第參節『手術』 Der dritte Abschnitt : “Operation”
天環暦2108年10月15日。
るいが覚醒めてから二週間──漸く激烈な筋肉痛から開放されたものの、未だに大きく呼吸するだけでも胸部に痛みが走るし、食欲も出ないし、倦怠感が取れないし、つかまり立ちでなければ歩くことも出来ない。著しい消耗によって衰弱した五臓六腑と、自力歩行できない程に萎縮した骨格筋を回復させるために、消化が良く高蛋白・高カロリーの食事と厳しいリハビリを余儀なくされている。
頭脳的には、快復は順調だった。咒紋操作にも馴染んできた。最初は僅かな咒力を使った小規模な咒氣領域しか操作できなかったが、今では全盛期のルイーゼの八割程度──殆どの咒紋司を十分に陵駕する精度と強度の咒紋を使えるまでに体力も回復した。其れだけ回復したところで、ふ。と、思い付く。
咒紋というものに科学的な概念を持ち込むことで、従来の治療術とは異なる形で醫療に応用できないだろうか──と。医学部出身ではないが、これでも生物学者でもある。研究のために一通り医学部の聴講を行い、実習を見學し、医学を学んだ塁の部分が思いついたコトだった。医学は実験動物や自分自身の肉体を実験台にするために必要な知識だった。予め自室に張り巡らせた対咒紋結界による防護障壁の正常稼働を確認した上で、メイド達も含めて全員を人払いし、作業に取り掛かる。
先ずは、自身の体の狀態の把握から。『透視』の咒紋式を自らに使用し、自分の肉体の狀態を念入りかつ正確に把握しようと試みる。結果は驚くべきものだった。元々そんなに発達していなかったルイーゼの五体の筋肉は、一週間の完全臥床で萎縮し始めている。心臓マッサージか何かが行われたのか、肋骨の何本かはポッキリと折れてしまっている。其れでは呼吸する度に痛みを感じるはずだ。しかも、臥床する前から全体的に骨格は貧弱で、胸椎腰椎などの脊柱は大きくS字に弯曲する高度の側弯。ついでに頭蓋骨の成長も極端で、かなり左右不対称に歪んでいる。
恐らく、ろくに外で遊ばず、陽の当たらぬ部屋で子供時代から偏った姿勢で咒紋の勉強と修行だけをやってきた弊害であろう。しばし考えこんでしまったが──この際だから、寝たきり狀態になっている今のうちに、纏めて治療してしまおう。そう決意する。
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治療に先んじて、基本的な咒紋式を使い勝手のいい形に改良する。『念動』──効果範囲を小さく、精度を極端に高く。『切断』──刃の厚みに相当する部分を、限界まで薄く。『素材処理』──接合面の表面処理を、生体組織向けに調整。そして、『潜行』。対象を隣接亜空間に一旦退避させ、実空間に復帰させる技である。移動距離は数センチ。熟達者でも十センチ前後が限界という、地味を通り越して些か哀れですらある咒紋式で、日常では戸棚の奥の物を取るとか、鍵の掛かった箱を開けずに中身を出すとか、その程度の用途にしか使われない。
だが──るいにとっては、これが最も重要な一手だった。なにしろ、皮膚も筋肉も血管も神経も、一切傷つけずに、骨だけを数センチ横に送れるのである。外科醫が長年夢見て、しかし決して手に入らなかった技術がここにある。切らずに、開かずに、体内の構造物だけを移動させる。
『……これは、反則だな』
るいは、我知らず笑っていた。幾つかの小実験を自分の体を使って実施し、成功の確かな感触を掴んでおいてから、本作業に取り掛かる。最後に、部屋に『封印』を施した。二十四時間、誰も入れぬように。
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通常よりも効果範囲が小さくて精密な『念動』の咒紋式を、多数同時展開。其れらを全身の骨格の全てにアンカーを引っ掛け、操作する。全身の骨格の矯正のため、全身の筋肉の力に拮抗する逆ベクトルの力を掛けて強引に引っ張り、更にテンションを加えて骨格を空間的に『在るべき位置』に固定する。彎曲した脊柱を正常に配列し、捩じれた関節を本来の位置に戻してゆく。途中、骨膜に傷が付いたり、靱帯が過伸展になったりした時には、壮絶な激痛が走った。
この世界の治療術に、これだけ深い処置に耐えうる麻酔は存在しない。痛みを鈍らせる術はあるが、意識まで鈍る。意識が鈍れば、この精度は保てない。ゆえに──作る。『電撃』の咒紋式に少し手を加え、『電気パルス』を発生させる咒紋式に組み替える。其の作用を極小単位で自分の脳に送り込み、痛みの中枢に直接干渉して『除痛』を行う。意識を明瞭に保ちながら、痛覚だけを遮断する。この世界の誰も、痛みが神経を走る電気信号であることを知らない。ゆえに、誰も、電気で電気を打ち消すという発想に至らない。
痛みが、消えた。後は地道な作業である。『透視』で確認しながら、骨の飛び出たところを削り、足りないところに潜行で送り込んで移植・接合する。皮膚も筋も一切切らない。骨片が消えて、数センチ隣に現れる。血は一滴も流れない。削った部分の傷は周辺の組織で補強したり、周りの組織を局所で移植し直して無理矢理に形を矯正する。手だけでは絶対に行えないレベルの精密作業である。天才的咒紋司であるルイーゼの咒紋制御能力があって初めて可能になる業である。
軟骨や靱帯も出来るだけ左右対称になり、脆弱な部分ができないように自分の内部で移植を行い、量と形を整えて帳尻を合わせていく。歪に、左右不対称に発育した筋肉も出来るだけ自家移植で整え、バランスを取ってゆく。ついでに歪んだ頭蓋骨にも手を入れてしまえ。将来的に顎関節症になるコト確実な、顎の変な噛み合わせも修正、修正。上顎下顎の骨格を切り離して一旦解体、幾つかのパーツに分けて、位置をずらし──再固定。接合部位には接着処理・表面処理。更についでに歯列矯正もやってしまおう。殺菌には、先日組んだあの式を使った。
『灯火』の方向規定節を反転させて熱を退かす──氷を作った、あの式である。反転を元に戻し、代わりに効果範囲を極限まで絞れば、其れは任意の一点を任意の温度にする式になる。口腔内の各部を、組織を損なわぬ上限温度まで、順に、正確に。この世界の治療術師は、傷口に薬草を貼る。るいは、熱で焼く。発達の悪い顎骨に対して、多すぎる余った小臼歯を何本か抜き取ると、全体に、かつ、強引に歯の位置をずらしてゆく。顎骨も細かく切除、歯の位置に併せて移植・接合処理を繰り返してゆく。
かなり強引な歯列矯正だ。年単位でゆっくり行うべき矯正作業を──数分で完了させる。これらをほぼ手を触れること無く、術野を清潔に保ったまま実施することが出来るのは、咒紋操作の強みである。作業の途中、るいは、額が熱を持っていることに気付いた。咒晶石である。これほど連続して、これほど深く咒紋式を通したことは、ルイーゼの十四年余の生涯にも無い。石が熱を帯びるのは当然だろう。そう言えば、と、るいは乳母の言葉を思い出しかけた。石を検めて、何時、如何程の咒紋式が通ったかを写して──
『……醫療行為だ』
るいは、其の思考を途中で切って、作業に戻った。
『しかし……自分の体を治しているだけだ。届け出の要る類ではあるまい』
研究者として十七年、倫理審査を一度も通したことのない男の判断である。ルイーゼの部分も、その点大きな相違はなかった。未完成の『界渡り』をぶっつけ本番でやる女である。五十歩百歩──似た者同士の融合体…苦い笑いを浮かべながら、彼女は、この一日の作業に完全に没入していった。
*
「お嬢樣ぁ~!」
「お嬢樣ぁ~!!」
「お嬢樣ぁ~!!!!」
気が付くと、とんでもない時間が経過していた。判断力と集中力を維持するために自分の脳に行っていた、脳内麻薬やら伝達物質やらのドーピング的操作で、異常興奮狀態の内に、時間の感覚がすっ飛んでいたようである。部屋の外でエルメンガルト達三人が何やらけたたましく騒いでいる。そう言えば。処置を邪魔されたくなかったので、部屋を『封印』していたのだった。忘れていた。経過時間は開始から凡そ二十四時間。それは、心配するわな。少し反省。部屋に施していた『封印結界』を解除した途端に、エルメンガルトとアンネゲルト、ユリアーネが部屋に飛び込んでくる。既に三人ともかなりお怒りモードである。
「今日こそは言わせて頂きます!! 帝國伯令嬢!! あれほど、病み上がりのご無理は禁物ですと申し上げたはずなのに! まだ病床から起き上がれぬ身で丸一日も閉じ籠もって実験など!!……」
エルメンガルトが凄まじい剣幕でまくし立てた。
「エルメンガルト……まあまあ、そんなに怒鳴らなくても」
るいは苦笑しながら宥めようとしたが、当人が言ったのでは全く説得力がない。
「何が『まあまあ』ですか!!」
エルメンガルトの声が一段高くなった。却って火に油を注いだらしい。
「ルイーゼお嬢樣がお倒れになって以来、私達がどんなに心配したか……」
年配で大人しいアンネゲルトまで、涙目で静かに怒っていた。
やっぱり、心配かけすぎたか。流石に、これは拙いとるいも思った。
「みんな……心配をかけた。悪かった。……心配してくれたことは、理解した。ありがとう」
素直に謝罪し、感謝する。何時もなら、言い出したら人の諫言・忠告を聴かない──最後には逆ギレまでするルイーゼが、呆気なく謝ったことに、三人は驚いた。そしてすっかり気勢を削がれてしまった。
「……え? あぁ……帝國伯令嬢がその地位に相応しい、分別を示されるのでしたら、私も口煩く言う必要もありませんが……」生真面目なエルメンガルトは気まずい感じで口ごもる。
ルイーゼも塁もその本質は非常に似ているとはいえ、人生に於いて過ごした歳月・立場・身分・性別が異なる。塁はルイーゼとは異なり、必要ならちゃんと部下にも頭を下げるし、ルイーゼよりは人の顔色を察知する能力も鍛えてある。余り対人関係に長けたとは冗談にも言えない塁であるが、ルイーゼの対応よりはよほどマシのようだ。これからは人間関係の調整のために、否が応でも全面に出なければいけないようである。
「それよりも、ルイーゼ樣……丸一日も根を詰めて作業されていて……お体に障りはありませんか?」
アンネゲルトが心配そうに訊いた。
「ええ、早く傷を治すために治療咒紋式の研究をしていたの」
「おお……そうでしたか……それで……結果は如何だったのでしょう?」
ルイーゼのことを幼い頃から知悉した古参のメイドのアンネゲルトが、るいの顔を覗きこんだ時に気付いた。
「…………おお……ルイーゼ樣、そのお顔……どうされたのですか?」驚きを隠せず呟くように言う。
そのアンネゲルトの樣子を訝しんだエルメンガルトは、釣られてマジマジと主人の顔を見つめた。眼の前にあるのは何時も見ているとてもよく知った女主人の顔なのに、とんでもなく印象が変わってしまっている。何処かが違う…何かが違う。暫く考え込んでいたが──
「お顔が全く歪んでない……」
アンネゲルトが、気付いたように囁いた。
そう言われて、エルメンガルトも正しく理解した。これまでそれなりにチャーミングな顔立ちで、美しいと言えば美しい方、可愛いと言えば可愛い方──だけど、観賞の角度をかなり選ぶという風で、正面から見ると酷く不対称な印象を受けてチョット…いや、かなり残念。そんな感想を持たれることの多い容姿だったのだが。今日の女主人の顔は、ほぼ完璧に左右対称。全体的な容姿の印象もかなり変わってしまったように思われた。
「ど……どうされたのですか……そのお顔は……」
ニヤリと笑ってるいは答える。
「新しい咒紋式の実験の成果よ。全身の怪我を治すついでに、自分の体の歪みを全部──綺麗に直してみたの。顔の歪みも、背骨の歪みも、歯並びも……全てよ。背も少し伸ばしたわ」
るいは、胸を張って誇り高く宣言した。そして、其の時。三人のうち一人だけが、何も言わなかった。ユリアーネである。厨房を取り仕切る料理長にして薬師、そして屋敷付きの治療術師。彼女は先程から一言も発さず、女主人の顔を、首を、肩の線を、そして立ち姿を、ただ静かに見ていた。治療術を修めた者である。骨がどう並ぶかを知っている。歪んだ背骨がどれほどの年月をかけても真っ直ぐにならないことを知っている。噛み合わせを直すのに何年掛かるかを知っている。そして、其れら全てが、一日で、傷一つ無く成されたことを、目の前で見ている。
「ユリアーネ?」
「……ああ、いえ」
薬師は、静かに首を振った。
「……お体に障りが無ければ、其れで宜しゅうございます。夕餉をお持ちします」
一礼して扉に向かい、其処で足を止めた。
「……お嬢樣。其のお体、後日、詳しく診させて頂いても宜しゅうございますか」
「構わんが。何故だ」
「……いえ。薬師の性分にございます」
そう言って、深く一礼し、部屋を出ていった。るいは、其の背を、少しだけ長く見送った。
*
丸一日、全身の修繕に費やした。これで体は完璧──そう考えていた。だが、甘かった。表面的には十分修復したはずの体内の傷だが、微細構造&細胞レベルのダメージの修復までは出来ていなかったのか、『麻酔』の咒紋式が切れた途端の全身の激痛。そして翌日から十四日間、全身に筋肉痛・関節痛と推定38℃以上の高熱に襲われて、再び寝込むことになった。再びエルメンガルトから長い説教を喰らうことになったが、発熱による朦朧狀態でそれどころではなかった。
ただ、其の朦朧の底で、るいは一度だけ、あれを視た。咒眼の視野の隅。目覚めた日から動かなかった、あの淡い数。七対三。比率は、変わっていない。変わっていないのに、何かが違った。朦朧とした頭で、るいは暫くその数を見つめ、やがて、違和の正体に思い当たった。合計値が、記憶よりも下がっている。七対三のまま、全体が、ほんの僅かに──足りない。
『……』
高熱による観測誤差だろう、とるいは結論した。三十八度の頭で読んだ数字など、信用に値しない。其れきり、其の件は忘れた。
*
十日目に漸く少し微熱程度の体温に落ち着いた。自分の全身を『透視』によってサーチしてみたが、明らかな炎症や感染は観測されなかった。骨接合部や軟部組織に微小出血が少し見られたが、大事には至ってない樣子。経過を観ることにした。結局、ユリアーネから処方された正体のよく分からない、ツンと甘い香りのする薬湯を呑み、柔らかな麦粥を啜り、野菜と肉を煮込んだ黄色いスープを少しずつ喉に送り込み、十分な休養をとることで、徐々に体力を回復させることにした。
薬湯を運んでくるユリアーネは、以前と全く変わらぬ態度だった。変わらぬ態度で、しかし、前よりも念入りに、女主人の脈を診るようになった。それでも、骨折も全て治療することができたし、小血管や神経の損傷も修復済み。まだかなり違和感はあるものの、意識を回復した当初の激しい衰弱狀態から考えれば──異常な回復力である。更に四週間後には何とか自力歩行出来るようになった。
そして『大改造手術』後も、ちょくちょくと不都合な部分を見つけては、エルメンガルト達に見つからない程度の微調整、細かな手直しを繰り返してゆく。指の動きが悪いと感じた場所の腱や骨格や筋膜を削ったり、動かす度にコキコキ鳴る関節の形態を観察して造り直したり。ついでに鏡を見て目についた黒子や疣を取り去ってみたり。そんな具合に、自分で改造した新たな肉体は徐々に馴染んで、調子が良くなってきた。またリハビリが進むと、通常のリハビリだけでは筋力強化が物足りないので、筋力強化を加速するために新しい咒紋式を考案する。
以前自分の神経の電気麻酔に使用した『電気パルス』の咒紋式に、更に変更を加える。低周波の微弱な電気信号を局所で発生させるように改良。これを、全身の骨格筋に合わせて配置・発動させる。すると、低周波電流が筋肉に流れることになり、収縮が起こる──健康器具の『E(electrical)M(muscle)S(stimulation)』の原理である。
これで、筋トレが連続して自動的に出来るようになる。当然無理な使用はかえって筋肉を傷めてしまうので禁物だが、毎日定期的に機械的に、自力では鍛えにくい深部のマイナーな筋肉まで鍛えることができるのは捨てがたい長所である。電流電圧や周波数、刺激と休息のパターンを変更して色々な筋トレをプログラムできるのも魅力的だ。速筋と遅筋を別個に鍛える、なんてワザも出来てしまう。
『EMS』の咒紋式を使用した後は、呼吸を整え十分なストレッチ。ビタミンとクエン酸・リンゴ酸・コハク酸等の有機酸の補充を行い、疲労回復を促してゆく。それと、咒紋には関係ないが回復にはユリアーネが調合してくれる薬湯がよく効いた。なんでも、末梢循環を改善し、局所の鬱血を取る処方らしい。更に、細胞レベルでの回復力を上げる治療術系統の咒紋式『回復』も常時使用しながらのトレーニングは非常に効率がいい。一日数分からはじめ、徐々に時間を長く、強度を強くしてゆくことで──筋肉も骨格も靱帯も、徐々に強化してゆく。
病み上がりで衰えていたルイーゼの肉体は、一ヶ月ほどで、外見上は十分に鍛えられた狀態まで戻った。もちろん、外から筋量が目立つような体格ではない。全体的に無駄な脂肪が減って、随分引き締まった体つきになったと感じる。当然、日常生活にも不自由はなくなり、食欲とともに気力も──そして咒力も回復した。そして、この一ヶ月の間に、るいの額の石には、この世界の咒紋司が生涯かけても通さぬ量と深度の咒紋式が、静かに、正確に、記録され続けていた。
当人は、一度もそれを確認していない。条件が揃ったところで、次の段階に進んでいく。此処までは、形を整えただけ。だが、どんなに鍛え上げた筋肉も、それを使う技量・頭脳がなければ単なる肉襦袢と何ら変わりない。此処からは単純な筋トレではなく、脳・末梢神経・筋肉・骨格を一つのシステムに繋いで行く作業──鍛錬が、必要になる。大きく深呼吸してるいは立ち上がった。




