第壹節『邂逅』 Der erste Abschnitt : “Begegnung”
天環暦2108年09月24日。
気が付くと其処は、薄暗い古びた建物の回廊だった。塁は、その中央に呆然と立っていた。暖色系の淡い光を放つ石が壁に嵌めこまれ、建物の中の視界を確保している。回廊は長く続き、その果てが見えない。誘われるかのように、塁は回廊の先に向かって歩き始めた。長い長い回廊──まるで夢の深奥に誘い込まれるかのような感覚。直進したかと思えば曲がりくねり、広くなり、細くなり、壁の素材が変わり、周囲の風景も少しずつ変わる。しかし、それでも回廊は続く。
たまに、中世ヨーロッパ“Europe”風の古めかしい服装の人影のようなものとすれ違う時もあるが、彼らの体は半透明で、実体がなく、まるで幽靈のよう。体が当たってもすり抜けてしまう。こちらが見えている風でもない。声を掛けてみても相手に聞こえた風はない。老いた者、若い者、幼い者──騎士を思わせる甲冑姿の人物やら、着飾ったお姬樣みたいな人物、帽子をかぶった労働者──老若男女樣々な人物。互いに談笑していたり、一人厳しい顔つきだったり。それでも、回廊は続く。回廊は一本道で、どこまでも、どこまでも。
不思議なことに疲れは感じなかった。時間の感覚は既になく、ただ延々と回廊は続いている。歩きながら、塁は自分の状況を整理していた。肉体がない。いや、有るように感じてはいるが、これは仮想空間で自分に着せていたアバターと同じ手触りだ。ならば自分は、ダウンロードの途中で何処かに引っ掛かった、書き戻し中の人格データということになる。そして、そこまで考えて、塁は一つの事実に思い当たった。自分は、三十日前に生まれた存在である。
常磐塁という三十五歳の男から複製され、加速空間の中で三十日を生き、その三十日分の差分を本体に書き戻すために作られた、追加分。ただし、ここでいう差分は変更箇所だけの断片ではない。書き戻し時の照合に使う基底人格の圧縮スナップショットを伴う、自己完結型の差分パッケージである。だから本体から切り離されても、常磐塁三十五年の記憶構造を辿る足場は残っていた。書き戻しが完了した瞬間、自分という個体は本体に溶け、其処で終わる予定だった。統合とは、要するに個の消滅の別名である。塁は、それを承知の上で実験台に座った。座ったのは三十五歳の常磐塁であって、此の自分ではないのだが。
『……なるほど。これは、執行猶予だな』
自嘲するように呟いて、彼はまた歩き出す。気が付くと、周囲に人影はなく、ただ、一枚の扉が目の前に有った。扉を開けようとすると、鍵がかかっている。途方に暮れて周囲を見渡しても、回廊の壁があるだけ。困り果ててポケットに手を突っ込んだ時、手に触れるものがあった。手にとって見ると鍵束──自分の鍵束である。自宅の鍵、研究室の鍵、車の鍵、ロッカーの鍵、机の鍵──しかし、一つ、見慣れぬ鍵が混じっている。ふと思いついて、その鍵を扉の鍵穴に差し込んでみると、それはすんなり入る。鍵を回すと、カチリと音がして鍵が開いた感覚があった。
恐る恐る扉を押し開いてみると、其処は古めかしい洋風の部屋、周囲を書棚に囲まれ、中央に年代物の机──社長室を連想させるレイアウト──中世風に言うと執務室の中だろうか?机の向こうには人が居た。何となくこの机と部屋に似つかわしくない。少女と言ってもいい、まだ幼さが色濃く残る女性。
歳月を感じさせる古めかしい椅子に一人の少女が座り、静かに豪華な装丁の本を読んでいた。少女の長い髪は、生まれつきの純白だった。老いの白ではない。一本一本に若い髪の艶があり、光を受けた縁だけが淡く銀に光る。肌や瞳まで色が薄いわけではなく、少女の瞳は鮮やかな黄味が掛かった深緑、琅玕の色──毛髪だけが、雪のように白い。その額には何の装飾だろうか?翡翠のようなカボションの宝石──絶えず動く陽炎のようなグリーンの光の揺らめきが其の中にある。彼女はこれまですれ違った人々とは違って、透明ではなく、ここに存在している感じがする。
「こんにちは」
塁は少女に話しかけた。
少女は驚いたように顔を上げる。
「……訪問者とは……珍しいですね……貴方はどなたですか?」
少女は笑みを保ったまま、少し訝しげに問い返した。幼さを残しながらも、努めて大人びた態度を崩さない。
途端に、幻想めいていた周囲の光景が全体的に実体を帯びたように感じる。五感が随分と明瞭に知覚できる。周囲の変化に驚きつつも塁は少女の問いに答える。
「ボクは常磐塁……大学で教鞭をとる側らコンピューターの研究をしています」
「コンピューター?……それは、何でしょう」
少女はコンピューターを知らなかった。
『もしかすれば……此処は、見たとおりの中世ヨーロッパ風の世界なのかな?』
塁は頭を掻きながら、説明のための言葉を選んだ。
「……考える真似事をする機械……かな」
「……それは、『思惟の匣』……の樣なものでしょうか?」
「『思惟の匣』……って……何ですか?」
今度は塁が少女に訊き返した。
「……滅亡した古代帝圀の遺跡から極稀に見つかる『物の怪』です。多くは無害で、通行人に謎掛けをしたり、逆に通行人が質問すると樣々な質問に答えてくれたりします。古い玩具の変化した付喪神の樣な物だと考えられていますが……」
塁には、いかにもオカルトめいた回答に聞こえた。ただ、其の説明の中の一点だけが、微かに引っ掛かった。──質問に、答える。
「近いかもしれないが……ボクは『思惟の匣』とやらを知らないから何とも言えません」
「私も……何か良く分かりませんが……研究と言われるからには、貴方もきっと何かの學者さんなのでしょうね。……広い意味では私と同じですね」
「貴女も何かの學問を?」
「はい、申し遅れました、私の名はルイーゼ“Luise”……ルイーゼ・アデルハイト・フォン・シュタインエック……宮廷咒紋司にして古代咒紋の研究をしている者です。どうか、ルイーゼとお呼びください」
少女は机上に読みかけの本を置き、椅子から立ち上がって優雅に一礼した。
「ルイーゼ……さん?」
「はい」
「不思議な偶然です……ボクの名も塁と言います。少しだけ発音が違うみたいですが、よく似ていますね」
「そう言えば……先ほどそう名乗られてましたね。もしかすれば……此処に貴方が居ることは、運命の悪戯、もしくは何かの必然なのかもしれないですね」
「はい、面白い巡り合わせですね」
「そうですね。ま、立ち話も何ですから……座ってゆっくりお話でも如何ですか?」
ルイーゼはソファーの有る方に移動し、塁を誘った。
「どうぞお掛けになって、お茶でも淹れしますわ……」
勧められるままに塁はソファーに腰を降ろす。
「塁樣はどちらから来られたのでしょう?」
何処からか用意したポットでルイーゼがカップに紅茶を注ぐと、芳しい香りが塁の鼻腔を刺激した。
「ボクはニホン“Japan”のヨコハマ“Yokohama”から……分かりますか?」
塁は何となく彼女がニホンを知らないような気がしてそう表現する。
「……それは何処でしょう……これまで聞いたことのない地名です」
テーブルの上にティーカップを並べながら少女は小首を傾げた。
「では、此処は何処ですか?」
塁は疑問に疑問で返した。
「実は、ボクにとっては此処はもしかすればボクの夢の中の世界だと思っていたのですが……貴女にとっては、どうでしょうか?」
塁はこの現実感の乏しい世界を夢の中──と考えていた。ただ、夢の中の出来事とはいえ、明瞭に思考できるし、目の前に居る少女も十分に存在感を持っている。
「『夢』……そうですね、人生は全て夢のようなモノ……貴方にとっての夢かもしれないし、私にとっての夢かもしれない……私自身が貴方の夢の中の存在かもしれないし、……貴方のほうが私の夢の産物かもしれない……でも、私にとってのこの場所は、私の夢の中の世界……もしそうでなければ、夢を見ている私の肉体の在るところ……そうなると……つまり……帝都オストハウプト“Osthaupt”の私の館……寝室のベッドの中ということでしょうか……」
「……成程……夢オチですか……貴女もボクもお互いに夢を見ていて……夢の中で会話しているわけですか……そして貴女の居る場所をボクは全く知らない。貴女もボクの國を全く知らない……とすると……もしかして、僕たちは時間も空間も遥かに離れた世界……或いは時間軸の分岐点で別な道を歩んだ世界……の存在かもしれない」
「時空を異にする世界……それは『異世界』……と、いう意味でしょうか?」
急にルイーゼは身を乗り出すようにして質問を放った。
「そういう意味ですが……」
「つまり、時空を超えて貴方は此処に来たと……」
「あくまでも此処が単なる夢……根も葉もない絵空事の世界でなかった場合の仮説ですが……」
ルイーゼは、そっとティーカップを置いた。カップが受け皿に触れる音が、やけに大きく響いた。
「私の研究テーマは『界渡り』……時空の境界を超え、因果律の束縛を離れ、多層・平行世界へと靈だけで旅する咒紋式の、復元です」
少女はゆっくりと立ち上がり、書棚の方に歩いていった。
「……塁樣。界渡りの咒紋式というものは、行き先を指定して赴く術ではないのです」
「……というと?」
「索す術なのです」
彼女はこちらを見ずに、書棚の背表紙に指を這わせながら言った。
「次元の彼方に、器との結び付きを失い、なお何ものにも保持されずに稼働いている精神を索す。……肉の噐に閉じ込められた思考は、視えないのです。噐を出ても、別の何かに繋がっていれば同じ。何処にも繋がらず、独りで回り続けている思考だけが……視える。古代の術者たちは、そういう相手とだけ言葉を交わしていたようです」
塁の背筋が、静かに冷えた。
「私はこの二年、索し続けました」
ルイーゼは振り返る。琅玕の瞳が、蝋燭の光を弾いていた。
「暗い。……何処までも暗いのです。何もない。何処にもない。千年索しても何も無いのだろうと、そう思っておりました」
少女は微笑んだ。恍惚とした、半ば以上狂気に近い微笑みだった。
「──ところが、今日。たった一つだけ、灯が点ったのです」
少女がその狂気を語る姿を見て、塁は悟った。真実の探究、新たなる発明、未知への挑戦のためにあらゆる犠牲を厭わない、ある種の研究者だけが持つ、あの狂気。これは、自分と同じ種類の人間だ。と、同時に、塁の頭脳は凄まじい速度で回転を始めていた。
人の思考は、普通なら何かに保持されている。肉体なら脳に。人格エミュレーターなら計算機に。三十日間、千倍の速度で回っていた自分も例外ではなかった。器が肉から計算機に変わっただけで、まだ錨は下りていた。だから、ルイーゼが索しても視えなかったのだ。
そして──転送が始まった。人格エミュレーターからは切り離され、肉体にはまだ届かない。あの数百粍秒だけ、精神を保持する場所が何処にも無くなった。地球史上、初めて、錨の外れた人の精神が灯った。選ばれたのではない。其処にしか灯が無かっただけだ。錨を上げた船だけが、潮に攫われる。
「ルイーゼさん」
塁は、努めて静かに言った。
「一つ訊かせてください。……その咒紋式は、受け取ったものを、どうするんですか」
「術者の意識野に展開いたします。想念でも、映像でも、言葉でも……」
「遮断機構は」
「……え?」
「受け取りたくないものが来た時に、切る機構は」
ルイーゼの微笑みが、ほんの少しだけ、固まった。
「……遺跡から出土した古文書の咒紋式には、虫食いが多くございまして。索す節と、受ける節は復元できたのですが、最後の一節だけが、どうしても読めませんでした。……ですが、受け取るだけならば害は無いだろうと……」
塁は目を閉じた…──蓋の無い受信機。書き込み先の番地は、少女の額に、生まれた時から埋め込まれている。そして今、其処に流れ込もうとしているのは、想念でも映像でも言葉でもない。人格其のものの差分である。術式は職務に忠実だった。何一つ間違えていない。ただ、書き込んではならないものを、正確に書き込もうとしているだけだ。
「ルイーゼさん」
塁はルイーゼを正面から見た。
「私はこれで失礼する。今すぐに」
「そんなに先を急がずとも……異世界の話をもっと聴かせてほしい。あちらはどんな世界なのだ?どんな學問が発達し、どんな文明が興り、どんな人々が住んでいるのだ?」
興奮のあまり、少女の言葉遣いが素に戻っている。
「そんな猶予はない……判らないか?ボクは今、貴女に書き込まれている最中だ。このまま此処に居続ければ、二人のどちらか、或いは二人ともが、『消失』するぞ」
「そんな……」
塁はティーカップを置いてソファーから立ち上がろうとした。しかし、その塁の手を、ルイーゼがしっかりと掴んで引き止める。少女の力としては驚くほどの力。
「そんな……そんなつもりでは……」
その言葉に少女は一瞬凍りつくが。何かの共感が生じ、間もなく彼女はその言葉の意味を理解した。塁はルイーゼの手の力が緩んだ瞬間に、その手を振りほどいて部屋を出ようとしたが。手が離れない。
彼女の手の力はもはや抜けているにも関わらず、お互いの手が接着されたかのように離れない。ルイーゼも驚愕の表情をその幼い顔に浮かべ、今度はお互いを引き離そうと、二人は渾身の力を込めるが、二人の皮膚はピタリと張り付いたかのように離れない。それどころか。気が付くと二人の手は互いに融け合っている。変形し絡み合う二色の肌色の塊──スライムのようになって、繋いだ手はいつの間にか融合しつつある。
体のスライム化は徐々に手から腕──腕から肩に進行し、互いに離れようとする努力に反して、二人の体は徐々に一塊となっていく。服も肉体の一部になったようにくっついて融け合い。引き離せないままに、お互いの胴体が。足が…頭が…顔が。渾然一体となっていく。これは融合ではない、と塁の最後の理性が観測した。これは書き込みだ。此の光景は、少女の内世界が其れを表現しているに過ぎない。
肉体の融合が進むと同時に、塁の意識にルイーゼの記憶が流れ込んでくる。そして、ルイーゼの人格を塁の感情が浸食してゆく。お互いがお互いの中に激しい勢いで流れ込み。凄まじい苦痛が、快楽が。その魂を襲う。その衝撃に、苦悩に、喜悦に、二人は意識を手放した。
*
無意識の混沌から浮上してくる間──樣々な夢を見た。それは。悪夢になったり、楽しい夢になったり、意味不明の夢だったり、長い。長い。永い時間が経過したように感じる。意識を失っている間も、夢のなかでも深刻な頭痛が酷く、絶えず眩暈と吐き気に襲われ続けたが、徐々にそれも引いていった。だが、脳は中々目覚めたがらず、浅い眠りの中、混沌とした夢が寄せては返す波のように、増殖しては、消滅し、長い時間掛けて、脳が何かを模索して必死に再構築しているようだった。
厨二病を患っていた中学生の頃にお世話になった古武術の鬼師匠──が出てきて地獄の稽古が始まったかと思ったら、大学で学生相手に最新VR技術についての講義をやっているシーンがよぎったり、子供の頃一度だけ会った親戚の叔父さんがひょっこり出てきたり、アニメのワンシーンの中に入り込んだような映像を見たり、中世ヨーロッパの城の中で暮らしているお姬樣の役割を演じたり、お父さんに教えられて咒文を唱えて何か魔法のようなものを使っていたり、咒紋の師匠に厳しく指導されながら修行に励んでいたり。帝國國立咒紋アカデミアで出会った親友達と馬鹿話に興じたり、かと思ったら、大学時代にハマったVRMMOのRPGのアバターを演じていたり、正にカオスだ。夢はカオスだ。
脳裏を走馬灯のように、記憶の奔流が駆け抜けてゆく。樣々な記憶が閃光のように燦めいては泡沫のように消えてゆく。それは夢、それは幻、それは想念の影。
『自分は……塁?……それともルイーゼ?』
ふと疑問が脳裏を過ぎる。いつの間にか頭痛はなくなり、静かに永い。夢のない深淵の眠りを経て、ゆっくりと意識が浮上し、やがて、スッキリとした感じで目覚める。
『知らない天井……』
塁の側の記憶から、遥かな昔のアニメにあった台詞が浮かんだ。目を開くと、其処に見えたのは、見慣れない古めかしい天井──中世ヨーロッパ風建築の天井だった。ベージュ掛かった白を基調としながら、縁取りのように細密な華柄の模樣が描かれている。見るからに高級そうな部屋である。其処に派手さはないものの、部屋の装飾の一つ一つにも手の込んだレリーフが刻み込んである。
『高級ホテルのロイヤルスイートか?……いやいや違う……何処かの、王侯貴族の館?』
そう判断しても可怪しくない造りである。ベッドのパーツ一つ一つまでもがハンドメイドで丁寧に細工されている。
視界に映る家具は鏡台、読書机、ベッドサイドの椅子──椅子では、壮年の金髪女性が、うたた寝をしている。その姿を見て、記憶の切り替えスイッチが入る。
『いやいや……私ったら何を考えているの。そこで居眠りしているあの人は乳母のアンネゲルト“Annegert”じゃないの』と、ルイーゼは思い直す。
『そう……此処は自分の寝室じゃないの』と。
『では……先ほど自分が頭のなかで考えたコトは何?』急に不安が襲ってくる。ルイーゼは、アニメとか中世ヨーロッパ等という概念──自分がルイーゼならば知らない概念が自分の脳に自然に存在している事実に驚いた。アニメやヨーロッパという概念に結びつく記憶は。何処から?
『私は……ルイーゼ……ルイーゼ・アデルハイト・フォン・シュタインエック……シュタインエック“Steineck”帝國伯令嬢にして、第十三座宮廷咒紋司……咒紋學者……時空咒紋の研究者……』ルイーゼは思い起こす。しかし、同時に、もう一つの思考が頭脳を巡る。
『ボクは……塁……常磐塁……大学で量子コンピューターと人格エミュレーションの研究を行う科学者、理学博士、工学博士、生物学博士……。いや、その人格データ……。其れも、捨てる予定だった方の』塁は混乱していた。自分の中に平行して存在するもう一人の記憶──自我は一個なのに、二人分の記憶。
『自分は……何者……塁?……ルイーゼ?』
ルイーゼの思考からすれば、塁の記憶は夢泡沫。幻覚のようなもの。しかし、幻覚と片付けるにはあまりにも緻密に構築された記憶・意識・感情。塁としての立場を取れば。今此処に存在すること自体が異常事態──何よりも塁の記憶だけでは自分がここに存在することの明確な説明ができない。自分は塁でありルイーゼ。そのどちらでもあり、どちらでもない。その答えが最も自分の胸にすっと来るようである。激しい混乱と葛藤の嵐がその精神を蹂躙した後──唐突に、落ち着く。全てが在るべき処に収まった感覚。
ルイーゼが時空咒紋式によって次元の境界に穴を竅ち、遥か彼方に灯った唯一の灯を索し当てたこと。同時に塁の側で、器から出た人格差分が、どちらにも属さぬ剥き出しの情報として転送経路上に宙吊りになったこと。その二つが咬み合った。受ける節はあり、遮断する節が無かった。ゆえに術式は職務に忠実に、受け取ったものを術者の意識野に、額の咒晶石を経て、ルイーゼ・アデルハイト・フォン・シュタインエックの脳に、展開した。書き込んではならないものを、正確に書き込んだのだ。
本来同一人物に書き込まれるべきデータと異なり、別人への書き込みが行われたために、もとの人格も残存し、上書きされた人格も存在し、二人分の記憶を持ってしまうという異常事態が生じてしまったわけだ。余りにも乖離した二つの人格の統合の為に、それは、その二つの人格の崩壊と新たな人格の誕生とも言うべき変化が生まれた。この世界の貴族であり宮廷咒紋司であり咒紋學者である少女──ルイーゼ・アデルハイト・フォン・シュタインエック──そして、異世界の科学者の、破棄予定であった差分──常磐塁──その二人が一つの脳に重なるように存在しているのだ。
それは、塁であり同時にルイーゼである者──それは、塁でもなくルイーゼでもない者──二人の記憶を持ち、再構築された新たな人格を持つ者。塁=ルイーゼとでも名乗るべきか。いや。『るい』とでも言うべきか。ルイーゼも塁も…あの部屋で出会い…そして、共に死んだ…消滅した。そして、融合し、再構築され。新たな存在となった。死と再生──破壊と創造──を経て新たな『るい』が生まれた。今生まれたのだ。そして、るいは、目覚めて最初の作業として、自分自身の検算を行った。
配合比、およそ七対三。塁が七、ルイーゼが三。人格融合が始まった時点までに、それぞれの世界で過ごした三十五年と十四年余を、十を基準に丸めて見た比率である。其れは、比喩ではなかった。るいには、その比率が、数として視えていた。咒眼の視野の隅に、ごく淡く、常に。そして──其の数が、固定されたものではないという予感が、なぜか、確信としてあった。そして、その少女の肉体に宿った者は、静かに微笑んだ。




