第拾節『辺境』 Der zehnte Abschnitt : “Grenzland”
天環暦2109年06月01日。
出立は、初夏であった。一行は四人である。るいと、エルメンガルトと、御者を兼ねた下男が一人、そして咒紋府から付けられた記録係の書記が一人。当初、エルメンガルトは屋敷に残す心算であった。六月の旅である。屋敷を空にはできぬ。ところが女中頭は、其れを聞いた途端に眼鏡の位置を三度直し、そして半刻にわたってるいを諭した。曰く、帝國伯令嬢が女中も連れずに旅をするなど前代未聞である。曰く、宿の格が下がる。曰く、着替えはどうなさるおつもりか。曰く、髪はどなたが結うのか。曰く、書類の整理を誰がやるのか。
最後の一つが決定打であった。
「……六月分の記録を、帝國伯令嬢お一人で綴じられるのですか。日付順に。州ごとに。其れも、宿を替えながら」
「……エルメンガルト」
「はい」
「連れて行く」
「承知致しました」
屋敷はアンネゲルトとユリアーネに任せた。二人とも、るいが屋敷を出る朝、門の前で長いこと手を振っていた。ユリアーネは薬湯の材料を詰めた籠を三つも持たせ、アンネゲルトは餞別に何かを握らせようとして、るいに押し返された。馬車は、ブルクマイアが手配してくれた古い荷馬車である。貴族の乗るものではないが、荷が積める。るいは測定用の器具と、中物の紙五百枚と、写しを取った測定記録の綴りを積み込んだ。都を出て、東に向かう。
街道は良く整備されていた。宿場があり、関所があり、隊商とすれ違う。物は馬と荷車と船で運ばれる。咒紋がどれほど発達しようと、麦は馬が運ぶのだ。三日目、るいは最初の異変に気付いた。
*
「……重い」
宿の部屋で、るいは掌の上の小さな灯を見ていた。『灯火』である。最も基礎的な咒紋式の一つ。子供が最初に習う紋であり、るいにとっては、考えることすら要らぬ動作の筈であった。その灯が、鈍い。光量が足りぬのではない。組むのに力が要るのだ。都に居た時は、掌を開けば灯が点いた。今は、意識して咒力を引かねば点かぬ。咒眼で周囲を視る。
咒氣の層は、確かに其処にある。だが、薄い。都では層が幾重にも重なって見えたものが、此処では二枚か三枚しかない。しかも、その二枚が細かく波打っている。紋を書き込む面が、揺れているようなものであった。
「帝國伯令嬢」
書記が、記録の帳面を持って入ってきた。咒紋府から付けられた男である。名をコンラート“Konrad”、まだ二十代の若い書記で、真面目だが口数が少ない。彼は咒晶石を持たぬ。
「本日の測定値、綴じ終わりました」
「ご苦労。……コンラート」
「はい」
「此処は、都から何日だ」
「三日にございます」
「三日で、こうなるのか」
「……はい。私共は、咒紋を使いませぬので、実感はございませんが」
るいは、灯を消した。消す時も、微かに力が要った。
『……都から三日で、これか』
東部十七州の最も遠い州まで、二十日以上かかる。
*
十日目には、複雑な式が組めなくなった。二十日目には、日常の紋すら怪しくなった。最も遠い州──ヘァブストフェルト“Herbstfeld”州に入った時、るいは『灯火』を点すのに、丸一呼吸を要するようになっていた。都であれば、瞬きの間である。村の宿の裏庭で、るいは試しに幾つかの紋を組んでみた。『念動』──掌ほどの石を持ち上げるのが精一杯。都では、自分の全身の骨格を同時に操作した。『透視』──自分の掌の骨が、辛うじて視える。都では、全身の内部構造を細胞の配列まで観察した。
潜行──組めない…全く組めない…『切断』──刃が厚い。紙は切れるが、木は切れぬ。氷の式──組めない。電気パルス──組めない。骨格再構成の八十九件──一件も組めない。
「…………」
るいは、裏庭の土の上に座り込んだ。夕暮れであった。村の向こうに低い山があり、その稜線が赤く染まっている。鶏が鳴き、遠くで牛の声がする。
『……無いのか』
全部、無い。この二月余りで積み上げてきたものが、此処では一つも使えぬ。前例なき深度も、系統をまたぐ発想も、十七年分の科学も、組む面が無ければ何の役にも立たない。どれほど優れた計算手順を知っていても、計算機が無ければ動かぬ。どれほど優れた論文を書けても、実験装置が無ければ検証できぬ。
『……ああ』
るいは、両手で顔を覆った。覚えがある。予算が付かなかった年のことである。装置が買えず、試薬が買えず、彼はただ紙の上で計算をしていた。頭の中には次にやるべき実験が幾つもあった。手順も条件も全て書いてあった。だが、やれなかった。あの一年、彼は何も生み出さなかったし、能力の問題ではなかったし、器の問題であった。
『……そうか。あの爺さん、これが判っていたのか』
ゲーアハルトは、るいの武器が何であるかを正確に理解していた。理解した上で、その武器が働かぬ土地に送ったのだ。実に見事な手であった。そして、るいは自分が笑っていることに気付いた。
『……上等だ』
*
その夜、るいは宿の亭主に頼んで、村の水車小屋を見せてもらった。咒紋が働かぬ土地では、水を汲むにも、粉を挽くにも、機械が要る。都であれば『念動』で済む作業を、此の村では木と水でやっている。小屋の中は、暗く、湿っており、そして絶えず軋んでいた。水車の軸から、木製の歯車が四つ、順に噛み合っている。るいは蝋燭を掲げて、その連なりを見上げた。
『……減速比を、二段階で落としているのか』
水車は速いが、力が弱い。臼は遅くていいが、力が要る。歯車の歯数を変えて回転を落とし、その分だけ力を稼ぐ。その通りの構造がそこにあった。しかも歯の形が、ただの棒ではない。先が僅かに膨らみ、根元がくびれている。噛み合う瞬間の滑りを減らす形狀である。
『……誰が設計したんだ、これを』
「……こちらは、いつ頃のものですか」
るいは、亭主に訊いた。
「さあ……儂の祖父さんの代には有りましたな。歯は、二十年に一度ばかり作り替えます」
「歯の形は、どなたがお決めに」
「形も何も、この形でございます」
亭主は不思議そうな顔をした。
「昔から、こう作るものと決まっておりますで」
るいは、蝋燭を持ったまま、しばらく歯車を見上げていた。誰かが設計したのだ。名も残っていない誰かが、何百年か前に、この形に辿り着いた。試し、失敗し、削り直し、また試して。其の答えだけが残り、其れを見つけた者は消えた。今の村人は、なぜこの形なのかを知らぬ。ただ、こう作るものと決まっている。都の貴族は、これを「田舎の珍奇な仕掛け」と呼ぶ。
『……同じだ』
咒紋と、同じである。誰かが原理を見つけ、答えだけが残り、原理は消えた。千年後の人々は、なぜそうなのかを知らぬまま、ただ写している。規模が違うだけだ。この村の水車も、帝國の咒紋術も、同じ壊れ方をしている。
『……いや』
るいは、蝋燭を下ろした。
『違うな。この水車は、今も作り替えている』
二十年に一度、歯を作り替える。原理は知らずとも、修繕はできる。咒紋術には、其れが無い。紋が壊れたら、誰も直せぬ。
*
ヘァブストフェルト州の州咒紋所で、るいは最初の記録を取った。測定は単純である。咒眼で咒氣の層を数え、厚みを見、揺らぎを測る。器具は補助に過ぎぬ。咒眼が本体であり、そしてるいの咒眼は、この土地でも損なわれていなかった。組むのに力が要るだけで、視るのは変わらぬのだ。結果は、写しを取ってきた過去の記録と比べられた。二十年前の測定値、四十年前の測定値、六十年前の測定値。どれも、今より高い。
「……減っているな」
「はい」コンラートが帳面に書き込む。「二十年前と比べて、およそ一割五分の減少にございます」
「六十年前と比べると」
「……三割ほど」
「うむ」
るいは、腕を組んだ。
『……徐々に減っている。これは、通説の通りか』
咒源は涸れるもの、というのが帝國の通説である。泉が涸れるように、咒源も涸れる。自然の摂理であり、誰も疑わぬ。三割の減少は、緩やかである。六十年で三割なら、涸れると呼ぶには早すぎるが、傾向としては通説と矛盾しない。
『……ふむ』
るいは、次の州に向かった。
*
異常が出たのは、七番目の州であった。フェルゼンハント“Felsenhand”州。岩がちの山間の州で、州咒紋所は谷底の小さな町にある。この州には、咒源が一つある。正確に言えば、あった。
「……何も無い」
るいは、谷の斜面に立っていた。過去の記録によれば、この谷の上流に咒源がある。四十年前の測定値は、東部としては高い方であった。二十年前もそれほど落ちていない。今、其処には何も無い。薄いどころではない。咒氣の層が、完全に途切れている。るいは掌を開き、『灯火』を組んでみた。組めない。組めないのではなく、書く面が無い。紋を置こうとしても、置く場所が無い。宙に字を書こうとしているようなものであった。背後で、コンラートが不安げに立っている。彼は咒晶石を持たぬゆえ、何も見えぬ。彼にとって、この谷はただの谷である。
「……何か、ございますか」
「無い」
「は」
「無いのだ。何も」
るいは、谷を見渡した。斜面の中腹に、石積みの跡がある。かつて何かの建物があったのだろう。今は崩れて、草に埋もれている。人は、居ない。
『……死地か』
通説では、涸れた咒源の上には人が住まぬ。咒紋が効かぬからではない。この東部では元より咒紋は碌に効かぬのだ。人が去るのは、水が枯れ、作物が育たなくなるからだと言われている。咒源と農作物の間に、どういう理屈があるのかは、誰も説明できぬ。ただ、そうなると決まっている。
*
その晩、るいは宿で記録を読み返した。四十年前の測定値…二十年前の測定値…そして、今の値、零。二十年前は、まだ有ったのだ。東部の他の州は、六十年で三割減っている。緩やかである。ところがこの州は、二十年で全部消えている。
『……涸れ方が、違う』
るいは筆を執り、下物の紙に線を引いた。横軸に年、縦軸に測定値。他の州の値を打点すると、緩やかに右下がりの線になる。六十年で三割。この州の値を打点する。四十年前、高い…二十年前、ほぼ同じ…そして今、零。
『……段差だ』
徐々に減ったのではない。二十年前から今の間の、どこかで、落ちたのだ。泉が涸れるなら、こうはならぬ。泉は徐々に細り、やがて滴になり、そして止まる。これは、切れたのだ。
「帝國伯令嬢」
エルメンガルトが、薬湯を持って入ってきた。ユリアーネが持たせた材料で、女中頭が毎晩煎じている。
「もうお休みくださいませ。三日、碌に眠っておられません」
「うむ」
「其の紙は、何でございますか」
「……図だ」
「図」
「数字を、絵にしている」
エルメンガルトは、るいの手元を覗き込んだ。そして、しばらく黙ってから、正直に言った。
「……何が描いてあるのか、私には判りませんが」
「うむ」
「其れは、良くないものでございますか」
るいは、線を見た。二十年で、垂直に落ちた線。
「……判らん」
*
翌朝、るいはもう一度、谷に登った。何も無いことを、もう一度確かめるためである。斜面の中腹、崩れた石積みの前に立ち、咒眼を凝らす。やはり、何も無く、層が無く、揺らぎも無い。都のように厚くもなく、辺境のように薄くもなく、端的に無い。るいは、掌を地面に押し当てた。そして、無理を承知で、咒力を通してみた。
この土地に紋は書けぬ。書く面が無いのだから当然である。だが、咒力そのものは自分の内から出るものではない──咒氣から引くものである。ならば、|引くものが無い場所で引こうとすれば《・・・・・・・・・・・・・・・・・》、どうなるか。純粋な好奇心であった。結果は、すぐに出た。何も起こらなかった。空井戸に桶を落としたようなものである。手応えが無い…抵抗も無い。咒力は引けず、紋も浮かばず、ただ静かであった。
「……ふむ」
るいは掌を離し、立ち上がった。そして、視界の隅を視た。比率である。目覚めた日から、咒眼の視野の隅に、ごく淡く浮かんでいる数。七対三…変わっていない。変わっていないが、合計が、また減っていた。高熱の朝に見た時よりも、明らかに。
『……』
るいは、其の数をしばらく見つめていた。今度は、高熱ではない。三日眠っていないのは事実だが、意識は明瞭であり、咒眼の他の像は全て鮮明である。谷の岩肌の一つ一つまで、はっきりと見えている。観測誤差では、無い。そして、るいは、もう一つのことに気付いた。今、減ったのだ。地面に掌を押し当て、咒力を引こうとした、あの時。何も起こらなかったと思っていた。手応えが無かった。空井戸に桶を落としたようだと思った。
『……いや』
空井戸ではない。|何も起こらなかったのではない《・・・・・・・・・・・・・・》。引こうとして、引けなくて、|代わりに何かが出て行ったのだ《・・・・・・・・・・・・・・》。氷を作った夜の、あの手触りと、同じであった。
「…………」
るいは、掌を見た…何も無い…掌は掌である。傷も、汚れも、何も無い。風が吹いた。草が鳴り、崩れた石積みの隙間で、何かが微かに音を立てた。るいは、谷を降りた。この日の記録に、其のことは書かなかった。書く欄が、無かったからである。




