第弐節『咒紋』 Der zweite Abschnitt : “Zauberei”
天環暦2108年10月04日。
目覚めて三日目の朝、るいは、天蓋の裏側を見上げながら、自分の中身の棚卸しをしていた。名は、ルイーゼ・アデルハイト・フォン・シュタインエック。シュタインエック帝國伯令嬢。十五歳。帝國國立咒紋學院第二〇五代主席卒業生。帝國咒紋司協会の数少ない特Sクラス。そして──史上最年少のゾーネヴルツェル帝國“Sonnewurzel Reich”・宮廷咒紋司、第十三座。肩書だけ並べれば、まことに結構な人生である。
六歳で學院に入り、いきなり低學年総合首席。飛び級に飛び級を重ねて通常の三分の一の年限で修了し、十一歳で首席卒業。以後、幾つもの咒紋研究と論文で実力を認められ、十三歳で異例の大抜擢により宮廷咒紋司となった。ここまでが、書類に書いてある部分である。書類に書いていない部分は、こうだ。
シュタインエック家は、帝國伯である。ただし──帝國伯位に付随する領邦を持たぬ、称号のみの帝國伯である。帝國には公爵、帝國侯、辺境伯、方伯、城伯など、由来と職掌の異なる諸侯位が併存している。本来帝國伯とは皇帝直属の領邦伯を指すが、財政に窮した皇帝家が、金銭や功績と引き換えにその称号だけを濫発した時期がある。シュタインエック家の伯位は、そちらの口だった。
ゆえに、正式な名乗りは「フォン・シュタインエック」。「フォン・ウント・ツゥ」ではない。其の地を治めている者だけが「ツゥ」を名乗る。前置詞ひとつの欠落が、名乗るたびに一族の懐具合を宮廷中に告げて回る。実態は、地方の郷士…家産地は猫の額。それが宮廷の席次においては、由緒正しい領邦伯と同じ卓に着いてしまう。名は高く、中身は無い。
『……なるほど、これは相当に居心地が悪いな』
るいは、天蓋の裏側に向かって、そう独りごちた。そして、宮廷咒紋司としてルイーゼに与えられた最初の任務は、第二皇女ブリュンヒルト“Brünhild”姬の家庭教師であった。実のところ、順序は逆である。異例の大抜擢で宮廷咒紋司になったことの方が、ブリュンヒルト姬付きの家庭教師に任命されたことのオマケなのだ。
その皇女は、激しい情緒障害の持ち主だった。早くに側室だった母親を亡くし、取り巻き達に甘やかされて育ち、極基本的な対人関係についても何も學ばずに成長した。我儘で傲慢──プライドだけはすこぶる高いときたものだ。若くして學院を卒業したルイーゼの卒業発表の咒紋術実演を観て、同年代のルイーゼを自分の家庭教師に欲しいと駄々をこねたのも彼女である。
最初こそ張り切って毎日熱心に授業を受けていたお姬樣だが。或る時、ルイーゼが授業中の態度の悪さを見かねて少し厳しく窘めたところ。それからヘソを曲げたのか、熱が冷めたのか、パタリとお呼びが掛らなくなった。以来、開店休業。ここまでが、ルイーゼの記憶である。るいは、その記憶を塁の側から、もう一度観た。十三歳の家庭教師が、十四歳の皇女を、大勢の取巻の前で窘めている。
『……ああ』
るいは、そっと額を押さえた。あれは駄目だ。皇女の言い分に一分の理も無いのは確かだが、遣り方が最悪である。あの年頃の、しかも母を早くに亡くし、周囲の全員が自分に頭を下げる環境で育った子供に、公衆の面前で正論を突きつけたら、どうなるか。ルイーゼは正しかった。正しくて、そして、下手糞だった。長年、対人関係で散々に失敗を重ねてきた常磐塁には、それが手に取るように判る。判るからこそ、些かほろ苦い。
『……あの皇女は、まだ生きているのだったな』
るいは、天井を見上げたまま、その事実を胸の帳面に書き留めた。
*
「帝國伯令嬢」
ノックの後、女中頭のエルメンガルト“Ermengard”が入ってきた。真面目で几帳面な性格の彼女は、父の代から仕えてくれている仕事人間で、オストハウプトの屋敷ではルイーゼの周りの女使用人達を纏めてくれている。些か堅苦しくは有るが常に女主人の事を思っていてくれているのはよく判る。
「ん?……ああ、エルメンガルト」
「余り気分の優れないご樣子ですが……お躰……本当に大丈夫ですか?」
真剣に心配してくれているのがヒシヒシと伝わってくる。
「大丈夫だ。少し考え事をしていた」
「……失礼ながら、帝國伯令嬢は、一週間意識不明でいらしたのです。治療術師ユリアーネ“Juliane”の許可も出ておりません」
その一週間について、るいの記憶は完全に空白である。空白の部分は、目覚めてから少しずつ、周囲の証言で埋めていった。最初の頃は重積狀態の全身痙攣、異常な高体温、病的な発汗、一過性の循環停止。優秀な治療師達も原因不明の異常事態に頭をひねるばかりで、対症療法だけで本質的な治療には完全に匙を投げていたという。
その間、ルイーゼの快復を信じて氷嚢をコマメに取り替え、湿らせたタオルを使って地道に水分を補給し、汗だくになった衣類を着替えさせ、排泄物の世話をして、交代交代二十四時間体制の付きっ切りで看病してくれたのが、エルメンガルト、アンネゲルト、ユリアーネら、古参の使用人達であった。皆、主人と使用人という枠を超えて必死に看病してくれたようだ。もし、彼女達が手を抜いていたら、今ごろルイーゼの肉体は死んでいたかもしれない。目が覚めた時、羽布団と毛布の下は、上半身は簡易なタオル地の寝間着だけ、おまけにお襁褓狀態──年頃のルイーゼからすると中々に羞恥プレイにして鮮烈体験であった。
「エルメンガルト」
「はい」
「一週間、有難う。……お前達が居なければ、私は死んでいた」
エルメンガルトの動きが、止まった。
「…………え」
「顔を洗わせてくれたことも、着替えさせてくれたことも、其れ以外のことも、全部だ。……礼を言う」
几帳面な女中頭は、しばらく口を半開きにしたまま固まっていたが、やがて、慌てて眼鏡の位置を直した。
「……ど、どういたしまして。……いえ、その、当然の職務にございますので」
言い出したら他人の諫言・忠告を聴かない、最後には逆ギレまでするルイーゼが、素直に礼を述べた。エルメンガルトはそれから半刻ほど、廊下で何やら考え込んでいたという。
*
午後、乳母のアンネゲルトが薬湯を運んできた時に、るいは訊いてみた。
「アンネゲルト。……私の咒晶石の手術のこと、覚えているか」
年配で大人しい性格の乳母は、盆を置く手を止めて、ふと目を細めた。
「勿論でございます。……でも、お嬢樣は、覚えておいでではありませんでしょう。生後十一ヶ月でしたから」
「聞かせてくれ」
「まあ……珍しい」
アンネゲルトは椅子を引き寄せて座った。
「あの石は、先代樣が東の遺跡の発掘権を買って、三年かけて掘り当てたものでございます。……いえ、正しくは、掘り当てたのは他家で、先代樣はそれを買い戻されたのですわ」
「……買った」
「はい。屋敷が一つ買える値で」
るいは、無意識に自分の額に指を触れた。翡翠のようなカボションの宝石。絶えず動く陽炎のようなグリーンの光の揺らめきが、其の中にある。
「増やせぬのか。其れは」
「まあ……お嬢樣。咒晶石は作るものではございませんよ。古代咒術帝圀アルトライヒ“Altreich”の遺跡から出てくるものです。作り方など、誰も知りません」
アンネゲルトは当然のことを説くように言った。
「掘り出される数は年に幾つも無く、其の悉くが貴族の手に渡ります。……ですから、咒紋司樣は皆、御貴族樣でいらっしゃるのです」
──端末の総数が固定されている。且つ、其れを貴族が独占している。るいの中の科学者が、静かに帳面を開いた。少なくとも、咒紋司という特権階層の再生産は、生まれの貴賤だけではなく、出土数の制約の上にも立っている。
「……手術は、どうだった」
「それは、もう」アンネゲルトは苦笑した。「泣き声が、屋敷中に響き渡りました。三日、熱が下がりませんでした。……あの時ばかりは、奥樣が術者樣に掴みかからんばかりで」
「そうか」
「その後で、咒紋府の方が見えられました」
「……咒紋府?」
「ええ。登録でございます。石を額に入れたら、必ず届け出て、咒紋府の台帳に記すのが決まりだそうで。……何やら、石に番を振っておられました」
るいの指が、額の上で止まった。
「……番」
「はい。書類仕事でございますよ。其れきり、何もございません」
アンネゲルトはそう言って、薬湯の器を勧めた。
「……ああ、そう言えば。先日、事故の後にも、咒紋府から書記の方が見えられました」
「何用で」
「咒晶石の読み取りを。……大きな咒紋の事故がありますと、必ず来られるのだそうです。石を検めて、何時、如何程の咒紋式が通ったかを写して帰られました。形式的なものだと」
るいは、しばらく黙っていた。
「……そうか。形式的なものか」
「はい」
アンネゲルトは、女主人が薬湯を飲み干すのを見届けて、満足そうに部屋を出ていった。扉が閉まってから、るいは天井を見上げて、長く息を吐いた。
『──使用履歴が、残るのか』
この額の石は、咒紋を感じ取る眼であり、咒力を通す経路であり、そして──自分が何を使ったかを記録している台帳でもある。この世界の誰一人、それを問題だとは思っていない。書類仕事…形式的なもの。何百年もそうしてきた。
だが、常磐塁は知っている。記録とは、平時には誰も読まぬものであり、そして、読まれる時には必ず誰かを裁く為に読まれるものである。
*
その晩、るいは自室の書棚から、ルイーゼ自身の研究記録を引っ張り出した。自分の書いたものを、他人として読む──これは奇妙な体験だった。ルイーゼの研究テーマは『界渡り』。星靈体を飛ばして異世界と交信する咒紋式の復元である。それは古代咒紋術の文献に部分的に記載されたものの、失伝している時空咒紋式であった。なぜルイーゼがそんな研究を始めたのか。記録の冒頭に、動機がはっきり書いてある。
『肉体さえ宮中に在れば、星靈体だけ出歩いても、宮廷規則には触れぬ』
『……』
開店休業の窓際族が、職務時間中に堂々と職場を抜け出す方法を探していた。それが動機である。しかも──一旦研究が始まると學者魂に火が点いてしまい、寝食を忘れて没頭しはじめている。全く本末転倒なヤツである、と塁の部分が呆れ、其の呆れ方が我が事なので始末が悪い、とるいは苦笑した。ただし、成果は本物だった。遺跡から発見された古文書の一節にあった、虫食いだらけの咒紋式。ルイーゼはそれを未完成ながら補完し、『界渡り』を不安定ながら実行可能なモノに再構成してしまっている。天才という語は、この娘のためにある。
記録を追ううちに、るいの指が一箇所で止まった。式の末尾。復元不能として空白のまま残された、最後の一節。欄外に、十四歳の筆跡で走り書きがある。
『受信のみならば実害なし。後日、余力あらば復元を試みる』
この一行のせいで、常磐塁の三十日分は、地球に帰れなかった。るいは、その頁をしばらく見つめていたが、やがて静かに記録を閉じた。怒りを撃つける相手が、自分の中にしか居ない。
*
ゾーネヴルツェル帝國では、近代的な科学的方法論というものが体系化されていない。咒紋術とか咒術とか呼ばれる、魔法めいた技術が高度に発達しており、それを利用するそれなりの技術体系も有る。だが、古代咒術帝圀アルトライヒの遺跡から発掘した考古學的技術を、中途半端な形で理解して利用しているだけで、基本的文明レベルは中世ヨーロッパ止まりである。そもそも、咒紋術とは何か。
咒力を使って咒氣に生じた咒紋を操作する技術──ということになっている。咒紋の操作は先人達によって無数にパターン化がなされており、その咒紋を組み合わせて咒紋式を組み立てることで、咒紋術の力は発動する。
咒氣や咒力は通常の視覚でない部分で観えるもので、この世界に重なり合っているように存在する。この咒氣や咒力を観る能力は咒眼と呼ばれる。伝統的な咒紋使いの家に生まれた者は、この咒眼を確実に得るために、乳児期のうちに咒晶石を額に埋め込む手術を受ける。
咒眼を持ち、咒力で咒氣を操作できるからといって、すぐに咒紋司になれるわけではない。ある程度粗削りでも、念動や透視のような真似事は多少は可能だが、正確に咒紋を配列し、咒紋式として組み上げることが出来なければ、所詮市井の咒紋使い止まりである。既成の式を写して使う者と、自ら式を組み上げる者。其の間に咒紋府の免許があり、後者だけが咒紋司を名乗ることを許される。
ルイーゼは、この世界の人間としては非常に合理的な考えの持ち主で、特に理解力に優れていた。他人の気付かないことに気付き、他人の思い付かないことを思い付く。独自の高度な咒紋式を幾つも考案し、新たな発見を幾つも成し遂げている。客観的に言っても、彼女は超一流の大咒紋司だった。それでも尚、この世界この時代の枠組の範囲内でのことである。
巷で使われている一般的な咒紋の内容を見ると、随分と細やかで緻密では有るが──火を灯す、光を放つ、物体を動かす、遠くを視る、遠くに報せる、生命力を強化する、精神感応を行う、未来を占う──といった基本的な咒紋能力の強化・効率化・複合化による応用版に過ぎないモノが殆どである。多くは軍事用、良くて日常生活のちょっとした補助程度。ちなみに、物は運べない。
咒紋術で物体を其処から消して此処に出す、などということは、この世界の誰にも出来ない。出来るのは、咒氣の節点から節点に、登録された者が跳ぶことだけである。其れも、咒晶石を持たぬ者は跳べず、荷は持てず、節点の無い土地には行けない。ゆえに、この帝國の物流は、馬と荷車と船である。街道があり、宿場があり、関所があり、隊商があり、山賊が出る。咒紋がどれほど発達しようと、麦は馬が運ぶ。発想の幅が、絶望的に狭い。るいは、寝台の上で身を起こし、掌を上に向けた。試してみるか。
*
用意したのは、水を張った硝子の器がひとつ。まず、最も基本的な咒紋式のひとつ『灯火』を咒眼で分解する。この式は、対象の一点に熱を生じさせる。誰でも知っている、子供でも使える初歩の式である。この世界の咒紋司は、この式を「熱を生む式」だと理解している。それ以上でも以下でもない。だが、常磐塁は知っている。熱とは、分子の運動である。ならば、この式が本当に為しているのは「熱を生む」ことではない。運動を与えることだ。
であれば──逆向きに与えれば、どうなる。るいは、灯火の紋のうち、方向を規定する三つの節だけを反転させ、残りをそのまま繋いだ。組み上がった式は、ルイーゼの記憶の中のどの文献にも存在しない、見たこともない形をしていた。そして──咒力を、通す。硝子の器の中で、水の表面が、白く曇った。薄い膜が張り、其れが中心に向かって、結晶の形を描きながら広がってゆく。指先で触れると、硬い。
氷である。この世界で氷が要るときは、人が運ぶ。冬のうちに北の山で切り出し、藁と籾殻に包んで馬の背で下ろし、地下の氷室に積む。夏場になれば、それを召使が桶に入れて厨房まで運んでくる。目減りした分だけ値が上がり、盛夏の氷は貴族の食卓の贅沢である。其処に無いものを、人の手で持ってくる。其れが常識だった。其処に有る熱を、退かすという発想は、誰も持っていない。なぜなら、この世界の誰も、熱が何であるかを知らないからだ。
『……ふ』
るいの口の端が、僅かに上がった。持ち込んだ荷物は、たったひとつ。暇潰しに書いた加速制御のパッチと──十七年分の、物の見方である。だが、この世界において、其れは。
*
昂揚は、しかし、其の夜のうちに一度、冷えた。るいは、自分が組んだ式を、もう一度咒眼で覗き込んでいた。反転させた三つの節。其れは確かに自分の判断で反転させた。だが──其の節が、其の内側で何をやっているのかは、全く読めない。紋は、それ以上分解できなかった。拡大しても、角度を変えても、咒力の通し方を変えても、其の内側は黒い。其れは一枚の板であり、入れれば出るが、中身は見えない。
自分は、見たこともない言語の見たこともない函数を、引数の順を入れ替えて呼び出しただけである。
『……書けるが、読めない』
ルイーゼは、この世界で最高の咒紋司のひとりである。其のルイーゼの全知識を検めても、紋そのものの内側を読み解いた者は、有史以来ひとりも居ない。誰も原理を知らぬまま、千年、模写し続けてきた。其処に、古代咒術帝圀アルトライヒがある。其れは、遺跡でも、伝説でもない。今、自分の額に埋まっている。今、自分の掌の上で動いている。
この世界の咒紋術とは、滅んだ誰かの遺した装置を、使い方だけ覚えて千年叩き続けてきた行為である。
『……面白い』
るいは、心底からそう思った。科学者としての十七年で、これほど大きな未読の書物に出会ったことはない。其して、咒眼の視野の隅で、ごく淡く浮かんでいる比率を確認する。七対三。目覚めた時から、動いていない。何がこの数を動かすのか、るいには、まだ判らなかった。ただ、氷を作った直後、ほんの一瞬。
掌から何かが出て行って、帰って来なかったような──其んな、言葉にならない手触りが、確かにあった。気のせいだろう、とるいは結論し、記録を閉じた。一人静かに考え…夜が更けてゆく。




