第伍節『召喚』 Der fünfte Abschnitt : “Vorladung”
天環暦2108年12月07日。
咒紋府は、皇宮の東に隣接する石造りの建物である。外観は極めて地味で、装飾らしい装飾もなく、ただ大きい。窓は小さく、数だけは無闇に多い。帝國の権力の中枢の一つでありながら、その佇まいは倉庫か何かのようであった。入口を潜ると、独特の匂いがする。紙と、埃と、蝋と、それから僅かな黴の匂い。るいは、この匂いを知っている。ルイーゼの記憶にある匂いであり、同時に、塁の記憶にある匂いでもあった。
『……大学の事務棟と同じ匂いだな』
異世界に来て二ヶ月余り、初めて懐かしさというものを感じた。何とも情けない話である。案内の書記に従って長い廊下を歩く。両側の扉の向こうからは、絶えず紙を捲る音と、筆の走る音が漏れてくる。時折、扉が開いて書記が出てきて、書類の束を抱えて別の扉に消えてゆく。誰もるいを見ない。宮廷咒紋司第十三座が来たというのに、誰一人として顔を上げない。挨拶もない。彼らにとって、るいは廊下を通過する物体の一つに過ぎないようであった。
『……これは、随分と嫌われているな』と一瞬考えたが、観ているとどうやらそうではない。彼らはるいだけを無視しているのではなく、誰も彼もを無視しているのだ。手元の書類以外、この世に存在しないかのような顔つきをしている。
『……ああ、これは知っている』
締切に追われた研究室の空気そのものである。るいは少しだけ安堵した。三階の突き当たり、他と何も変わらぬ扉の前で、案内の書記が足を止めた。
「第一座がお待ちです」
「ありがとう」
書記は一瞬、訝しげな顔をした。それから小さく頭を下げて、足早に去っていった。扉を押す。
*
部屋は、想像していたものより遥かに狭かった。宮中伯を兼ねる帝國第一の咒紋司の執務室である。るいは無意識のうちに、豪奢な調度と分厚い絨毯を予想していたのだが、其処にあるのは書棚と机と椅子だけであった。しかも書棚は天井まで書類で埋まり、机の上にも書類の山が幾つも聳え立ち、床にすら書類の束が積まれている。窓は小さく、光が足りない。机の上で、蝋燭が二本、細々と燃えている。その向こうに、老人が座っていた。ゲーアハルト宮中伯。宮廷咒紋司第一座。六十半ばか、あるいはもう少し上か。髪は薄く、白い…痩せている。額の咒晶石は深い藍色で、光の揺らめきは、ほとんど動いていない。彼は書類から目を上げなかった。
「シュタインエック伯令嬢にございます」
るいは名乗り、一礼した。
「ああ」
ゲーアハルトは、それだけ言って、なお書類を読み続けた。一分、二分。るいは立ったまま待つ、でも腹は立たない。あちらでの十七年の研究者生活、この種の待たされ方は幾度も経験している。教授の部屋の前で、事務局の窓口で、企業の応接室で。待たされるのは、こちらに用がある側だからである。やがて老人は書類に何かを書き込み、それを右の山に移し、ようやく顔を上げた。
「座られよ」
椅子は一脚しかなく、その上にも書類が積まれていた。るいがそれを見ていると、ゲーアハルトは軽く手を振った。
「床に置かれよ。順は崩さぬように」
言われた通り、束を崩さぬよう慎重に床に移し、るいは腰を下ろした。
「……体は、もう良いのか」
「お陰樣で」
「四ヶ月であったな」
「はい」
「長い病であった」
「……はい」
それきり、老人は黙った。そして、机の上の紙の山から一枚を抜き出し、るいの前に置いた。指で、そっと押さえるようにして。
「これは、何かね」
*
紙は上物であった。シュタインエック家では滅多に使わぬ等級の紙である。咒紋府は、公式の記録にこの紙を使うのだ。書式は簡潔だった…上段に台帳番号…其の下に、るいの名。生年、移植年月日、移植施術者名。以下、余白。そして下段に、日付と、数字が二つ。一つは、通過した咒紋式の数。一つは、その最大深度。るいは、その二つの数字を見た。自分でも、こんなに使ったつもりはなかった。
『……六百四十七件』
丸一日の作業である。骨格の矯正、頭蓋の再構成、顎の解体と再接合、歯列の矯正。一つ一つの処置ごとに、範囲と強度を調整した式を組み直していた。数えたことはなかったが、なるほど、これだけ組めばそうもなろう。問題は、もう一つの数字の方であった。最大深度。これは咒紋式が咒氣のどの階層まで届いたかを示す値である。咒紋學院の教本では、日常の咒紋が一から三、熟練の咒紋司が組む大術で七か八、宮廷咒紋司の最高位が扱う式で十一か十二、とされている。教本には、その先が書かれていない。書かれていないのは、其処から先を組んだ者がいないからである。紙には、こう記されていた。最大深度 十九
「……」
るいは、しばらくその数字を見つめていた。
『……そんなに、深く潜っていたのか』
自覚は、全くなかった。ただ、自分の骨を直そうとしただけである。手元にある紋を組み替え、必要な精度が出るまで調整し、足りなければまた組み替えた。それだけのことだった。
「……自分の身体を、治しておりました」
嘘は吐かなかった。吐けば後で必ず崩れる。十七年、書類の世界で戦ってきた男の、これは体に染み付いた判断である。
「事故の後、寝たきりになっておりましたので。骨も折れておりましたし、元より背骨に歪みがございました。まとめて直そうと考えました」
「咒紋で」
「はい」
「治療術師を呼ばずに」
「呼んでも、直せぬと思いましたので」
これも事実である。癒系の紋は時を要する。骨を継ぐのに数十日、噛み合わせを直すのに三年、四年。四ヶ月寝たきりであった身に、更に数年の療養を重ねる気は、るいには無かった。
「……ほう」
初めて、老人の目がこちらを向いた。深い藍色の咒晶石の下、落ち窪んだ眼窩の奥から、ひどく静かな目がるいを見ていた。感情らしいものは何も読めない。怒りも、驚きも、興味すらも。ただ、観ていた。その視線を受けながら、るいはふと妙なことに気付いた。この老人は、まだ一度も、怒っていない。規程違反である。しかも前代未聞の数値である。呼びつけて叱責するのが筋であろうし、この帝國の高官の大半はそうするであろう。ところがこの老人は、書類を一枚置いて「これは何かね」と訊いただけであった。
『……この人は、答えを聴きに来ている』
叱るためではなく、確かめるために呼んだのだ。何を確かめているのかは、判らない。
「治療術師を呼んでも直せぬと、貴殿は判断した」老人は、ゆっくりと繰り返した。「……何故、そう判断した」
「癒系の紋は、時を要しますので」
「其れは誰でも知っておる。私が訊いておるのは、」
老人は、机の上で指を組んだ。
「癒系以外で直せると、貴殿は何故思ったのか、ということだ」
るいは、答えに詰まった。考えたこともなかった。骨が歪んでいるなら、正しい位置に動かせばよい。動かす紋は牽系にあり、削る紋は断系にあり、触れずに通す紋は潜系にある。それだけの話ではないか。だが、この世界の咒紋司は、そう考えないのだ。骨を治すのは癒系である。癒系以外の紋を体に向けることは、そもそも発想の外にある。九つの系統は、効き方で分けられた便宜上の区分に過ぎぬというのに、千年の間に、それは越えてはならぬ壁になっていた。
『……そうか。此処が違うのか』
るいは、この世界に来て初めて、自分と彼らの間にある溝の形を、正確に把握した。
「……骨は、」
言葉を選びながら、るいは答えた。
「石と同じものだと、考えましたので」
老人は、しばらく黙っていた。それから、溜息とも呼吸ともつかぬ音を、一つ漏らした。
「……石か」
「はい」
「石工の紋で、人の骨を削ったと」
「はい」
ゲーアハルトは、また書類に目を落とした。そして、二枚目の紙を出した。
*
二枚目は、一枚目より安い紙であった。治療術師協会の書式である。上段に受理の判、下段に回付の判。本文は短い。
十五歳女性。高度側弯および頭蓋非対称、咬合異常を有す。原因不明の急速な骨格再構成を確認。処置の痕跡なし。
既知の治療術にて説明つかず。同樣の症例の有無、および遠隔的予後につき、御指導を仰ぎたく。
差出人の欄に、見慣れた名があった。るいは、その名を、しばらく見ていた。




