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不死鳥は何度でも這い上がる 〜戦国最弱の愛され国衆・小田氏治のサバイバル〜  作者: 水川仁


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第9話 泥水をすすりて

天正二年(1574年)。


霞ヶ浦から吹きつける冬の風は、骨の髄まで冷たかった。


土浦城。


かつて常陸南部に威勢を誇った小田家が、いま身を寄せる最後の砦である。


城は小さい。


兵も少ない。


蔵に積まれた兵糧は日に日に減り、武具も継ぎ接ぎばかりだった。


それでも城は静かに息づいていた。


「殿、お食事をお持ちしました。」


菅谷政貞が膳を運んでくる。


氏治は湯気の立つ椀を覗き込み、思わず笑った。


「これはまた……豪勢だな。」


膳に並んでいたのは、玄米を混ぜた飯。


具のほとんど見えない味噌汁。


そして、霞ヶ浦で捕れた小さな川魚が一尾。


それだけだった。


「申し訳ございませぬ。」


政貞は深く頭を下げる。


「これでも領民たちが、殿に召し上がっていただこうと泥へ入って捕ってきた魚にございます。」


氏治は魚を手に取った。


焼きたての香りより先に、泥の匂いが鼻をつく。


一口かじる。


泥臭い。


それでも氏治は嬉しそうに頷いた。


「旨い。」


「……殿。」


「本当に旨いぞ。」


氏治は笑った。


「泥の味がする。」


「つまり、皆が生きているということだ。」


「それだけで十分じゃないか。」


政貞は何も言えなかった。


この男は、負けても笑う。


城を失っても笑う。


泥水をすすっても笑う。


だから皆、離れられないのだ。


静かな食事が続く。


外では兵たちが薪を割る音が聞こえていた。


その音を聞きながら氏治がぽつりと言う。


「普通なら、こうはならん。」


「はい。」


「城を失えば家臣は散る。」


「主君の首を敵へ差し出し、自分だけ生き残る。」


「それが戦国だ。」


政貞は静かに頷いた。


否定できない。


何度も見てきた光景だった。


氏治は箸を置いた。


「俺なら、そうされても仕方がない。」


「何度も負けた。」


「先祖の城まで失った。」


「皆を戦へ巻き込んだ。」


「……名将とは程遠い。」


部屋に沈黙が落ちた。


政貞はゆっくり顔を上げる。


「殿。」


「その先を、お聞き届けください。」


氏治が視線を向ける。


政貞は迷わなかった。


「我らが仕えているのは、小田城ではございませぬ。」


「小田家の家名でもございませぬ。」


「氏治様。」


「あなた様、お一人にございます。」


氏治の目がわずかに揺れた。


政貞は続ける。


「城は失いました。」


「土地も失いました。」


「ですが。」


「殿だけは失っておりませぬ。」


「だから我らは、まだ負けてはおりません。」


その言葉に、氏治はしばらく俯いた。


胸の奥が熱い。


何度負けても、自分を信じる者たちがいる。


こんな主君が他にいるだろうか。


「……俺は。」


ようやく声が出た。


「果報者だな。」


その一言だけだった。



その日の夕刻。


氏治は城壁の上へ立っていた。


冬の霞ヶ浦は鉛色に沈み、冷たい風が頬を打つ。


眼下では領民たちが壊れた柵を直している。


兵たちは鎧を修理し、女たちは炊き出しをしていた。


誰も豊かではない。


それでも皆、黙々と働いている。


氏治はその姿を見つめていた。


「……守らねば。」


小田城は失った。


もう戻らない。


ならば今度は、この人たちを守らなければならない。


正面から佐竹義重とぶつかれば負ける。


それは嫌というほど思い知った。


ならば戦い方を変えるしかない。


「政貞。」


「は。」


「力比べは終わりだ。」


政貞が振り向く。


氏治は静かに言った。


「これからは、生き残る戦をする。」


「生き残る……戦。」


「そうだ。」


「勝つためではない。」


「小田を残すための戦だ。」


氏治の目には、もう迷いはなかった。


「まず北条へ使者を送る。」


政貞は少し驚いた。


「氏政殿にございますか。」


「ああ。」


「佐竹を止めたいのは、北条も同じだ。」


「ならば俺たちには、まだ値打ちがある。」


「我らは常陸南部の盾となる。」


「その代わり、小田を生かしてもらう。」


氏治は笑った。


「面子など、小田城と一緒に燃えた。」


「家臣が生きるなら、俺はいくらでも頭を下げる。」


政貞は深く頭を下げた。


「御意。」


「それこそが、今の小田家にございましょう。」



数日後。


一人の使者が土浦城を発った。


雪の舞う関東平野を、西へ。


目指すは相模、小田原。


その背を氏治は城門から見送る。


「頼んだぞ。」


小さく呟く。


使者の姿は雪の向こうへ消えていった。


しばらくして、政貞が隣へ並ぶ。


「殿。」


「なんだ。」


「魚のお味はいかがでした。」


氏治は思わず笑った。


「あれか。」


「正直、泥臭かった。」


政貞も吹き出した。


「やはり。」


「だがな。」


氏治は霞ヶ浦を眺めた。


「泥の味も悪くない。」


「生きている味だからな。」


冬風が二人の間を吹き抜ける。


寒さは変わらない。


暮らしも苦しい。


明日どうなるかも分からない。


それでも氏治は前を向いていた。


城を失った。


領地も失った。


しかし、家臣は残った。


領民も残った。


そして、自分にはまだ打つべき手がある。


氏治はゆっくりと城へ背を向ける。


「さあ、忙しくなるぞ。」


その声に、政貞は静かに笑った。


「はい、殿。」


戦は、まだ終わっていない。


土浦城には、小田家再興を諦めない者たちの足音が、今日も絶えることなく響いていた。

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