申請書、倫理審査の免除申請、設備購入の稟議、輸入許可の申請、装置の耐圧試験報告書、備品の年度末報告。どれもこれも、書式に合わぬものは受理されない。窓口の職員は書式しか見ない。中身がどれほど画期的であろうと、欄が一つ空いていれば突き返される。そして、その度に彼は、書式の方を研究してきたのである。
規程を読み、条文を読み、注釈を読み、過去の受理例を読み、そして必ず、通る書き方を見つけ出してきた。時にはかなり際どいこともやった。研究費の費目を組み替え、装置を消耗品として計上し、控除を三重に取り、監査で冷や汗をかいたことも一度や二度ではない。あれを、良い行いだとは思わない。だが、あの経験だけは、この世界の誰も持っていない。そして。
『……ルイーゼの方も、な』
シュタインエック家は、帝國伯位に付随する領邦を持たぬ称号伯である。爵禄も僅かで、家の実入りは代々の咒紋司としての俸禄と、猫の額ほどの家産地からの上がりだけであった。その僅かな財で家を保ち、娘を咒紋學院に上げ、屋敷を維持し、五人の使用人を養ってきた。どうやってきたか…帳簿である。爵位に付随する免除規定、宮廷咒紋司への支給費目、學院の奨學規程、貴族の相続に関する諸法、都市に対する通行税の減免、教会への喜捨の控除。それらを一つ残らず把握し、取れるものは全て取り、払わずに済むものは一銭も払わずに来たのだ。
父はそれを娘に教えた。十五歳のルイーゼは、既に家の帳簿の全てを読める。読めるどころか、去年の申告は彼女が組み立てたものであった。二人分の記憶が、此処で綺麗に重なっていた。科学者としての塁。咒紋司としてのルイーゼ。全く異なる世界を生き、全く異なる學問を修めた二人が、そのどちらの人生においても、同じことをやってきたのである。すなわち、書類と規程の隙間を探すことを。
『……三十七件、全部出してやろうじゃないか』
るいは歩き出した。廊下の突き当たりで、書類の束を抱えた書記とすれ違う。相手はこちらを見もしない。るいは、その背中に向かって、小さく頭を下げた。
『……宜しく頼む。これから三月、随分と世話になる』




