↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
るい's Journey!  作者: コリドラスA
第一章『咒紋府』
11/19

第拾節『辺境』 Der zehnte Abschnitt : “Grenzland”

天環暦2109年06月01日。


 出立は、初夏であった。一行は四人である。るい(・・)と、エルメンガルトと、御者を兼ねた下男が一人、そして咒紋府から付けられた記録係の書記が一人。当初、エルメンガルトは屋敷に残す心算であった。六月の旅である。屋敷を空にはできぬ。ところが女中頭は、()れを聞いた途端に眼鏡の位置を三度直し、そして半刻にわたってるい(・・)(さと)した。曰く、帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)が女中も連れずに旅をするなど前代未聞である。曰く、宿の格が下がる。曰く、着替えはどうなさるおつもりか。曰く、髪はどなたが結うのか。曰く、書類の整理を誰がやるのか。

 最後の一つが決定打であった。

「……六月分の記録を、帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)お一人で綴じられるのですか。日付順に。州ごとに。()れも、宿を替えながら」

「……エルメンガルト」

「はい」

「連れて行く」

「承知致しました」

 屋敷はアンネゲルトとユリアーネに任せた。二人とも、るい(・・)が屋敷を出る朝、門の前で長いこと手を振っていた。ユリアーネは薬湯の材料を詰めた籠を三つも持たせ、アンネゲルトは餞別に何かを握らせようとして、るい(・・)に押し返された。馬車は、ブルクマイアが手配してくれた古い荷馬車である。貴族の乗るものではないが、荷が積める。るい(・・)は測定用の器具と、中物の紙五百枚と、写しを取った測定記録の綴りを積み込んだ。都を出て、東に向かう。

 街道は良く整備されていた。宿場があり、関所があり、隊商とすれ違う。物は馬と荷車と船で運ばれる。咒紋(ツァウベライ)がどれほど発達しようと、麦は馬が運ぶのだ。三日目、るい(・・)は最初の異変に気付いた。


          *


「……重い」

 宿の部屋で、るい(・・)は掌の上の小さな灯を見ていた。『灯火』である。最も基礎的な咒紋式の一つ。子供が最初に習う紋であり、るい(・・)にとっては、考えることすら要らぬ動作の筈であった。その灯が、鈍い。光量が足りぬのではない。組むのに力が要る(・・・・・・・・)のだ。都に居た時は、掌を開けば灯が点いた。今は、意識して咒力を引かねば点かぬ。咒眼(ツァウバアウゲン)で周囲を()る。

 咒氣(エーテル)の層は、確かに其処(そこ)にある。だが、薄い。都では層が幾重にも重なって見えたものが、此処(ここ)では二枚か三枚しかない。しかも、その二枚が細かく波打っている。紋を書き込む面が、揺れているようなものであった。

帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)

 書記が、記録の帳面を持って入ってきた。咒紋府から付けられた男である。名をコンラート“Konrad”、まだ二十代の若い書記で、真面目だが口数が少ない。彼は咒晶石(ツァウバシュタイン)を持たぬ。

「本日の測定値、綴じ終わりました」

「ご苦労。……コンラート」

「はい」

此処(ここ)は、都から何日だ」

「三日にございます」

「三日で、こうなるのか」

「……はい。私共は、咒紋を使いませぬので、実感はございませんが」

 るい(・・)は、灯を消した。消す時も、微かに力が要った。

『……都から三日で、これか』

 東部十七州の最も遠い州まで、二十日以上かかる。


          *


 十日目には、複雑な式が組めなくなった。二十日目には、日常の紋すら怪しくなった。最も遠い州──ヘァブストフェルト“Herbstfeld”州に入った時、るい(・・)は『灯火』を点すのに、丸一呼吸を要するようになっていた。都であれば、瞬きの間である。村の宿の裏庭で、るい(・・)は試しに幾つかの紋を組んでみた。『念動』──掌ほどの石を持ち上げるのが精一杯。都では、自分の全身の骨格を同時に操作した。『透視』──自分の掌の骨が、辛うじて()える。都では、全身の内部構造を細胞の配列まで観察した。

 潜行(ドゥルヒガング)──組めない…全く組めない…『切断』──刃が厚い。紙は切れるが、木は切れぬ。氷の式──組めない。電気パルス──組めない。骨格再構成の八十九件──一件も組めない(・・・・・・・)

「…………」

 るい(・・)は、裏庭の土の上に座り込んだ。夕暮れであった。村の向こうに低い山があり、その稜線が赤く染まっている。鶏が鳴き、遠くで牛の声がする。

『……無いのか』

 全部、無い。この二月余りで積み上げてきたものが、此処(ここ)では一つも使えぬ。前例なき深度も、系統をまたぐ発想も、十七年分の科学も、組む面が無ければ(・・・・・・・・)何の役にも立たない(・・・・・・・・・)。どれほど優れた計算手順を知っていても、計算機(コンピューター)が無ければ動かぬ。どれほど優れた論文を書けても、実験装置が無ければ検証できぬ。

『……ああ』

 るい(・・)は、両手で顔を覆った。覚えがある。予算が付かなかった年のことである。装置が買えず、試薬が買えず、彼はただ紙の上で計算をしていた。頭の中には次にやるべき実験が幾つもあった。手順も条件も全て書いてあった。だが、やれなかった。あの一年、彼は何も生み出さなかったし、能力の問題ではなかったし、器の問題であった。

『……そうか。あの爺さん、これが判っていたのか』

 ゲーアハルトは、るい(・・)の武器が何であるかを正確に理解していた。理解した上で、その武器が働かぬ土地に送ったのだ。実に見事な手であった。そして、るい(・・)は自分が笑っていることに気付いた。

『……上等だ』


          *


 その夜、るい(・・)は宿の亭主に頼んで、村の水車小屋を見せてもらった。咒紋が働かぬ土地では、水を汲むにも、粉を()くにも、機械が要る。都であれば『念動』で済む作業を、()の村では木と水でやっている。小屋の中は、暗く、湿っており、そして絶えず軋んでいた。水車の軸から、木製の歯車が四つ、順に噛み合っている。るい(・・)は蝋燭を掲げて、その連なりを見上げた。

『……減速比を、二段階で落としているのか』

 水車は速いが、力が弱い。臼は遅くていいが、力が要る。歯車の歯数を変えて回転を落とし、その分だけ力を稼ぐ。その通りの構造(・・・・・・・)がそこにあった。しかも歯の形が、ただの棒ではない。先が僅かに膨らみ、根元がくびれている。噛み合う瞬間の滑りを減らす形狀である。

『……誰が設計したんだ、これを』

「……こちらは、いつ頃のものですか」

 るい(・・)は、亭主に訊いた。

「さあ……儂の祖父さんの代には有りましたな。歯は、二十年に一度ばかり作り替えます」

「歯の形は、どなたがお決めに」

「形も何も、この形でございます(・・・・・・・・・)

 亭主は不思議そうな顔をした。

「昔から、こう作るものと決まっておりますで」

 るい(・・)は、蝋燭を持ったまま、しばらく歯車を見上げていた。誰かが設計したのだ。名も残っていない誰かが、何百年か前に、この形に辿り着いた。試し、失敗し、削り直し、また試して。()の答えだけが残り、()れを見つけた者は消えた。今の村人は、なぜこの形なのかを知らぬ。ただ、こう作るものと決まっている。都の貴族は、これを「田舎の珍奇な仕掛け」と呼ぶ。

『……同じだ』

 咒紋(ツァウベライ)と、同じである。誰かが原理を見つけ、答えだけが残り、原理は消えた。千年後の人々は、なぜそうなのかを知らぬまま、ただ写している。規模が違うだけだ。この村の水車も、帝國の咒紋術も、同じ壊れ方をしている(・・・・・・・・・・)

『……いや』

 るい(・・)は、蝋燭を下ろした。

『違うな。この水車は、今も作り替えている(・・・・・・・・・)

 二十年に一度、歯を作り替える。原理は知らずとも、修繕はできる。咒紋術には、()れが無い。紋が壊れたら、誰も直せぬ。


          *


 ヘァブストフェルト州の州咒紋所で、るい(・・)は最初の記録を取った。測定は単純である。咒眼(ツァウバアウゲン)で咒氣の層を数え、厚みを見、揺らぎを測る。器具は補助に過ぎぬ。咒眼(ツァウバアウゲン)が本体であり、そしてるい(・・)咒眼(ツァウバアウゲン)は、この土地でも損なわれていなかった。組むのに力が要るだけで、()るのは変わらぬのだ。結果は、写しを取ってきた過去の記録と比べられた。二十年前の測定値、四十年前の測定値、六十年前の測定値。どれも、今より高い。

「……減っているな」

「はい」コンラートが帳面に書き込む。「二十年前と比べて、およそ一割五分の減少にございます」

「六十年前と比べると」

「……三割ほど」

「うむ」

 るい(・・)は、腕を組んだ。

『……徐々に減っている。これは、通説の通りか』

 咒源は涸れるもの、というのが帝國の通説である。泉が涸れるように、咒源も涸れる。自然の摂理であり、誰も疑わぬ。三割の減少は、緩やかである。六十年で三割なら、涸れると呼ぶには早すぎるが、傾向としては通説と矛盾しない。

『……ふむ』

 るい(・・)は、次の州に向かった。


          *


 異常が出たのは、七番目の州であった。フェルゼンハント“Felsenhand”州。岩がちの山間の州で、州咒紋所は谷底の小さな町にある。この州には、咒源が一つある。正確に言えば、あった(・・・)

「……何も無い」

 るい(・・)は、谷の斜面に立っていた。過去の記録によれば、この谷の上流に咒源がある。四十年前の測定値は、東部としては高い方であった。二十年前もそれほど落ちていない。今、其処(そこ)には何も無い。薄いどころではない。咒氣(エーテル)の層が、完全に途切れている(・・・・・・・・・)るい(・・)は掌を開き、『灯火』を組んでみた。組めない。組めないのではなく、書く面が無い(・・・・・・)。紋を置こうとしても、置く場所が無い。宙に字を書こうとしているようなものであった。背後で、コンラートが不安げに立っている。彼は咒晶石(ツァウバシュタイン)を持たぬゆえ、何も見えぬ。彼にとって、この谷はただの谷である。

「……何か、ございますか」

「無い」

「は」

「無いのだ。何も」

 るい(・・)は、谷を見渡した。斜面の中腹に、石積みの跡がある。かつて何かの建物があったのだろう。今は崩れて、草に埋もれている。人は、居ない。

『……死地か』

 通説では、涸れた咒源の上には人が住まぬ。咒紋が効かぬからではない。この東部では元より咒紋は碌に効かぬのだ。人が去るのは、水が枯れ、作物が育たなくなるからだと言われている。咒源と農作物の間に、どういう理屈があるのかは、誰も説明できぬ。ただ、そうなると決まっている。


          *


 その晩、るい(・・)は宿で記録を読み返した。四十年前の測定値…二十年前の測定値…そして、今の値、零。二十年前は、まだ有ったのだ。東部の他の州は、六十年で三割減っている。緩やかである。ところがこの州は、二十年で全部消えている(・・・・・・・)

『……涸れ方が、違う』

 るい(・・)は筆を執り、下物の紙に線を引いた。横軸に年、縦軸に測定値。他の州の値を打点すると、緩やかに右下がりの線になる。六十年で三割。この州の値を打点する。四十年前、高い…二十年前、ほぼ同じ…そして今、零。

『……段差だ』

 徐々に減ったのではない。二十年前から今の間の、どこかで、落ちた(・・・)のだ。泉が涸れるなら、こうはならぬ。泉は徐々に細り、やがて滴になり、そして止まる。これは、切れたのだ(・・・・・)

帝國伯令嬢(ライヒスグレフィン)

 エルメンガルトが、薬湯を持って入ってきた。ユリアーネが持たせた材料で、女中頭が毎晩煎じている。

「もうお休みくださいませ。三日、碌に眠っておられません」

「うむ」

()の紙は、何でございますか」

「……図だ」

「図」

「数字を、絵にしている」

 エルメンガルトは、るい(・・)の手元を覗き込んだ。そして、しばらく黙ってから、正直に言った。

「……何が描いてあるのか、私には判りませんが」

「うむ」

()れは、良くない(・・・・)ものでございますか」

 るい(・・)は、線を見た。二十年で、垂直に落ちた線。

「……判らん」


          *


 翌朝、るい(・・)はもう一度、谷に登った。何も無いことを、もう一度確かめるためである。斜面の中腹、崩れた石積みの前に立ち、咒眼(ツァウバアウゲン)を凝らす。やはり、何も無く、層が無く、揺らぎも無い。都のように厚くもなく、辺境のように薄くもなく、端的に無い(・・・・・)るい(・・)は、掌を地面に押し当てた。そして、無理を承知で、咒力を通してみた。

 この土地に紋は書けぬ。書く面が無いのだから当然である。だが、咒力そのものは自分の内から出るものではない──咒氣(エーテル)から引くものである。ならば、|引くものが無い場所で引こうとすれば《・・・・・・・・・・・・・・・・・》、どうなるか。純粋な好奇心であった。結果は、すぐに出た。何も起こらなかった(・・・・・・・・・)。空井戸に桶を落としたようなものである。手応えが無い…抵抗も無い。咒力は引けず、紋も浮かばず、ただ静かであった。

「……ふむ」

 るい(・・)は掌を離し、立ち上がった。そして、視界の隅を()た。比率である。目覚めた日から、咒眼(ツァウバアウゲン)の視野の隅に、ごく淡く浮かんでいる数。七対三…変わっていない。変わっていないが、合計が、また減っていた。高熱の朝に見た時よりも、明らかに。

『……』

 るい(・・)は、()の数をしばらく見つめていた。今度は、高熱ではない。三日眠っていないのは事実だが、意識は明瞭であり、咒眼(ツァウバアウゲン)の他の像は全て鮮明である。谷の岩肌の一つ一つまで、はっきりと見えている。観測誤差では、無い。そして、るい(・・)は、もう一つのことに気付いた。今、減ったのだ。地面に掌を押し当て、咒力を引こうとした、あの時(・・・)。何も起こらなかったと思っていた。手応えが無かった。空井戸に桶を落としたようだと思った。

『……いや』

 空井戸ではない。|何も起こらなかったのではない《・・・・・・・・・・・・・・》。引こうとして、引けなくて、|代わりに何かが出て行ったのだ《・・・・・・・・・・・・・・》。氷を作った夜の、あの手触りと、同じであった。

「…………」

 るい(・・)は、掌を見た…何も無い…掌は掌である。傷も、汚れも、何も無い。風が吹いた。草が鳴り、崩れた石積みの隙間で、何かが微かに音を立てた。るい(・・)は、谷を降りた。この日の記録に、()のことは書かなかった。書く欄が、無かったからである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。