第玖節『査定』 Der neunte Abschnitt : “Prüfung”
天環暦2109年02月10日。
二度目の呼び出しは、期限の翌日に来た。同じ廊下を歩き、同じ扉を押す。書棚は相変わらず天井まで書類で埋まり、机の上には山が聳え、床にも束が積まれている。蝋燭は二本…窓は小さい。違うのは、机の上の書類の配置だけであった。るいの届け出書の束が、老人の右手側に積まれている。八十九件。厚みにして、指三本分。
「座られよ」
「はい」
椅子の上の書類を床に移す。順を崩さぬように。ゲーアハルトは、しばらくるいを見た。
「八十九件、全て受理された」
「はい」
「三十七件と申したはずだが」
「分類欄に書けませんでしたので、単系統に分解致しました。結果、八十九件になりました」
「……分解したか」
「はい」
老人は、束の上に手を置いた。
「其れは、技を捨てるということだぞ」
「はい」
「判っておるのか」
「判っております」
るいは、まっすぐに答えた。
「分解した式は、系統ごとに分かれておりますので、三人の咒紋司が居れば同じことができます。速度は落ちますが、原理は同じです。……骨を切らずに治すことが、私以外にもできるようになります」
「其れで良いのか」
「良いも悪いも、其れ以外に手がございませんでした」
これは本音である。抜け道は四つ試して四つとも潰れた。
「……ですが、」
るいは、続けた。
「其れが悪いことだとは、思っておりません」
「ほう」
「広まった方が、良いものかと存じます」
老人の眉が、僅かに動いた。
「……理由を申せ」
「囲えば、其れは秘術にございます。私が死ねば消えます」
「うむ」
「広まれば、其れは技術になります。誰かが真似をし、誰かが改良し、誰かが私の思いつかなかった使い方を見つけます。……そして其の全てが、咒紋府の紋帖に積み上がってまいります」
るいは、束を指した。
「私は八十九件を渡しました。ですが十年後には、其れが二百件になっているかもしれません。私が組んだのは八十九件ですが、|私が読めるのは二百件になります《・・・・・・・・・・・・・・・》」
老人は、暫く黙っていた。それから、初めて、溜息らしい溜息を吐いた。
「……そういう考え方を、何処で覚えた」
「……」
「ルイーゼ嬢。此の帝國の咒紋司は、そういう考え方をせぬ。家ごとに紋帖を隠し、他家には見せぬ。師は弟子に全ては教えぬ。惜しむのだ、皆。……惜しまぬ者を、私は二人しか知らぬ」
「……二人」
老人は、答えなかった。代わりに、束を左手側に押しやった。
「処分は取り消す」
*
「……有難うございます」
「礼には及ばぬ。規程通りだ。届け出て受理された以上、未届け出の事実は消える。人体への直接展開の一件も、届け出書に治療の目的が記されておるゆえ、癒系に準ずる扱いとした」
「……準ずる」
「規程に、そう読める余地がある」
るいは、内心で唸った。
『……この爺さん、|自分でも抜け道を探していたな《・・・・・・・・・・・・・・》』
処分せぬための理屈を、老人は自分で組み立てていたのだ。免許剥奪と告げておきながら、その一方で、剥奪せずに済む条文を探していた。
『……何を考えているんだ、この人は』
「……ところで」
「はい」
「貴殿には、氣學の席が与えられておる」
ゲーアハルトは、新しい書類を一枚、机に置いた。るいは、それを見た…辞令である。
「第十三座。咒氣そのものを扱う席だ。……長らく空席同然であったな」
「……はい」
「私が就任した頃には、既に誰も座っておらなんだ。実利が乏しいゆえ、志望者も居らぬ。座を廃するという議も、幾度か出た」
老人は、辞令を指で押さえた。
「これを機に、働いて頂こう」
*
辞令の内容は、簡潔であった。
宮廷咒紋司第十三座に対し、帝國東部十七州の
州咒紋所を巡察し、当該州における咒源の狀態を
調査の上、報告することを命ず。
期間、六月。
るいは、それを二度読んだ。そして、この辞令が何であるかを、正確に理解した。東部十七州。──帝國の東の端、咒源から最も遠い一帯である。あの地域では、咒紋が碌に働かぬ。灯火の紋一つを点すのにも咒力を食い、複雑な式など組めたものではない。この帝國において、咒紋司が最も無力になる土地であった。
『……武器を取り上げられるわけだ』
六月…半年である。その間、宮廷にも咒紋府にも顔を出せぬ。其の間に何が決まろうと、るいは関われぬ。そして。
『……旅費』
巡察の費用は、原則として当人持ちである。支給はあるが、遠隔地の巡察を賄える額ではない。真の帝國伯であれば領地の上がりで補える。称号伯には、補えるものが無い。八十九件の届け出で、既に家計は底を突いている。上物の紙代で、今年の予算は使い果たした。左遷であり、無力化であり、兵糧攻めである。しかも、規程通りである。第十三座は氣學の席であり、氣學とは咒氣そのものを扱う學である。咒源の調査は、まさに氣學の職掌であった。空席同然であった座に人が入ったのだから、職掌通りの任を与えるのは当然である。誰も、何一つ、間違えていない。
『……上手いな』
るいは、素直に感心した。この老人は、一度も手を汚さぬ。剥奪すべきだと言い、処分せぬと言い、届け出よと言い、そして職掌通りの任を与える。全て規程の内側にある。恨む先が何処にも無い。十七年、るいは幾人かこういう人間を見てきた。彼らは大抵、極めて有能であった。
「……」
顔を上げると、老人がこちらを見ていた。例の、何も読めぬ静かな目である。だが今度は、るいは気付いた。この老人は、返事を待っている。辞令を突きつけて、こちらが何と言うかを見ている。抗弁するか、泣きつくか、それとも黙って受けるか。
『……確かめている』
召喚の時と同じである。この人は、叱るためではなく、確かめるために呼ぶ。
『……何を確かめているんだ』
判らない。判らないが、答えは決まっている。なぜならるいは、この辞令が欲しかったからである。
*
「謹んで、お受け致します」
るいは頭を下げた。そして、頭を下げたまま、続けた。
「……つきましては、一つお願いがございます」
「申せ」
「巡察の際、咒源の測定を行いたく存じます。其のために、咒紋府の過去の測定記録を閲覧させて頂きたい。東部十七州の分、全てです」
老人の指が、机の上で一度、止まった。
「……全て、と申したか」
「はい」
「何年分だ」
「有る限り」
「……何に使う」
「比べます」
るいは顔を上げた。
「今の咒源の狀態を測っただけでは、其れが強いのか弱いのかも判りません。昔の記録と比べて初めて、増えたのか減ったのか、変わらぬのかが判ります。……調査せよとの仰せであれば、比べる相手が要ります」
ゲーアハルトは、答えなかった。るいは、更に続けた。
「それから、東部以外の記録も頂きたく存じます」
「……東部を巡察せよと申したはずだ」
「はい。ですが東部だけを見ても、東部の異常は判りません。他と比べねば、其れが東部固有のことなのか、帝國全土のことなのかが判りませんので」
「……」
「私は氣學の座にございます。氣學とは、咒氣そのものを扱う學と伺っております。其れならば、帝國全土の咒氣を見るのが、職掌かと存じますが」
沈黙が、長かった。やがて老人は、机の上で指を組んだ。
「……貴殿は、」
「はい」
「此の任を、罰だと思っておらぬな」
るいは、正直に答えた。
「思っておりません」
「何故だ。東部は咒紋の効かぬ土地だ。貴殿は半年、術者として無力になる」
「はい」
「それでも罰ではないと」
「咒源を、この目で見られますので」
るいは、少しだけ笑った。
「ルイーゼは──私は、二年、机の上で咒氣を研究してまいりました。文献と、僅かな観測と、想像だけで。実地に見たことは、ただの一度もございません。其れが、十七州を回れます」
老人は、るいを見た。そして、初めて、ほんの僅かに、表情が動いた。笑ったのかもしれぬ。あるいは、眉をひそめたのかもしれぬ。蝋燭の光が足りず、るいには判別できなかった。
「……記録は、第四座に申し伝えておく」
「有難うございます」
「東部以外の分も、だ」
「……有難うございます」
「ただし、」
老人は、束の上に手を置いた。
「持ち出しは許さぬ。写しを取られよ」
るいの頬が、僅かに引き攣った。
『……紙』
*
帰り道、るいは珍しく歩いて帝都を横切った。馬車を出す余裕が無かったからである。夕方の大通りは人で溢れている。荷車が行き、隊商が抜け、物売りが声を上げ、子供が走る。此の帝國の物流は馬と荷車と船である。咒紋がどれほど発達しようと、麦は馬が運ぶ。るいは歩きながら、頭の中で計算していた。東部十七州、六月。宿代、食費、馬の借り賃、案内人への謝礼。それに測定用の器具。そして──帝國全土の咒源測定記録の写し。何年分あるか判らぬが、少なくとも数百枚。中物の紙で構わぬが、それでも数百枚である。
『……足りない。全く足りない』
家計は底を突いている。エルメンガルトに言えば、今度こそ倒れるであろう。アンネゲルトはまた年金を出すと言い出すに違いない。
『……借りるか』
貴族が金を借りる先は、決まっている。都市の商人である…るいは足を止めた。目の前に、大きな店構えがあった。軒下に掛かった看板には、欠環の意匠と、束ねた紙の絵が彫られている。帝都で最も大きな紙問屋であった。るいは、しばらくその看板を見上げていた。そして、思い出した。八十九件分の上物の紙を、この店から買ったのだ。エルメンガルトが泣きそうな顔で帳簿を睨みながら、それでも一番安く仕入れられる先として選んだのが、此処であった。
『……得意先ではあるな』
もっとも、得意先というのは金を落とす者のことであって、金を借りに来る者のことではない。るいは、深く息を吸った。そして、暖簾を潜った。
*
通されたのは、奥の帳場である。紙の匂いが充満していた。咒紋府の匂いとは違う。あちらは書かれた紙の匂いで、此処は書かれていない紙の匂いであった。卓の向こうに、五十がらみの男が座った。でっぷりと肥え、指は太く、爪は綺麗に整えられている。身なりは質素だが、着ているものの生地は上等であった。目つきは柔らかく、そして、全く笑っていない。
「ハンネス・ブルクマイア“Hannes Burgmayr”と申します」
「シュタインエック伯令嬢と申します」
「存じております。先月、上物を二百五十枚」
「……はい」
「一昨年の秋にも三十枚。その前は、五年ばかりお取引がございません」
男は、帳面も見ずに言った。
『……覚えているのか、全部』
るいは、少し背筋が冷えた。
「本日は、お買い上げでございましょうか」
「……いえ」
「では、」
ブルクマイアは、初めて僅かに目を細めた。
「掛けでございますね」
るいは、頭を下げた。
「中物を、五百枚。それと、旅費を。……当面、返せる当てがございません」
男は、しばらく黙っていた。それから、太い指で卓を一度叩いた。
「宜しゅうございます」
るいは、思わず顔を上げた。
「……宜しいのですか」
「はい」
「理由を伺っても」
「伺ってもよろしいので」
男は、少しだけ姿勢を崩した。
「……先月、二百五十枚をお買い上げの折、うちの手代が申しておりました。帝國伯令嬢が、下物を八百枚、別にお買いになったと」
「……はい。下書きに使いました」
「其れでございます」
ブルクマイアは、両手を卓の上で組んだ。
「上物を二百五十枚お買いになるお方は、大勢いらっしゃいます。ですが、其の前に下物で八百枚練習なさるお方は、ついぞ見たことがございません。……手前どもの商いは紙にございますが、視ておりますのは紙ではございません。|紙の使い方にございます《・・・・・・・・・・・》」
男の目が、初めて、僅かに笑った。
「……無駄にせぬお方には、お貸し致します。爵位は存じません。帳簿しか存じません」




