第拾陸節『照会』 Der sechzehnte Abschnitt : “Anfrage”
天環暦2110年03月01日。
最初の兆候は、紙屋であった。春先である。るいは次の巡察の算段のため、ブルクマイアの店に足を運んだ。三十州を回るとなれば、紙は千枚を下るまい。分割で仕入れる相談をするつもりであった。通されたのは、いつもの奥の帳場である。ハンネス・ブルクマイアは、卓の向こうで太い指を組み、そして、いつもと違う顔をしていた。
「……シュタインエック樣」
「うむ」
「先に、一つ申し上げます」
男は、卓の上に一枚の紙を置いた。中物である…文面は短い。
シュタインエック伯令嬢との取引につき、
直近三年の帳簿を検めたく。
都市参事会・監査役
「……何だ、これは」
「三日前に参りました」
「監査」
「はい」
ブルクマイアは、太い指で卓を一度叩いた。
「手前どもは帝國自由都市の商人にございます。参事会に帳簿を出すのは、年に一度の決まりでございまして、其れは先月済ませております。……ですから、これは、臨時にございます」
「……理由は」
「書いてございません」
「訊いたか」
「訊きました」
男は、少し面白そうな顔をした。
「貴族への掛売りが過大であるとの訴えがあった、と」
るいは、しばらく黙っていた。
「……私が、返さぬと」
「そういう筋の訴えかと存じます」
「……」
「ご心配なく。手前どもの帳簿は綺麗にございます。監査は通ります」
ブルクマイアは、紙を折って懐に納めた。
「ただ、」
「うむ」
「手前どもは、其の三日で、三つの取引を失いました」
*
商人にとって、監査が入ったという事実そのものが商いに響く。監査が通るかどうかは、後の話である。今この瞬間、「あの店は監査が入っている」という噂が立つ。噂が立てば、貴族は取引を控える。何かあった時に、巻き込まれたくないからだ。三日で三つ。
「……済まぬ」
「其れは、お止めください」
男は、初めて少し不機嫌そうな顔をした。
「手前どもは、商いをしております。損も得も、商いのうちにございます。……シュタインエック樣に謝られる筋合いはございません」
「……」
「ですが、」
ブルクマイアは、るいを見た。
「誰が訴えたかは、お調べになった方が宜しゅうございましょう」
*
二つ目の兆候は、五日後に来た。咒紋府から、るいの執務室に書狀が届いた。差出人は、第四座…台帳統括である。
貴殿の巡察報告書につき、旅費の計上に不審あり。
証憑を添えて説明されたし。
るいは、書狀を読み、そして机の抽斗を開けた。中には、束が入っている。半年分の宿代、食費、馬の借り賃、案内人への謝礼。全て、その場で受け取った書付である。宿の亭主に書かせ、馬主に書かせ、案内人に爪印を押させた。東部の村では、字の書けぬ者が多かった。其の場合はるいが書き、本人に爪印を押させ、其の脇に立会人としてコンラートの署名を取った。全部で、二百三十七枚ある。
『……取っておいて良かった』
誰かに言われてやったのではない。十七年、彼はこれで痛い目に遭ってきた。研究費の使途を後から説明できず、事務局に締め上げられたことが三度ある。以来、彼は領収書を捨てぬ人間になった。この習慣は、ルイーゼの側にもあった。称号伯の家計を回すには、爪印一つが命綱になる。
『……二人分揃って、良かった』
るいは、二百三十七枚を日付順に並べ替え、州ごとに束ね、表紙を付けて、三日で提出した。第四座からは、七日後に返事が来た。
証憑、確認せり。不審なし。
其れだけであった。
*
三つ目は、峠の件であった。これは、書狀ではなく、廊下で伝えられた。咒紋府の一階、届け出窓口の前を通った時、ヴィルフリートが顔を上げた。そして、手を止めた。この男が手を止めるのは、予期せぬことを言われた時である。今は、るいは何も言っていない。
「……ヴィルフリート」
「……お立ち寄り頂けますか。窓口が閉まりました後に」
*
その晩、事務室の狭い卓を挟んで、書記は蝋燭を一本立てた。そして、卓の上に一枚の紙を置いた。写しである。ヴィルフリートの筆跡で、丁寧に書き取られている。
「……これは」
「規程により、私が原本をお見せすることはできませぬ」
「うむ」
「其れは、私が手習いに書いたものにございます。咒紋府の書式を練習する際、手近な文書を写すのは、書記の常でございますので」
るいは、紙を手に取った。そして、其れを読んだ。
貴族の身分にある者が、
徒手にて人を打ち、且つ壊したる件につき。
シュタインエック伯令嬢は、東部巡察の途上、
賊二名を徒手にて制圧せり。
一名は片目を失明、一名は肘関節を破壊せられたり。
貴族の作法に照らし、甚だ不穏当と思料す。
且つ、其の手口は傭兵のものと報告せられており、
宮廷咒紋司の職にある者として相応しからず。
右、御審議を賜りたく。
差出人の欄に、名があった。ヴォルフガング・フォン・ウント・ツゥ・ローゼンハイム。
『……来たか』
「……宛先は」
「咒紋府にございます。第一座宛」
「……」
「三日前に届き、昨日、第一座がご覧になりました」
「返事は」
「其の日のうちに」
ヴィルフリートは、二枚目の紙を置いた。これも写しである。
貴殿の申し越しの件、咒紋府の管轄に非ず。
貴族の作法は、咒紋府の所掌にあらず。
然るべき先に申し越されたし。
るいは、思わず声を上げて抿いそうになった。
『……あの爺さん』
規程を盾に、たった三行で突き返している。しかも、然るべき先にとご丁寧に書いてある。其れは親切のようでいて、実際には「うちに持ってくるな」という意味しかない。
「……第一座は、私を庇ったのか」
「……」
ヴィルフリートは、答えなかった。答えぬ代わりに、蝋燭の芯を切った。
「……第一座は、」
書記は、慎重に言葉を選んだ。
「咒紋府の管轄でないものを、咒紋府で扱うことを、嫌われます。……二十年、其の一点だけは変わりませぬ」
「……なるほど」
「庇われたわけでは、ございませぬ」
「判っている」
るいは、写しを卓に戻した。
『……あの人は、規程しか見ない』
規程の内側であれば、たとえるいを潰す話であっても通す。規程の外であれば、たとえるいを潰す話であっても突き返す。好悪ではない。其れが、あの老人の唯一の原理である。
「……ヴィルフリート」
「はい」
「其れで、ローゼンハイムは、次に何処に持って行った」
書記は、しばらく黙っていた。そして、三枚目の紙を置いた。
*
三枚目は、二枚目までとは違っていた。書式が、咒紋府のものではない。上段に、欠環の意匠が刷られている。いや、刷られてはいない。この帝國に印刷は無い。描かれている…一枚ずつ、手で。書式の名を、るいは知っていた。環問所。教義上の逸脱を審議する機関である。
シュタインエック伯令嬢の身体につき、
照会を申し上げ候。
右の者、事故の後、咒紋を用いて
自らの骨格を改変せりと聞き及び候。
顔貌、体格ともに一変せりとの由。
咒紋は輪主の刻みたる文にして、
人はこれをなぞることのみ許されたるものに候。
己が身を作り替うる行いが、
其の教えに悖るや否や、御審議を賜りたく候。
差出人の欄には、名が無かった。代わりに、こうあった。
咒紋府 第十二座
*
るいは、紙を持ったまま動かなかった。第十二座…教会連絡。環問所との折衝を職掌とする座である。つまり、咒紋府が、自ら教会に照会を出したことになる。第一座は突き返した。ところが第十二座が、別の筋で出している。
「……第十二座は、第一座の許可を得ているのか」
「其れが、」
ヴィルフリートは、困じった顔をした。
「教会との連絡は、第十二座の専決事項にございます。……規程上、第一座の許可は要りませぬ」
「……」
「且つ、」
書記は、声を落とした。
「其の照会は、まだ出ておりませぬ」
るいは、顔を上げた。
「……出ていない」
「はい」
「では、これは」
「第十二座の机の上にございます」
*
書かれてはいる…判も押されている。だが、まだ回付されていない。環問所に渡っていない。机の上に、置いてある。
「……なぜ、止まっている」
「判りませぬ」
「……」
「咒紋府から教会に出す文書は、束ねて出すのが習わしにございます。一件ずつ使いを出すのは、費えが掛かりますので。……月に一度、纏めて」
「其の日は」
「今月末にございます」
るいは、卓の縁を掴んだ。
「……十一日か」
「はい」
ヴィルフリートは、三枚の写しを集めた。そして、其れを蝋燭の火に近づけた。
「……焼くのか」
「手習いにございますので」
紙が、燃えた。書記は、灰を灰皿に落とし、卓を布で拭いた。そして、いつもと同じ声で言った。
「……本日の受付は、終いにございます」
*
屋敷に帰る道すがら、るいは考えていた。三つの手が、同時に来た。紙屋への監査、旅費の照会、峠の件の告発。そして四つ目が、教会への照会である。このうち三つは、失敗している。監査は通り、旅費は不審なしとされ、告発は突き返された。だが、其れは失敗ではない。
『……全部、同じことを狙っている』
監査は、紙屋をるいから遠ざけるためのものである。金の道を断つ。旅費の照会は、証憑を揃えるのに時を食わせるためである。るいは三日を費やした。峠の件は、咒紋府で潰れることを見越していたのかもしれぬ。潰れても、「シュタインエックは人を殴った」という事実が、咒紋府の記録に残る。そして最後に、教会…これが本命である。
教会が動けば、咒紋府の規程を超える。環問所の審議に掛かれば、其れだけで数年を要する。審議の間、るいは動けぬ。巡察も、皇女の講義も、クラーラの治療も。
『……クラーラ』
るいは、足を止めた。あの娘には、二年しか無い。審議に数年かかれば、其の間に死ぬ。
『……』
冬の終わりの夜風が、るいの首筋を撫でた。母の形見の衣裳は、あの一晩で仕舞ってある。今着ているのは、いつもの粗末な外套である。
『……十一日だ』
*
屋敷に戻ると、エルメンガルトが玄関で待っていた。女中頭の顔が、ひどく強張っている。
「帝國伯令嬢」
「うむ」
「……ご報告が、二つございます」
「言え」
「一つ。ユリアーネが、暇を頂きたいと申しております」
るいは、外套を脱ぐ手を止めた。
「……何」
「本日、治療術師協会から、書狀が参りました」
エルメンガルトは、一通の書狀を差し出した。るいは、其れを読んだ。
貴殿が一昨年提出せられたる照会につき、
審議の結果、其の記載に不備ありと認む。
患者の身元を伏せたる点、協会規程に違背す。
依って、治療術師の資格を一年間停止する。
るいは、書狀を握り締めた。
「……身元を伏せたのは、」
「私を守るためにございます」
背後から、声がした。振り返ると、ユリアーネが立っていた。白いものの増えた髪を丁寧に結い、前掛けを外している。いつもの、静かな顔であった。
「……ユリアーネ」
「お嬢樣」
薬師は、深く頭を下げた。
「三十年、治療術をやってまいりました。……ですが、資格を失いましては、この屋敷でお薬をお出しすることもできませぬ。暇を頂きとうございます」
「待て」
「且つ、」
ユリアーネは、顔を上げた。その目が、赤い。
「……私が、あの照会を出したことが、お嬢樣をここまで追い込みました」
薬師の肩が、震え始めた。
「……存じております。都で噂になっております。咒紋府に呼ばれたのも、東部に送られたのも、皆、あの照会が元だと」
「ユリアーネ」
「私は、」
「ユリアーネ」
るいは、薬師の前に立った。そして、其の肩を掴んだ。
「よく聴け」
「……」
「其の書狀は、今日来た」
「……はい」
「一昨年の照会に、今日、不備が認められた。……二年だ。二年、誰も不備だと言わなかった」
ユリアーネが、るいを見た。
「……お嬢樣」
「協会が、二年経って急に規程を思い出すか」
「……」
「誰かが、言わせたのだ」
*
薬師は、口を開けたまま、るいを見ていた。
「……お前は、職務を果たした。二年前も、今も。私は一度も、お前を責めていない」
「……ですが、」
「其れに、」
るいは、ユリアーネの肩から手を離した。
「お前が居なくなれば、相手の思う壺だ」
「……」
「暇は、認めぬ」
るいは、書狀を卓に置いた。
「資格が停止されただけだ。屋敷の厨房は、資格が要らぬ。お前は料理長として、これまで通り此処に居ればよい。薬湯は、私が処方する。私は治療術師ではないが、宮廷咒紋司ではある」
「……お嬢樣」
「一年だ。一年経てば戻る」
薬師は、その場に膝を突いた。そして、声を上げて泣いた。エルメンガルトが、慌てて薬師を支えた。支えながら、女中頭自身も泣いていた。るいは、二人を見下ろしながら、静かに息を吐いた。
『……もう一つ、報告があると言ったな』
「エルメンガルト」
「……はい」
「二つ目は」
女中頭は、涙を拭いながら、懐から一通の書狀を出した。
「……ローゼンハイム閣下より、お茶のお誘いにございます」
*
書狀は、丁重であった。春の花が咲きましたので、ぜひご覧頂きたく。ご都合のよろしい日をお知らせくださいませ。どこにも、脅しは書かれていない。るいは、書狀を蝋燭の前で読み返した。
『……揃えてから、呼んだか』
紙屋を止め、旅費で時を食わせ、告発で記録を残し、教会への照会を机の上に置き、そして薬師の資格を止めた。その全てが揃った日に、茶に呼ぶ。実に、丁寧な仕事である。これから交わされる会話は、恐らくこうであろう。花の話をし、天候の話をし、そして最後に、何かを求められる。求められるものが何かは、まだ判らぬ。だが、るいには一つだけ判っていることがあった。
『……この人は、自分が困っている』
これだけの手を、これだけ丁寧に、これだけ短期間で打つ。金も、人も、時も掛かる。監査を動かすには参事会に伝手が要る。協会に規程を思い出させるには、協会の誰かを動かさねばならぬ。嫌味を娯楽とする男が、娯楽のためにここまではやらぬ。これは、追い詰められた者の手である。るいは、筆を執った。そして、返書を書いた。
お招き、有難う存じます。
三日後の午後に伺わせて頂きたく存じます。
書いてから、るいは蝋燭の炎を見た。三日後。教会への照会が出るまで、あと八日。
『……ローゼンハイム』
るいは、筆を置いた。
『……お前の家の帳簿は、どうなっている』




