第拾捌節『禁書』 Der achtzehnte Abschnitt : “Sperrbibliothek”
天環暦2110年06月08日。
第一座からの呼び出しは、三度目であった。同じ廊下を歩き、同じ扉を押す。書棚は天井まで書類で埋まり、机の上には山が聳え、床にも束が積まれている。蝋燭は二本…窓は小さい。一年半前と、何一つ変わっていない。ただ、老人が少し痩せたように見えた。
「座られよ」
「はい」
椅子の上の書類を床に移す。順を崩さぬように。ゲーアハルトは、暫くるいを見た。そして、机の上から一枚の紙を出した。三度目である。るいは、内心で身構えた。
「……これは、何かね」
*
紙は、咒紋府の内部書式であった。教会への回付予定文書の一覧である。月末に束ねて出す文書を、事前に確認するためのもの。その一覧の中に、一行、線が引かれていた。
第十二座 照会一件 (取下)
「……」
「一覧から消えた文書がある。第十二座に問うたところ、自分で取り下げたと申した」
「……はい」
「取り下げた理由を訊いた」
老人は、机の上で指を組んだ。
「其の者は、癒神の条を見落としていた、と申した」
「……」
「私は、其の場で教義書を出させた。第十二座に、癒神の条を読ませた。読ませて、こう訊いた」
ゲーアハルトの声は、平坦であった。
「貴殿は、二十三年教会連絡を務めておる。此の条を見落とすことが、有り得るか、と」
るいは、答えなかった。
「其の者は、其の場で辞表を出した」
*
執務室が、静かになった。蝋燭が、一度だけ音を立てた。
「……第十二座は」
「本日付で、免ぜられた」
「……」
「後任は、まだ決めておらぬ」
老人は、一覧の紙を置いた。
「……シュタインエック伯令嬢」
「はい」
「貴殿は、これを狙ったのか」
るいは、少し考えてから、正直に答えた。
「いいえ」
「……ほう」
「私が狙いましたのは、照会を止めることにございます。第十二座が辞めることまでは、考えておりませんでした」
「考えるべきであったな」
「……はい」
其の通りである。条文を突き付ければ、其れは相手の逃げ道を塞ぐ。ローゼンハイムには逃げ道を残した。だが第十二座には、るいは一度も会っていない。会っていない相手の逃げ道など、考えようが無かった。考えようが無かった、というのは、考えなかったということである。
『……人を一人、辞めさせたか』
「……第一座」
「何だ」
「其の方に、お詫びを申し上げたく存じます」
「無用だ」
老人は、あっさりと言った。
「其の者は、教義を曲げて文書を出そうとした。咒紋府の座にある者が、為してはならぬことだ。……辞めさせたのは私だ。貴殿ではない」
「……ですが、」
「且つ、」
ゲーアハルトは、初めて僅かに声の調子を変えた。
「其の者は、辞表を出す時に、こう申した」
老人は、机の抽斗に手を掛けた。
「──あの条文を、私は見落としておりました。二十三年、見落としておりました」
*
るいは、顔を上げた。
「……見落としていた」
「其う申した」
「其れは、」
「言い訳ではない、と私は見た」
老人は、抽斗から手を離した。
「癒神の条は、教義書の第七巻にある。咒紋を輪主の文とする条は、第一巻だ。……教会連絡の職務で読むのは、第一巻から第三巻までだ。第七巻は、葬礼と病者の巻だ」
「……」
「咒紋府の者は、第七巻を読まぬ。読む必要が無いゆえ」
るいは、しばらく黙っていた。自分が二日かけて教義書を読んだ時のことを思い出した。どこに何が書いてあるか判らなかったから、第一巻から順に読んだのである。全七巻…二日である。読み方も知らず、体系も知らず、ただ端から読んだ。其れだけの話であった。
『……専門家が読まぬ場所を、素人が読んだ、か』
「……第一座」
「うむ」
「私は、教義に詳しいわけではございません。ただ、どこに何があるか判りませんでしたので、端から読んだだけにございます」
「……」
「二十三年の職務がある方は、其れをなさいませぬ。……なさる必要が、ございませんので」
ゲーアハルトは、暫くるいを見ていた。それから、静かに言った。
「……貴殿は、二年前も同じことをした」
「……は」
「癒系の者が骨を治すと決まっておるところに、断系の紋を持ち込んだ」
老人は、机の上で指を組み直した。
「其れも、端から読んだか」
*
「……第一座」
「何だ」
「一つ、お願いがございます」
るいは、姿勢を正した。この日のために、一年半、費やしてきた。
「紋帖司への紹介狀を、頂きとうございます」
老人の指が、止まった。
「……禁書庫か」
「はい」
部屋が、静かになった。紋帖司は、咒紋府の紋帖を管理する役である。現行の紋帖は、免許を持つ咒紋司であれば誰でも閲覧できる。だが、其れとは別に、地下に書庫がある。遺跡から出土した紋の写しを収めた書庫である。分類されておらず、解読されておらず、使用も禁じられている。閲覧には、第一座の紹介狀が要る。
「……理由を申せ」
「咒源を、修繕したく存じます」
*
老人は、暫く動かなかった。
「……修繕」
「はい」
「咒源は、涸れるものだ。涸れた泉は戻らぬ」
「其れは、通説にございます」
るいは、懐から紙を出した。巡察報告書の、図の写しである。
「東部十七州のうち、五州が異常を示しております。一州は完全に消失、其の周囲四州は、他州の倍の速さで減衰しております」
「読んだ」
「……お読み頂いておりましたか」
「第三座が持ってきた」
老人は、僅かに顎を引いた。
「三刻で四十一年分が判ったと申して、私の部屋に来た。あの女が興奮しておるのを、私は二十年ぶりに見た」
るいは、思わず微笑んだ。
「……で、修繕とは」
「咒源が独立した泉であれば、一つ涸れても周囲に影響は出ませぬ。ですが、実際には出ております。ならば、咒源は互いに繋がっております」
「うむ」
「繋がっているものは、誰かが繋いだものにございます」
るいは、図を卓に置いた。
「自然に湧く泉が、互いに連絡し合う道理がございません。咒源は、古代咒術帝圀が敷設したものだと、私は考えております」
老人は、何も言わなかった。
「敷設されたものであれば、其れは壊れます。壊れたものは、直せます。……直し方が判れば」
「……直し方が、禁書庫にあると」
「有るかどうかは判りませぬ。ですが、他に探す場所がございませぬ」
*
沈黙が、長かった。ゲーアハルトは、机の上の蝋燭を見ていた。
「……シュタインエック伯令嬢」
「はい」
「咒紋府規程に、こうある」
老人は、諳んじた。
「紋の原理の探究を禁ず」
「……はい」
「貴殿は、其れをやろうとしておる」
「……はい」
「判っておって、私に許可を求めるか」
「はい」
るいは、頷いた。
「私が求めておりますのは、原理の探究ではございません。修繕の手順にございます」
「……」
「水車の歯車が壊れれば、村の者は歯を作り替えます。彼の者らは、歯車の原理を知りませぬ。減速比も、噛み合いの角度も、何一つ知りませぬ。ただ、この形だと決まっております、と申します」
るいは、老人を見た。
「原理を知らずとも、修繕はできます。……私が禁書庫に求めますのは、其のこの形だと決まっている形にございます」
ゲーアハルトは、暫く目を閉じていた。そして、目を開けた。
「……屁理屈だな」
「はい」
「且つ、規程に反してはおらぬ」
「……はい」
「貴殿は、いつもそうだ」
老人は、机の抽斗を開けた。紙を一枚、取り出す…そして、筆を執った。
*
書きながら、老人は言った。
「二年前、私は貴殿に届け出よと申した」
「はい」
「あれは、貴殿を潰す心算であった」
「……存じております」
「……ほう」
筆が、一度止まった。
「判っておったか」
「分類欄が九つしかないことに気付いた時に」
「……」
「咒紋學院の書庫で、二百年分の受理例を読みました。系統をまたいだ複合式の届け出は、二百年で零件にございました。……ですから、届け出よと命じられた時点で、私は詰んでおりました」
老人は、また筆を動かし始めた。
「……なぜ、詰んでおって出した」
「他に手がございませんでしたので」
「……」
「且つ、」
るいは、少し言い淀んだ。
「……閣下が、癒系に準ずる、という扱いを作られました」
「うむ」
「あれは、規程を素直に読めば出てこない解釈にございます。私を処分せぬために、閣下がお探しになった理屈にございましょう」
「……」
「潰す心算の相手に、逃げ道を作る方が、此の世におられます。……私は、其れがどういう意味か、ずっと考えておりました」
筆が、止まった。老人は、書き終えた紙に息を吹きかけ、墨を乾かした。そして、其れをるいの前に置いた。
「……惜しまぬ者を、私は二人しか知らぬ、と申したな」
「……はい」
「一人は、貴殿だ」
るいは、紹介狀を受け取った。
「……もう一人は」
老人は、答えなかった。代わりに、机の抽斗に鍵を掛けた。
「……見ぬ方がよいものもある」
*
禁書庫は、咒紋府の地下にあった。紋帖司は、るいより背の低い、五十がらみの男であった。名をレオンハルト“Leonhard”と言う。彼は紹介狀を三度読み、それからるいの顔を三度見た。
「……第一座の紹介狀は、私が此処に来てから四度目にございます」
「四度」
「十九年で、四度にございます」
男は、腰の鍵束から一本を選び、地下に降りる扉を開けた。階段は狭く、急であった。降りるにつれ、空気が変わった。冷たく、乾いている。紙が傷まぬように、湿気を避けているのだ。降り切った所に、もう一つ扉があった。レオンハルトは、二本目の鍵でそれを開けた。
「……お足元に、お気を付けくださいませ」
*
書庫は、るいが想像していたより、遥かに広かった。石造りの部屋が、奥に奥に続いている。天井は低い。壁という壁に棚が据えられ、棚には木の箱が並んでいた。箱には、番号が振ってある。番号だけである。中身を示す表題は、一つも無い。
「……これは、全部」
「遺跡から出土した紋の写しにございます」
レオンハルトは、蝋燭を掲げた。
「千年、集めてまいりました。……何が書いてあるかは、判っておりませぬ」
「分類は」
「出土した順にございます」
るいは、目を閉じた。
『……そうか』
分類しようが無いのだ。中身が判らぬものを、どう分けろというのか。だから、届いた順に番号を振り、箱に入れ、棚に並べた。千年。
「……箱は、幾つございますか」
「四千二百七十三にございます」
*
るいは、手近な箱を一つ、棚から降ろした。中には、紙の束が入っている。古い紙である。この帝國の紙ではない。もっと薄く、もっと硬く、そして──千年経っていない。写しなのだ…原本ではない。遺跡の壁や石板に刻まれた紋を、誰かが紙に写し取ったものである。るいは、一枚を取り出し、蝋燭に近づけた。そして、咒眼を凝らした。紋が、其処にある。三十を超える紋が、一枚の紙に連なっていた。
「……」
るいは、動けなかった。現行の咒紋式は、多くて紋七つか八つである。るいが組んだ骨格再構成の複合式で、十二。其れが、この帝國で組まれた最も複雑な式であった。目の前の紙には、三十を超える紋が並んでいる。しかも──並び方が読めない。
『……いや、違う』
紋の一つ一つは、読める。見たことのある紋が幾つもある。熾の紋、牽の紋、断の紋。現行の紋帖に載っているものだ。だが、其れらの繋ぎ方が、違う。現行の式には、順序がある。基となる紋を定め、補助の紋を添え、収束の紋で閉じる。學院で二年かけて体に叩き込む、あの順序である。この紙の紋は、其の順序に従っていない。従っていないのに、成立している。
『……第二座が、私の式を「乱れた式」と呼んだ』
るいは、紙を持ったまま、其の場に立ち尽くした。
『……私の式が乱れているのではない』
現行の順序の方が、後から作られたものなのだ。千年前の紋を写し取り、読めぬまま使ううちに、使える部分だけが残った。使えぬ部分は落ちた。落ちた結果を整理して、順序という体系が作られた。現行の咒紋術は、これの断片である。
『……水車と、同じだ』
なぜこの形なのかを知らぬまま、二十年に一度、歯を作り替える村人と。千年、同じことをやってきた。
*
るいは、その日、一日書庫に居た。箱を七つ開けた。どの箱の紙も、同じであった。三十を超える紋の連なり。読める紋と、読めぬ繋ぎ方。そして、七つ目の箱の底に、其れがあった。他の紙より、大きい…折り畳まれている。るいは、蝋燭を卓に置き、慎重に紙を開いた。一度、二度、三度…卓一杯に広がった…図であった…紋ではない…図である…円が、描かれていた…大きな円が一つ。其の周囲に、小さな円が幾つも。円と円は、細い線で結ばれている。るいは、其の図を暫く見ていた。
『……網だ』
東部の報告書を書きながら、るいが頭の中で描いた形と、同じであった。繋がった点の集まり。一つが落ちれば、近い順に引きずられる形。
『……咒源の、地図か』
だとすれば──これは、古代咒術帝圀の地図である。るいは、身を乗り出した。円の数を数える…大きな円が一つ。中くらいの円が、七つ。小さな円が、数え切れぬほど。繋ぐ線は、太いものと細いものがある。太い線は中くらいの円同士を結び、細い線は小さな円に枝分かれしている。るいの指が、図の上を辿った。そして、其の指が、止まった。
*
円が、閉じていなかった。図の中の円は、全て、一箇所が途切れている。大きな円も、中くらいの円も、小さな円も。全部である。其の切れ目に、細い線が繋がっている。
『……』
るいは、蝋燭を近づけた。見間違いではない…円は、閉じていない。開いた部分から、線が伸びている。そして──るいは、其の形を、知っていた。この帝國に来て、二年。聖堂の窓に…扉の彫りに…墓標に…聖職者の首飾りに…貴族の紋章の隅に…書狀の縁に…毎日、視ている。一箇所が途切れた円環。欠環である。
『……』
るいは、卓に手を突いた。環の教の象徴である。輪は未だ閉じておらぬ。ゆえに世界は続いている。輪が閉じる時、世界は完成し、そして終わる。──其う説かれている。信徒は、開いた部分に指を当てて祈る。輪を閉じさせぬため、指で塞ぐという所作である。千年、そうしてきた。
『……これが、これだというのか』
教会の最も神聖な象徴が、古代咒術帝圀の図面の、部品の形だと。るいの中で、常磐塁が、静かに其れを組み立てていた。円が閉じていないのは、教義とは何の関係も無い。配線図である…円は、端子だ。閉じていないのは、開いた部分が接続点だからだ。そして、開いた部分から線が伸びている。線は、隣の円に繋がっている。
『……咒源は、こういう形をしているのか』
*
るいは、図の隅を見た。小さな円の一つに、印が付いている。他の円には無い印である。二重の線で囲まれ、其の中に何か記号のようなものが書かれていた。るいは、蝋燭を近づけた。記号は、咒紋ではない。文字であった…読めぬ文字である。この帝國の文字ではない。ルイーゼの記憶にも、塁の記憶にも無い。だが。るいは、其の記号を、暫く見つめていた。そして──輪郭だけが、妙に見覚えがあると思った。なぜかは、判らない。記憶を探ったが、何も出てこなかった。ルイーゼの記憶にも、塁の記憶にも、この文字は無い。無いのに、見覚えがある。
『……』
るいは、蝋燭を置いた。地下の書庫は、静かであった。四千二百七十三の箱が、番号だけを振られて、棚に並んでいる。千年、誰も読まなかった箱である。
『……四千二百七十三』
るいは、深く息を吸った。そして、次の箱に手を伸ばした。




