第5話 越後の龍、三国峠を越えてくる
永禄七年。
「越後の龍が動いた。」
その知らせだけで、関東中の国衆がざわついた。
上杉謙信。
その名は、敵味方を問わず恐れられていた。
「殿。」
政貞が静かに口を開く。
「降りましょう。」
氏治は顔をしかめた。
「嫌だべ。」
「相手は軍神にございます。」
「軍神でも何でもいい。」
氏治は軍扇を机へ置く。
「小田城は俺の家だ。」
「家を明け渡せなんて言われて、『はいそうですか』とは言えないべ。」
政貞は額を押さえた。
「そう申されると思っておりました。」
やがて。
「毘」の旗が筑波の麓を埋め尽くした。
見渡す限り上杉軍。
兵の数も。
士気も。
すべてが違う。
それでも氏治は城壁へ立った。
「みんな!」
「名門小田の意地を見せるべ!」
兵たちが声を上げる。
戦いは始まった。
しかし――。
「あっ。」
西門が破られた。
「あっ。」
本丸が燃えた。
「あっ。」
敵が城内へ入ってきた。
「……早くない?」
氏治がつぶやく。
政貞は真顔だった。
「殿。」
「逃げましょう。」
「そうだね。」
その判断だけは早かった。
藤沢城。
氏治は縁側へ座り込み、肩を落としていた。
「あの人、強すぎるべ……。」
誰も返事ができない。
数日後。
物見が駆け込んできた。
「ご注進!」
「上杉勢、越後へ引き揚げました!」
氏治は飛び起きた。
「本当か!」
「はい!」
「よし!」
勢いよく立ち上がる。
「城を取り返すべ!」
家臣たちは固まった。
「……殿。」
政貞が聞き返す。
「つい先日まで負けておられましたよね。」
「負けた。」
「城も取られました。」
「はい。」
「でも。」
氏治は笑う。
「もう帰ったんだろ?」
「だったら家へ帰るべ。」
あまりにも当たり前のように言うので、家臣たちは顔を見合わせた。
そして。
誰からともなく笑いが漏れる。
「まったく。」
政貞も笑った。
「これほど立ち直りの早い殿は、日ノ本広しといえど他におりますまい。」
小田軍はすぐさま動いた。
留守を預かる兵は、まさか敗走したばかりの氏治が戻ってくるとは思ってもいない。
小田軍は城へ迫る。
「若殿だ!」
城下の人々が歓声を上げる。
その声に押されるように、小田軍は城門を突破した。
夕暮れ。
再び小田家の旗が城壁へ翻る。
氏治は大きく息をついた。
「やっぱり。」
「ここが一番落ち着くべ。」
領民たちは笑った。
家臣たちは苦笑した。
何度負けても。
何度城を失っても。
この人は必ず帰ってくる。
その姿が、いつしか人々に勇気を与えるようになっていた。




