第拾漆節『条文』 Der siebzehnte Abschnitt : “Paragraph”
天環暦2110年03月04日。
三日の間に、るいがやったことは三つである。一つ目は、ブルクマイアを訪ねることであった。紙屋の主は、奥の帳場でるいを迎え、そしてるいの頼みを聞くと、太い指で卓を二度叩いた。
「……ローゼンハイム家の、取引の記録でございますか」
「其ちらと取引がおありか」
「ございます」
男は、少しも隠さなかった。
「先々代の頃からのお得意先にございます」
「……では、頼めぬな」
「其れは、」
ブルクマイアは、初めてるいの言葉を遮った。
「お聞きになってから、ご判断くださいませ」
*
「手前どもは、商人にございます」
男は、太い指を組んだ。
「お客樣の帳簿を他所に漏らせば、商いが立ちませぬ。其れは、シュタインエック樣の帳簿とて同じにございます」
「……」
「ですから、ローゼンハイム樣の帳簿を、シュタインエック樣にお見せすることはできませぬ」
「うむ」
「ですが、」
ブルクマイアは、卓の上で指を開いた。
「手前どもの帳簿は、手前どものものにございます」
るいは、顔を上げた。
「……というと」
「何時、誰に、幾ら売ったか。其れは、お客樣の帳簿ではなく、手前どもの売上の記録にございます」
「……」
「且つ、何時代が払われたかも」
男は、ひどく穏やかな顔をしていた。
「……先ほど、参事会の監査が入ったと申し上げました。三日で三つの取引を失いました、とも」
「うむ」
「其のうちの一つが、ローゼンハイム家にございます」
るいは、暫く沈黙した。
「……取引を切られたのか」
「はい。昨日、使いが参りまして。……監査の入った店とは取引できぬ、と」
ブルクマイアは、初めて、僅かに笑った。目が、全く笑っていなかった。
「……シュタインエック樣。手前どもは、商人にございます。損も得も商いのうちと申し上げました。其れは本当にございます」
「うむ」
「ですが、監査を入れさせておいて、其れを理由に切られるのは、」
男は、卓を一度、強く叩いた。
「商いではございませぬ」
*
二つ目にやったのは、咒紋學院の書庫に行くことであった。読んだのは、咒紋の書ではない。環の教の、教義書である。るいは書庫の隅で、三日のうち二日を、教義書の読解に費やした。ルイーゼは信心深い方ではなかった。貴族として最低限の作法は身に付けているが、教義を体系的に學んだことは無い。塁に至っては、環の教という宗教の存在を二年前に知ったばかりである。だが、二人とも、文献を読むことにかけては玄人であった。二日で、るいは必要なものを見つけた。三つ目にやったのは、其の写しを取ることである。紙は、六百枚のうち四枚を使った。
*
ローゼンハイム邸は、帝都の中心に近い一等地にあった。門構えは立派である。石造りの門柱に、家紋が彫られている。庭は広く、手入れが行き届いており、春の花が咲いていた。だが。
『……庭師が、居ないな』
るいは、馬車を降りて庭を見た。花は咲いている。だが、咲き方が均等でない。手入れをした場所と、していない場所がはっきり分かれている。玄関から見える範囲だけが整えられ、奥は伸び放題であった。玄関の扉の蝶番が、僅かに軋んだ。
『……油が、差してない』
東部で十七の州咒紋所を見てきた目である。建物の手入れの度合いは、其の家の懐具合を、正直に語る。通されたのは、南向きの応接室であった。調度は上等である。卓も、椅子も、壁の織物も。ただ、織物が二枚、掛かっていない。壁に、跡がある。日に焼けていない四角い跡が二つ。そこに何かが掛かっていて、其れが最近外されたのだ。
『……売ったな』
るいは、銀器を半分売った家の主である。跡の見分け方は、心得ていた。
*
「これは、シュタインエック伯令嬢」
ヴォルフガング・フォン・ウント・ツゥ・ローゼンハイムは、実に丁重に一礼した。
「よくお越しくださいました」
「お招き、有難う存じます」
「ツゥ──いや、失礼。もう間違えませぬ」
男は、上品に笑った…茶が出た…上物である。それから半刻、二人は花の話をした。庭の薔薇の品種、今年の開花の早さ、去年の霜の被害。ローゼンハイムは実によく喋り、るいは相槌を打った。半刻が過ぎた頃、男は茶碗を置いた。
「……ところで、」
「はい」
「貴女樣は、随分とお忙しいご樣子で」
「有難いことに」
「東部の巡察。皇女殿下のご講義。……それから、ダニエラ嬢の妹御の治療も、お引き受けになったとか」
「……お耳が早うございます」
「社交界のことでございますので」
男は、扇を軽く広げた。
「ダニエラ嬢は、随分と貴女樣をお持ち上げになっておられますな。宴の度に、貴女樣のお話をなさる。……お陰で、貴女樣に治療を頼みたいという方が、既に何人か」
「……存じませんでした」
「其れは、大層な商いになりましょう」
男は、扇を閉じた。
「……ただ、」
「はい」
「環問所の審議に掛かれば、其れも難しゅうございましょうな」
*
るいは、茶碗を置いた。
「……よくご存知で」
「風の噂にございます」
「風は、まだ吹いておらぬはずですが」
男の眉が、僅かに動いた。
「……と、申されますと」
「環問所には、咒紋府から月末に纏めて回付されます。今月末までは、まだ八日ございます」
「……」
「吹いてもおらぬ風の噂を、閣下はご存知でいらっしゃる」
ローゼンハイムは、暫くるいを見た。それから、扇で自分の膝を軽く叩いた。
「……なるほど」
「はい」
「貴女樣は、咒紋府の書記に、随分とお顔が利くようで」
「書記は、書類を回す者にございます」
「……」
「回る前の書類の在り処を、私は存じません。ただ、」
るいは、微笑んだ。
「咒紋府の書式と規程は、存じております。月末回付は、規程に書いてございます」
男は、扇を膝の上に置いた。そして、口調を変えた。
「……単刀直入に申し上げましょう」
「どうぞ」
「貴女樣は、咒紋で人の体を作り替えられる。其れは、この帝國で貴女樣お一人にございます」
「届け出は、公開されております。誰でも使えます」
「使える者が、まだ居りませぬ」
ローゼンハイムは、身を乗り出した。
「其の技を、私に、お預けくださいませんか」
*
るいは、返事をしなかった。
「貴女樣お一人では、捌ききれますまい。ダニエラ嬢の妹御一人に二年を掛けられると伺いました。……其の間、他の方はどうなさいます」
「……」
「私が、取り次ぎを為しましょう」
男の目に、初めて生気が宿った。
「私は社交界に顔が利きます。誰が何を病んでいるか、誰が幾ら出せるか、其れを存じております。……貴女樣は治療に専念なさればよい。手続きも、交渉も、代金の徴収も、私が引き受けます」
「……取り分は」
「六と四で」
「私が四で」
「……いえ、」
男は、慌てて手を振った。
「貴女樣が六にございます。私が四」
るいは、少し驚いた。思ったより、控えめである。
『……本当に、困っているな』
「且つ、」
男は続けた。
「環問所の件は、私が取り下げさせましょう」
*
るいは、茶碗の縁を指でなぞった。
「……閣下が、取り下げさせる」
「はい」
「咒紋府第十二座の専決事項にございますが」
「……伝手がございますので」
なるほど、とるいは思った。これで、絵が全部繋がった。監査も、旅費も、告発も、教会への照会も、そして薬師の資格停止も。全ては、この一言を言うためのお膳立てであった。追い詰めて、逃げ道を一つだけ用意する。その逃げ道が、自分と組むことである。
『……いや、待て』
るいは、指を止めた…順序が、おかしい。教会への照会は、まだ出ていない。出ていないものを取り下げるとは、どういうことか。書かれ、判が押され、机の上に置かれている。あとは月末に束ねて出すだけである。其れを「取り下げさせる」と言うなら、出さぬようにするということだ。書かれた文書を、出さぬようにする。咒紋府の内部で。
『……この人は、第十二座を動かせるのか』
いや。るいは、もう一度考え直した。動かせるのなら、そもそも照会を書かせる必要が無い。咒紋府の内部で潰せる立場なら、もっと直接的な手が幾らでもある。では、なぜ照会を書かせたのか。書かせて、出さずに、机の上に置かせているのか。
『……ああ』
るいは、目を閉じた。
『……置かせているのではない』
置かれてしまっているのだ。第十二座は、ローゼンハイムの求めに応じて照会を書いた。書いたが、出すとは言っていない。月末までに撤回する余地を、残している。
『……第十二座は、迷っている』
*
「……閣下」
「はい」
「一つ、伺っても宜しゅうございますか」
「何なりと」
るいは、顔を上げた。
「ローゼンハイム家の、今年の紙代は、まだお支払いでないと伺いました」
男の顔から、表情が消えた。完全に、である。
「……何を、」
「三年前からにございます」
るいは、懐から紙を出した。四枚のうちの一枚である。
「ブルクマイアの店の、売上の記録にございます。ローゼンハイム家への売り上げは、三年前から掛けのまま。且つ、」
るいは、紙を卓の上に置いた。
「昨日、閣下は其の店との取引を切られました。監査が入った店とは取引できぬ、と」
ローゼンハイムは、動かなかった。
「……閣下」
「……」
「監査を入れさせたのは、閣下でございましょう」
*
男は、暫く黙っていた。それから、ゆっくりと椅子の背に体を預けた。
「……お若いのに、良い目をお持ちだ」
「恐れ入ります」
「ですが、其れは商人の帳簿にございましょう。其のようなものを他所に漏らせば、其の商人は──」
「漏れておりませぬ」
るいは、静かに言った。
「其れは、ローゼンハイム家の帳簿ではございません。ブルクマイアの店の、売上の記録にございます。誰に幾ら売り、何時代が入ったか。……商人が自分の商いを記録するのに、お客樣の許しは要りませぬ」
「……」
「且つ、」
るいは、二枚目の紙を出した。
「帝國自由都市の商業慣例に、こうございます」
掛け売りの代金、三年を経て支払われざる時は、
債権者は都市参事会に届け出ることを得。
参事会は其の旨を公示す。
「……公示」
「はい」
るいは、微笑んだ。
「掛けを三年払わぬ家として、都市の掲示に貼り出されます」
*
ローゼンハイムの手が、扇の上で震えた。
「……ブルクマイアが、其れを」
「まだ届け出ておりません」
「……」
「彼の者は、先々代からのお得意先だと申しておりました。三年掛けを溜められても、届け出ずにおりました」
るいは、二枚目の紙を折り畳んだ。
「……ですが、昨日、切られました」
男は、答えなかった。
「監査を入れさせておいて、其れを理由に取引を切る。……彼の者は、其れを『商いではない』と申しました」
「……」
「商人は、損には慣れております。彼の者は、三日で三つの取引を失って、一言も文句を言いませんでした。ですが、あれだけは、卓を叩いておりました」
るいは、紙を懐に納めた。
「……閣下。ご提案の件でございますが」
「……」
「お断り申し上げます」
*
ローゼンハイムは、暫く天井を見ていた。それから、乾いた哂いを漏らした。
「……脅しに参られたか」
「いいえ」
「では何だ」
「取引に参りました」
るいは、姿勢を正した。
「三つ、申し上げます」
「……」
「一つ。ブルクマイアの店との取引を、元に戻して頂きたい。且つ、参事会の監査を取り下げて頂きたい」
「……」
「二つ。治療術師協会に、私の屋敷の薬師の件を再審議させて頂きたい。二年前の照会に今更不備を見つけるような協会に、私は今後、症例を報告する気になれませぬ」
「……」
「三つ」
るいは、一拍置いた。
「環問所への照会は、出して頂いて結構にございます」
ローゼンハイムが、顔を上げた。
「……何」
「其れは、お止めくださらずとも構いませぬ」
「……正気か。環問所に掛かれば、貴女樣は数年動けぬぞ」
「はい」
「其の間に、ダニエラ嬢の妹御は死ぬ」
「……はい」
るいは、頷いた。
「ですから、出す前に、片を付けます」
*
るいは、三枚目の紙を卓に置いた。環の教の教義書からの写しである。
「……閣下は、環の教の教義に、こうあることをご存知でいらっしゃいますか」
咒紋は、輪主の刻みたる文なり。
人これを読むこと能わず。
ただ、なぞることのみ許さる。
「……存じております」
「照会は、此の条を根拠に、私が己の身を作り替えたことを問うております」
「其の通りにございます」
「では、」
るいは、四枚目の紙を置いた。
「此ちらは、ご存知でいらっしゃいますか」
癒しは、輪主の為す業に非ず。
環神の一柱、癒神の賜なり。
人、癒神の賜を用いて他を癒すは、
之を咎むべからず。
「……」
「環の教の教義において、咒紋は輪主の文にございます。ですが、癒しは輪主の業ではございませぬ。癒神の賜にございます」
るいは、二枚の写しを並べた。
「私が己の骨を直したのは、癒しにございます。癒しであれば、癒神の項が適用されます。……輪主の項ではございません」
男は、二枚の紙を見比べた。
「……其れは、」
「且つ、」
るいは続けた。
「咒紋府は、既に此の判断を下しております」
「……何」
「私の届け出書は、八十九件全て受理されております。其のうち骨格に関わる二十三件は、咒紋府の判定により、」
るいは、微笑んだ。
「癒系に準ずる、と扱われております。第一座のご判断にございます。二年前に」
*
ローゼンハイムは、動かなかった。るいは、静かに続けた。
「環問所が審議するとして、其の第一の証拠は、咒紋府の届け出記録にございましょう。其の記録には、癒系に準ずと書いてございます」
「……」
「そして教義には、癒しは咎むべからずと書いてございます」
「……」
「環問所は、何を審議なさるのでしょうか」
男は、口を開いた。開いたが、言葉が出なかった。
「審議するべきものが、無いのでございます」
るいは、四枚の紙を集めた。
「……ですから、照会は出して頂いて構いませぬ。出れば、環問所は此の二つの条文を突き合わせ、そして門前払いにするでしょう。……ただ、」
るいは、紙を懐に納めた。
「其の時、環問所は考えるはずにございます」
「……」
「これだけ明白な条文があるのに、なぜ咒紋府は照会を出したのか、と」
*
ローゼンハイムの顔が、白くなった。るいは、立ち上がった。
「咒紋府第十二座は、教会連絡を職掌とする座にございます。教義書は、私のような素人よりも遥かにお詳しいはずにございます」
「……」
「其のお方が、癒神の条を見落として照会を書いた。……見落としたのでなければ、見落としたふりをしたのでございます」
るいは、卓の向こうの男を見下ろした。
「環問所が問うのは、私ではございませぬ」
「……」
「咒紋府第十二座が、何故教義を曲げてまで、一人の末席の咒紋司を審議に掛けようとしたのか」
男は、両手で顔を覆った。
「……そして、其の第十二座に頼み込んだのが、どなたであるか。……環問所は、必ずお調べになるでしょう」
*
長い沈黙があった。やがて、男は顔から手を離した。十歳ほど、老けて見えた。
「……取り下げる」
「三つとも」
「……三つとも」
「有難うございます」
るいは、深く一礼した。そして、扉に向かった。扉に手を掛けたところで、背後から声がした。
「……シュタインエック」
「はい」
「貴女樣は、」
男の声は、掠れていた。
「……なぜ、私の紙代のことを、口外なさらなかった」
るいは、振り返った。
「……と、申されますと」
「貴女樣は、其れを社交界で言えばよかった。ローゼンハイム家は三年、紙代を払っておらぬと。……其れだけで、私は終わっておった」
男は、卓に肘を突いていた。
「貴女樣は、此処に来て、私一人に言った」
るいは、扉の前で足を止めた。そして、正直に答えた。
「……人前で言えば、閣下は引くに引けなくなりますので」
「……」
「逃げ道を残さぬのは、……以前、一度やりました」
るいは、少し苦い顔をした。
「其の時は、二年、口を利いて頂けませんでした」
*
三日後、ブルクマイアの店への監査は取り下げられた。五日後、治療術師協会はユリアーネの資格停止を撤回した。「審議に手続き上の瑕疵があった」との理由である。ユリアーネはその日、厨房で一日中泣いていた。そして月末、咒紋府から環問所に回付された文書の束に、るいに関するものは含まれていなかった。第十二座が、机の上の照会を、自分で破ったのである。誰にも見られぬように、と本人は思っていた。だが、咒紋府の書記は七十人おり、廊下ですれ違い、書棚の陰を通り、そして紙屑を集めて回る。紙は、高い。破られた紙は、反古買いに渡される。




