第8話 元旦の悪夢、小田城との永遠の別れ
「めでたいな。今年こそ、小田にも春が来る。」
天正元年(1573年)元旦。
小田城の広間には、久しく忘れていた笑い声が響いていた。
酒が注がれ、焼き魚の香りが漂う。
家臣たちは肩の力を抜き、盃を重ねている。
幾度となく落城し、幾度となく奪い返した城だった。
佐竹義重に敗れたあとも、氏治は土浦城を拠点に各地を転戦し、夜襲を繰り返し、補給路を断ち、領民と国人たちの力を借りながら再び小田城を取り戻した。
何度負けても帰ってくる。
それが、もはや小田氏治という男だった。
「殿。」
菅谷政貞が盃を差し出す。
「今年こそ、佐竹も簡単には参りますまい。」
氏治は照れくさそうに笑った。
「そうだと嬉しいんだけどな。」
家臣たちから笑いが起こる。
「ですが、義重は鬼です。」
「油断だけは禁物にございます。」
「そうだな。」
氏治は静かに頷いた。
「戦はまだ終わっていない。」
そう口では言ったものの、この日だけは皆の顔から張り詰めた空気が消えていた。
城下でも領民たちが餅を焼き、子どもたちは駆け回り、新しい年を祝っている。
戦国の世にあって、それは何より贅沢な時間だった。
しかし――
その「安堵」こそ、義重が待っていた隙だった。
元旦の深夜。
空気が凍るような静寂を引き裂いたのは、一発の鉄砲だった。
――ドォン。
続いて鐘が鳴る。
「敵襲ッ!」
「佐竹だ!」
物見の絶叫が夜空へ響く。
次の瞬間、城外から無数の松明が現れた。
まるで赤い蛇が城を飲み込むようだった。
「馬鹿な……。」
「元旦だぞ……。」
誰もが信じられなかった。
正月に攻める。
そんな発想そのものがなかった。
だが佐竹義重には、暦も縁起も関係ない。
勝てる日。
それだけが理由だった。
鉄砲が夜を裂く。
火縄の火が闇に無数の星を描く。
轟音。
悲鳴。
炎。
わずか数刻で、小田城は修羅場へ変わった。
「殿!」
氏治は鎧を身に着ける間も惜しみ、太刀だけを掴んで飛び出した。
「持ち場を離れるな!」
「城門を守れ!」
兵たちも必死に応じる。
だが、酔いも覚めぬまま叩き起こされた兵では、完全に準備を整えた佐竹軍に太刀打ちできない。
城門が破られる。
鉄砲隊が雪崩れ込む。
炎はたちまち天守へ迫った。
「押し返せ!」
氏治は敵兵を斬り伏せる。
その姿を見て兵たちも奮戦する。
しかし、一人倒しても二人。
二人倒しても五人。
まるで終わりが見えない。
「殿!」
政貞が駆け寄った。
「もはや城は持ちませぬ!」
「まだだ!」
「まだ戦える!」
「ここで逃げれば小田城が!」
政貞は氏治の肩を掴んだ。
「だからこそです!」
「殿まで討たれては、小田家が終わります!」
氏治は答えられなかった。
振り返る。
燃え上がる天守。
崩れる櫓。
逃げ惑う領民。
泣き叫ぶ子どもの声。
守りたかった景色が、音を立てて崩れていく。
「……撤退だ。」
その一言を絞り出すまでに、長い時間がかかった。
夜明け。
氏治たちは小高い丘まで退いていた。
誰も口を開かない。
眼下には、小田城。
朝日に照らされながら、それでもなお炎を上げていた。
煙は空高く昇り、何百年と小田氏が守り続けてきた城を静かに覆っていく。
氏治は黙って見つめていた。
これまでにも城は失った。
何度も失った。
だが、そのたびに帰ってきた。
だから負けても笑えた。
「また取り返そう。」
そう言えた。
しかし今回は違う。
佐竹軍は石垣を崩し、櫓を壊し、堀を埋め、小田城という存在そのものを消そうとしていた。
もう戻れない。
もう帰る城はない。
その現実だけが、胸へ重くのしかかる。
氏治はゆっくり膝をついた。
握り締めた土が指の間から零れる。
「……すまん。」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
先祖へか。
家臣へか。
領民へか。
あるいは、小田そのものへか。
ぽたり、と土へ雫が落ちた。
もう一滴。
さらに一滴。
氏治は黙ったまま涙を流していた。
誰も声を掛けられない。
政貞も。
家臣たちも。
ただ主君の背中を見つめることしかできなかった。
長い沈黙が流れる。
やがて氏治は袖で涙を拭いた。
ゆっくり立ち上がる。
もう一度だけ、小田城を見る。
そして静かに笑った。
「……まだ、生きているな。」
家臣たちが顔を上げる。
「城はなくなった。」
「先祖から受け継いだ土地も失った。」
「だが、お前たちはいる。」
一人ひとりの顔を見渡す。
「政貞も。」
「皆も。」
「こうして生きている。」
氏治は空を見上げた。
冬の空は、どこまでも青かった。
「なら、終わりじゃない。」
「生きていれば、人は何度でもやり直せる。」
その言葉に、政貞は静かに頭を下げた。
「……御意。」
やがて一人。
また一人と家臣たちも頷く。
彼らはもう、小田城を見ていなかった。
見つめていたのは、氏治の背中だった。
氏治は馬へ跨がる。
もう振り返らない。
「行こう。」
その一言だけだった。
家臣たちは何も答えない。
だが全員が黙って馬首を主君へ向けた。
その姿に迷いはなかった。
こうして天正元年元旦。
小田氏治は、先祖伝来の居城・小田城を永久に失った。
だが、この日失われなかったものがある。
何度敗れても前を向く主君と、その背中を信じ続ける家臣たちの絆だった。
城を失っても、人は失わなかった。
だから氏治の戦いは、まだ終わらない。
むしろここから、「城なき大名・小田氏治」の、本当の戦いが始まるのである。




