第肆節『鍛錬』 Der vierte Abschnitt : “Ausbildung”
天環暦2108年11月01日。
塁があちらの世界で厨二病を発病し、世界征服の野望に燃えていた頃、一つの出会いがあった。電車の最寄駅近くで見た一枚の汚い手書き看板が切っ掛けである。
『真の強さを求む者来たれ。鼎流古武術道場 ℡090-1◯◯5-3◯◯3』
看板に書かれた電話番号に、つい掛けてしまった。それが運の尽きだった。日が暮れてから、呼び出された近所の公園に行ってみれば、浮浪者と見紛う、蓬髪にジャージ姿の老人が其処には立っていた。師匠との出会いである。その余りの胡散臭さに逆に『本物かもしれない……』と思ってしまったのは、かつての自分の不徳の致すところである。
鼎流などと流派の名称を名乗っていたが、どんなにネット検索しても未だかつてヒットしたことがない。武術をやっているという人間に聞いても全く噂にも聞いたことがないという。謎の限りである。ジジイの名はカナエ・テッシュウサイ“Kanae Teßhûsai”。それは、今尚、青春時代の黒歴史として海馬に深く刻まれて、消える気配がない。
月五万円で門外不出・秘伝の古武術を個人教授。後から考えると怪しさ満載のキャッチフレーズだが、厨二病を患っていた当時の塁にはそれがとてつもなく魅力的に見えた。家に帰ると、両親には簡単に詐欺に引っかかったことを咎められてこっぴどく説教されたが、翌日、師匠のトコロに話を断りに行ったら、今度は自宅まで強引に師匠が押しかけてきて、両親相手に何かがあったらしい。何があったかは知らないが、両親はそれっきりそれについては何も言わなくなった。
あれが果たして本当に古武術だったのかどうかは、未だに不明だ。幾つかの中国拳法のパクリのようにしか見えない型もあったし、大東流の真似っ子としか思えないような技も幾つも有った。完全な師匠の我流ではなかったのかとも思うほどだ。だが、その強さは間違いなく本物だった。
塁の両親は震える手で毎月封筒に五万円を包んで持たせ、師匠は週三回、日没後の近所の公園で塁に稽古を付けた。念入りなストレッチの後に、呼吸法・歩法などの基礎練習、型稽古。雨が降ろうが、雪が降ろうが、定期テストがあろうが、正月だろうが、高校受験だろうが、一切関係なし、一日の例外もなく三時間余りはみっちり扱かれた。そういう意味では本物だったのだろうか。
頭でっかちで厨二病的に妄想肥大した発想で始めた古武術の練習である。厨二病が治癒するとすぐに熱は冷め、すぐに武術道場(?)を辞めようとしたが、先方がそれを許してはくれなかった。あまりの苛酷さに嫌になって、練習をサボった時も有ったが、そんな時は師匠の方から実家に押しかけてきた。その時の恐怖に歪んだ両親の顔は未だに脳裏に焼き付いている。
師匠に対する恐怖から。ではあるが、塁は武術の修行を続け、それなりに上達した。何処から手配してきたかは不明だったが対外(野良)試合を組まされることが有り、幾度かは勝ち、幾度かは負けた。負けた時は更に修羅の如き特訓が待っていた。何の気紛れか、数回は師匠自身とのスパーリングもやったこともある。しかし、やればやるほどに師匠は強かったのだ、と思い知ることになる。師匠に手が届くと思えたことは一度もなかった。確かに実戦的で鬼のように強い師匠だったとは思う。
永遠につづくかと思われたそんな地獄のような日々。塁がその師匠から開放されたのは、大学三年の時である。突然である。或る夜、公園に行っても、師匠は来なかった。何が有ったのか分からない。その月の月謝も未払いなのに、銭にはウルサイ彼がどうして唐突に消えたのか、全く分からない。それっきりだ。もしかすれば密やかに亡くなったのかもしれないが、残念ながら全くそれはイメージ出来ない。あんなに苦しくて苦しくて、苦しみから早く開放されたかったのに、気がつくと、身についた習慣で毎日毎日自然に型稽古をやっている自分が居た。
大人になって、研究者になって、実験室に籠りっきりの生活を送るようになっても、身に染み付いた習慣で毎日何らかの形で鍛錬は続けていた。そして、それは何時からか、塁の人生に寄り添う掛け替えの無いものとなっていたのかも知れない。そんな、あちらの世界での記憶を想起しながら、るいは体を動かし始める。腰を落とした低い姿勢から、ゆっくりと『型』を形作ってゆく。重心の移動…呼吸。目に見えない微細な五体の捩り。かつて、塁の肉体で身に付けたそれを、ルイーゼの肉体で精密に正確に再現しようと試みる。
だが、身長も体重も骨格も筋肉の付き方も全く違う別人の肉体である。間合い一つからでも全然変わってくる。そうそう上手くは行かない。幾度も幾度も試行し、その度に違和感を覚え、修正を加える。『EMS』の咒紋式でしっかり鍛えたはずの筋肉が、関節が、靱帯が、悲鳴を上げる。歩法の一つをとってすら、ままならない。重心の移動一つも、思うに任せない。
脳細胞の一個一個を丁寧に末梢神経の一本一本に結びつけ、其処から放たれる信号を、筋線維の一本一本に送り届けるイメージ。全身から得られるあらゆる信号を統合し、全身に再発信する。細かく精密なイメージの形成。一転して何も考えない無我の境地での運動。しかも、意識しない部分で無数の思考が波のように寄せては返してゆく。ある部分の筋肉は限界を超えてフル稼働し、ある部分は意識するだけでは抜けない力を更に抜くことを要求される。
『型』はもちろん全てではない。しかし、一つの型が、無数の攻防に変化する。一つの型があらゆる攻撃への応手となる。無限のバリエーション。無限のバリエーションとなりうる『唯一つ』。『型』には無限の段階がある。丁寧に演じれば、初心者の『型』も熟練者の『型』も大差無いように一見──見える。しかし、其処には何層にも何層にも重ねられた深み。其処には果てしない隔たりがある。たゆまぬ努力・鍛錬・経験・練功を重ねて初めて一つ深みの階梯を降りることが出来る。そんな思いを込めて一つ一つ『型』を再現してゆく。
まだ、その足元にも追い付いていない。あの、あの老人の影を追って。ゆっくりと、ゆっくりと型を演じ、新しい肉体に馴染ませる。一旦付けた筋肉から無駄な部分を削ぎ落とす。静かなる力・密かなる力をその身に蓄える。丹田の呼吸で気を全身に巡らせてゆく。ふと、るいは動きを止めた。この世界で、この技を視た者は一人も居ない。咒紋司同士の争いというものを、ルイーゼの記憶で辿ってみる。互いに離れて立ち、式の速さと精度を競う。先に組み上げた方が勝つ。距離を詰めるという発想が、そもそも無い。
組み上げ途中の咒紋司の懐に入って、其の顎を打ち抜いたらどうなるか──ということを、この世界の誰一人として、考えたことがない。そして、其れを為すのが十五歳の令嬢であれば、誰も警戒すらせぬ。
『……ふむ』
るいは、無意識に舌なめずりをして──其れから、ルイーゼの側の羞恥心に叱られて、慌てて型稽古に戻った。
*
体調管理に口煩い、管理術に長けたエルメンガルトは、ルイーゼが新しく始めた妙ちきりんな『体操』について、変な動きの体操だとは思ったものの、特に激しい動きのないどことなく優雅な動きの体操なので、病気で鈍った身体をほぐして、手足を鍛えるにはいいと思い、ルイーゼの『考案』した体操を彼女が実施するのを特に気に留めなかった。
最古参の使用人で乳母でも有るアンネゲルトは、ルイーゼの何処かが大きく変わってしまったことを察知していた。だが、ルイーゼの表情は元気そうで、お嬢樣は何か吹っ切れたのかも、という具合に善意の解釈をしてくれて、暖かく見守ってくれていたようである。そして、ユリアーネである。
厨房を取り仕切る彼女は、自分の調合・処方した薬膳に反応してルイーゼの食欲が上がってくることを喜んでいた。色々と運動をするようになって、それからお腹が空くようになった事を好意的に解釈してくれたようで、倒れる前以上に食欲を示し、順調に回復するルイーゼのことを純粋に嬉しがってくれていた。その、純粋に嬉しがっている薬師が、或る朝、盆を置いてから其処を動かなかった。
「ユリアーネ?」
「……お嬢樣」
ユリアーネは、前掛けの端を握っていた。
「差し出がましいことを、申し上げます」
「言え」
「……あのお体の変わりようが、私にはどうしても説明がつきません」
薬師は顔を上げた。目の周りが少し赤い。
「三十年、治療術を遣ってまいりました。骨がどう並ぶか、どう継がれるか、其れくらいは存じております。……歪んだ背骨は、幾ら手を尽くしても、真っ直ぐにはなりません。噛み合わせを直すのに、幼子でも三年、四年は掛かります。其れが、一日で、傷一つ無く」
「……」
「先日から幾度も診させて頂きました。何処にも異常はございません。何処にも異常が無いことが、私には、恐ろしいのです」
るいは、黙って続きを待った。
「協会に、伺いを立てても宜しゅうございましょうか」
ああ、とるいは思った。
「お名前は伏せます。お屋敷のことも申しません。ただ、斯ような回復の例が過去にあったのかどうか、後々お体に障りが出ぬものかどうか、其れだけを伺いたいのです」
ユリアーネは、深く頭を下げた。
「……どうか」
るいの頭の中で、十七年分の判断力が、猛烈な速度で回った。断る理由が無い…──これが第一。断れば、却って不自然である。「調べてくれるな」と主人が言えば、隠したいものがあると告げているに等しい。エルメンガルトあたりが目敏く気付く。──これが第二。そして第三に、この女の心配は、本物である。三十年治療術を遣ってきた人間が、前掛けを握りしめて、目を赤くして、頭を下げている。これを頭ごなしに退けるほど、常磐塁は対人関係が下手ではない。というより、其れをやって取り返しがつかなくなった経験が、十七年のうちに何度もある。
身元は伏せると言っている。ならば、実害は無い。
「ああ、構わない」
るいは、微笑んで言った。
「心配させたのなら、済まなかった。次からは先に伝える」
ユリアーネの顔が、其の一言でほどけた。安堵と、それから、少しの涙。
「……有難うございます。有難うございます、お嬢樣」
何度も頭を下げて、薬師は厨房に戻っていった。るいは、冷めかけた薬湯を飲み干した。悪くない朝だ、と思った。
*
治療術師協会・オストハウプト支部に、一通の照会が届いたのは、其の三日後である。差出人はユリアーネ。文面は簡潔で、患者の身元は伏せられていた。
『十五歳女性。高度側弯および頭蓋非対称、咬合異常を有す。原因不明の急速な骨格再構成を確認。処置の痕跡なし。既知の治療術にて説明つかず。同樣の症例の有無、および遠隔的予後につき、御指導を仰ぎたく』
協会の書記は、この文面を三度読み返した。そして、決まりに従って、咒紋府に回付した。協会の規程にはこうある。──既知の咒紋術にて説明つかざる事例は、之を咒紋府に報ずべし。書記に他意は無い。ユリアーネにも他意は無い。そして其の頃、咒紋府の別の一室では、事故の後に採取された咒晶石の読み取り記録が、幾つも束ねられて、順に整理されていた。台帳番号、日付、通過した咒紋式の数と深度。其れは書類仕事であり、形式的なものである。
二つの書類が、どちらも悪意なく、どちらも規程通りに、同じ建物の中を移動していた。
*
るいが自宅療養とリハビリテーションに明け暮れるうち、二ヶ月が過ぎようとしていた。そんなシュタインエック邸を一人の客人が訪れる。
「ルイーゼ殿におかれましては、思っていたよりも元気そうで何よりです」
初老の紳士が爽やかな笑顔で語り掛けてくる。
「これは、イグナーツ“Ignaz”卿……いつの間に……。お恥ずかしいところをお見せ致しました」
型稽古の動作を止めて、るいは訪問者の方に向き直った。
「何やら変わった動きですな。どこかの舞踊の練習か何かですか?」
「いえ、事故のあと療養のベッド生活で鈍ってしまった体を少し動かしてやろうと……その、自分で考案した健康体操です」
「咒紋と學問に夢中で、体を動かすことには全く興味のない學者肌の才媛とばかり思っておりましたが、仲々どうして……運動や健康にも興味がお有りだったのですね」
「はい、健康を失くして、初めて健康の大切さが身に沁みました。今は、少し醫療の方面で咒紋の研究をやっております」
「は、は、は……実に、多芸でいらっしゃる」
「先々月は足腰まで萎えてしまって、起き上がることも出来ませんでした……情けない限りです……そこで、一念発起致しました」
「それは、素晴らしい回復ぶりですね」
彼は。ふ、と気になってるいの顔を覗きこむ。
「おや…………どこか、お顔が変わられたような……」
「お気づきになられましたか?少し特殊な咒紋術の技法で、体の歪みを取ることに成功したのです。体の歪みが取れれば、顔の歪みも正されます」
「おお、それは素晴らしい……道理で姿勢も随分と……」
るいの顔を改めて凝視し、更に少し離れて全身を上から下まで隈無く観察する。紳士のとぼけた表情に、大きな驚きの色彩が書き加えられる。
「……いや……しかし……こうして改めて見ると、随分と健康的で……お美しくなられた……」
イグナーツ卿が、軽く息を吐いて呟いた。
「これならば……『麗しの華』と謳われるダニエラ“Daniela”嬢にも匹敵する……いや、いやいや……それ以上の……」
「それは…………幾ら何でも、イグナーツ卿もお戯れが過ぎます……」
「いえいえ……。ま、まぁ、ご婦人の顔をあまりジロジロと眺めるのも、不躾な話ですな。……失礼致しました」
初老の紳士は軽く頭を下げる。
「……で、今日の訪問のご用件は、どういったものでしょうか?」
話が一段落したところで、るいの方から切り出す。余り迂遠で冗漫な会話は得意ではないのだ。
「あ、ああ、これはまたまた、失礼いたしました。……実は、今日は『第一座』の名代で参りました」
「『第一座』の?」
第一座とは、宮廷咒紋司筆頭、ゲーアハルト“Gerhardt”宮中伯のこと。同じ宮廷咒紋司とは言っても地位的には雲泥之差。ルイーゼも就任以来、数年間で一、二回しかお目に掛かったことのない偉い人である。
「ちゃんと回復してから……で、構わないから、近日中に咒紋府に顔を出すように……少し話をしたい……とのことです」
るいは、微笑んで頷いた。
「承知致しました。近日中に、必ず」
その後、お茶を飲み終えると、爽やかな笑顔とともにイグナーツ卿は帰っていった。門まで見送り、馬車が角を曲がるのを待って、るいは溜め息をついた。どう考えても、悪い予感しかしない召喚である。此処数年でルイーゼの実績は皆無なのだ。おまけに私的に行った咒紋実験の事故で、通算四ヶ月も病欠。宮廷にも咒紋府にも顔を出していない。
『これは……解雇かな……』
憂鬱なタメ息と共に脳裏をよぎる。
『ま、そろそろかな……とは覚悟していたけれど……』
そう考えて、るいは屋敷に戻っていった。其れ以外の可能性を、其の時の彼女は、一つも思い浮かべなかった。なお、イグナーツ卿は、本当にただの伝令であった。彼は治療術師協会の照会について何も知らず、咒晶石の読み取り記録についても何も知らない。第一座がなぜルイーゼを呼ぶのかも聞かされていない。ゆえに、彼の笑顔には、一片の裏も無かったのである。




